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ザーン市での一日

馬車を使えば、ザーン市まではせいぜい十五分ほどだ。

けれど俺と美影、そして静姝は、あえて馬車を使わず――走って向かうことにした。

走ったとはいえ、俺の感覚では四十五分ほどで到着したと思う。

市門が見えてきた頃には、静姝は息を切らし、肩で大きく呼吸をしていた。一方で、俺と美影はというと、ほとんど汗もかいていなかった。

「て、てっきり……はぁ、はぁ……今日は……運動しない……って……」

静姝は、大きく息を吸い込みながら抗議する。

「してないぞ」と俺は答えた。

美影も頷く。

「これはただの準備運動よ」

「こ、これが……はぁ……準備運動……?」

「そうだ」

「その通り」

「……二人とも……おかしいわ……」

そう言われて、俺と美影は顔を見合わせて笑った。

どうやら“おかしい”と言われるのは、褒め言葉として受け取るべきらしい。

静姝はため息をつき、額に張り付いた汗で濡れた前髪を手で払った。

貴族の令嬢たちみたいに化粧をしていないのは、こういう時に本当に助かる。

もし化粧をしていたら、今ごろ顔中がひどいことになっていただろう。

……まあ、これも良い思い出になるはずだ。

ザーン市は今日も賑やかだった。

南門から中へ入った瞬間、俺たちは市井の人々の日常に一気に飲み込まれた。

少年たちの集団が笑い声を上げながら通りを駆け抜けていく。

道端では数人の女性が立ち話に花を咲かせ、少し先では、年老いた男二人が卓を挟んで象棋を指していた。

焼きたてのパンの香りが風に乗って漂ってきて、俺は思わず深く息を吸い込む。

……腹、減ったな。

「何か軽く食べようぜ」と俺は言った。

「食いしん坊ね」と美影がからかう。

「まるでお前はお腹が空いてないみたいな言い方だな」

その瞬間、周囲にはっきり聞こえる音が響いた。

ぐうぅ――。

音の主は、美影ではなかった。

俺と美影は同時に静姝の方を見る。

彼女は顔を真っ赤にして、まるで祭りの篝火みたいになっていた。

「い、今のは仕方ないでしょう……! あんなに走った後なんだから……」

そう言って、ぷいっと顔を背ける。

「まあ、確かにね」と美影は認めた。

「でも、からかうけどな」と俺は付け加える。

「どうしてよ!?」

「楽しいから」

「そうそう」

二人同時の返答に、静姝はむっと唇を尖らせた。

俺たちは、いくつもの具が入った蒸し饅頭を籠いっぱいに買った。

俺は豚肉入りの惣菜饅頭。

美影はあんこ。

静姝は黒胡麻餡がお気に入りらしい。

歩きながら饅頭にかぶりつくと、肉の旨味と香辛料の風味が口いっぱいに広がる。

目的地も決めず、ただ三人で並んで歩くこの時間が、妙に心地よかった。

「食べ終わったら、薬舗にも寄りたいな。何か良いものがあるかもしれない」

俺がそう言うと、二人はそれぞれ頷いた。

「それじゃあ、薬舗を見た後で図書館にも行こうか」

そう言ってから、美影は静姝の方を見た。

「静姝は、どこか行ってみたい場所ある?」

「特にはないわね」

静姝は首を横に振った。「どこかへ行く、というより……街の雰囲気を味わえたらそれで満足よ」

「じゃあ、用事が済んだらぶらぶら歩くことにしよう」

そう決めて、俺たちは地元の薬舗へ向かった。

店の名は《温寿薬舗(ウォン・ジューの薬屋)》だ。

中へ入った瞬間、鼻を突くほど強烈な薬草の香りが広がる。

あまりに濃くて、静姝は思わず咳き込み、袖で口元を押さえた。

それを見て、俺と美影は顔を見合わせて笑う。

俺たちも、初めてここに来た時はまったく同じ反応をしたからだ。

「おや、これはこれは。剣公子に美影公主じゃないか。ようこそ、ようこそ」

カウンターの向こうから声をかけてきたのは、この店の主人――温寿だった。

背は高く細身で、顔の横に垂れた茶色の髪と鋭い目つきのせいで、初見だと胡散臭い商人に見えるかもしれない。

けれど、俺と美影はもう何年もここに通っている。

この男が一度たりとも俺たちを騙そうとしたことはない。

「温寿、久しぶり。何か新しいものはあるか?」

俺はカウンターへ歩み寄りながら声をかけた。

静姝は袖で鼻を覆ったまま、棚にずらりと並ぶ薬材の瓶を興味深そうに眺めている。

「何か気になるものでもあった?」と、美影が彼女に尋ねた。

「いえ、違います」

静姝は首を横に振った。「ただ、どうしてこれらの薬材が翡翠の容器や空間箱に封じられていないのか、不思議に思っただけです」

美影は肩をすくめた。

「たぶん、ここが都じゃないからでしょうね。翡翠の容器や空間箱なら何百年も鮮度を保てるけど、その分とても高価だもの。呉家でも、翡翠壺を一つ持てるかどうかってところじゃない?」

「……なるほど」

静姝は小さく頷いた。「費用のことまで考えていませんでした」

温寿は首を振り、俺の方を見て言った。

「残念だが、今日は新しい入荷はない。大華市の仕入れ先が、ここ数か月ほとんど品を送ってこなくてな」

「それは残念だな」

俺はそう言ってから続けた。「じゃあ、いつものを頼む」

「もちろんだ」

「それと、回復丹をもう一組追加で」

温寿は美影と静姝に視線を走らせ、それから俺に意味ありげな笑みを向けた。

「ほう? 花一輪につき一組ってわけか。若いのに、ずいぶん気前がいいじゃないか。両腕に一人ずつ抱えてる理由もわかる」

静姝はその言葉に赤くなって顔を背けたが、美影は面白そうににやりと笑った。

俺は、表向きは気にしていないふりをして、温寿の言葉を流す。

「……いくらだ?」

「回復丹三組で、銀の霊石十六枚だな」

「思ったより三枚多いな」

温寿は肩をすくめた。

「さっき言っただろう? 仕入れが滞ってる。こっちも在庫が心許ないんだ」

「……うーん。わかった」

銀の霊石十六枚は正直高い。今週の小遣いの残りは、ほぼ確実に吹き飛ぶ。

それでも俺は支払いを済ませた。

代わりに渡されたのは、飾り気のない箱が三つ。見た目は地味だが、中身は錬丹師が作った回復丹だ。

作ったのは見習い程度の錬丹師だったのだろう。だからこそ安く、だからこそこんな辺境の店にも置ける。

回復丹は比較的簡単な部類の丹薬で、下位の見習いでも精製できると聞いている。

「毎度あり。ぜひまた来てくれ」

温寿に見送られ、俺たちは店を後にした。

「……こんなに安い丹薬で、本当に効果があるんですか?」

静姝が少し不安そうに尋ねてくる。

尚国の皇女である彼女は、質の高い丹薬に慣れている。

呉爺爺は彼女の強さを“完全体質”のせいだと言っていたが、俺はそれだけじゃないと思っている。

王である父上が、努力せずとも身体能力が伸びるような丹薬を惜しみなく与えていた――それも大きいはずだ。

「俺と美影は、もう何年もこういう丹薬を飲んできた」

そう言って、肩をすくめる。

「それで、この強さだ。どう思う?」

「……確かに」

静姝は小さく頷いた。

呉美影と俺は、静姝よりも強い。

それは、彼女自身も否定できない事実だ。

そうして通りを歩いていると――

突然、どこかから大きな怒鳴り声が響いた。

「こんなゴミを売りつけやがって! 俺を誰だと思っている?!

この落とし前、地面に這いつくばって俺を父上と呼ばせてやる!」

怒声に、俺たちは同時に振り返った。

そこには、屋台を蹴り倒され、地面に膝と手をついて何度も頭を下げている行商人がいた。

その前に立っているのは、片脚を蹴り出したままの若い男――明申だ。

しかも、今日は一人じゃない。

左右には明家の者たちが数人控えている。顔は見覚えがないが、同族なのは間違いない。

そして、もう一人。

赤茶色の長い髪を、頭の周りに輪を描くように編み込んだ美しい少女が、明申のすぐそばに立っていた。

白磁のように透き通った顔立ち、白鳥を思わせる首筋と鎖骨、そして扇を持つ細く優雅な指。

戦扇で口元を隠してはいたが、その奥で――彼女は確かに、楽しそうに笑っていた。

彼女の衣は、美影や静姝が着ている漢服よりもはるかに凝ったものだった。

幾重にも重なった赤い布地に、金糸で縫い取られた龍が、まるで身体を這い上がるように描かれている。

一目で大金がかかっているとわかるが……正直、俺の目には少し下品に映った。

「明申ね……しかも今日は一人じゃないわ。

あの女は**巨石美鈴ジュイシ・メイリン**よ」

美影が、露骨に顔をしかめて言った。

俺は小さく息を吐く。

「……行こう。反対側に回ろう。

あいつらとは関わらない方がいい」

そう言った――はずだった。

けれど、その言葉が完全に終わる前に、静姝の気配が横を離れた。

俺がそれに気づいたのは――

「――やめなさい!」

その叫び声が、耳に届いた時だった。

「あなたたち、何をしているつもり?!

今すぐやめなさい! 野蛮人みたいな振る舞いは慎むべきよ!」

何度か瞬きをして、俺はようやく状況を理解した。

静姝は、いつの間にか俺の隣を離れ、明家の連中と――そして巨石美鈴の前に立っていた。

思わず顔をしかめる。

だが、隣を見ると、美影は困ったように肩をすくめながらも、俺に向かって微笑んでいた。

「行きましょ。助けないわけにはいかないでしょ?」

彼女は小さく言った。

「それに、あの甘やかされたクズが、この街で好き放題するのを見るのは、前から気に入らなかったのよ」

俺は内心で舌打ちした。

本当なら、こんな厄介事には関わりたくなかった。

面倒しか生まないし、良い結果になることなんてまずない。

だが――明申のやっていることは、さすがに看過できない。

母親の腐った乳の匂いが、まだ抜けきっていないようなガキが、力を笠に着て人を踏みにじる。

そんな真似を、俺は認める気はなかった。

「仕方ないな……」

俺は小さく息を吐いた。

「父上に叱られるのは御免だが、もう放っておけない。

ここで一度、立場をわからせるしかない」

胸の奥に、静かな炎が灯るのを感じながら、俺と美影は静姝のもとへ歩み寄った。

彼女を挟むように、左右に並ぶ。

その瞬間、明申と美鈴が、こちらを向いた。

――避けられない。

これは、もう対峙するしかない状況だった。

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