間一髪(イン・ザ・ニック・オブ・タイム)
俺は、先ほどまで着ていた軽装ではなく、より正式な漢服に着替えていた。
白地の衣には、銀の意匠が流れるように描かれており、桜の花を抱くように龍がとぐろを巻いている。
食堂の前に立ち、俺は呉美影と侯静姝を待っていた。
通りがかる人々が次々と頭を下げてくる。俺は一人ひとりに軽く頷いて応えたが、意識の大半は二人の姿を探すことに向けられていた。
やがて侯静姝がこちらへ歩いてくる。
声をかけようとした、その瞬間――彼女の表情に気づいた。
「……どうかしたか?」
「わからないの。ただ……一族の長老たちが、呉美影を呼び出したの」
彼女は少し言いよどみ、それから続けた。
「大したことじゃないのかもしれないけれど……胸騒ぎがするの。何か、嫌な感じがして……」
長老たちが、美影を?
俺は視線を食堂の奥へ向けた。
長卓の端に座っていたのは、呉錦守長老だけだ。
父も、母も、桃花姑姑もいない。他の長老たちの姿も見当たらなかった。
父上が理由もなく美影を呼ぶはずがない。
それに、重要な話であれば、呉二長老を外すこともないはずだ。
胸の奥に、嫌な重みが沈んだ。
「母上を探そう」
俺は静かに言った。
「事情を知っているはずだ」
侯静姝は何も言わず、俺の後についてきた。
回廊を抜け、医療棟へ向かう。
扉を開き、母が普段使っている部屋へ入った瞬間――
中には、呉少林、母上、桃花姑姑、そして父上の姿があった。
父上の背には血が滲んでいる。
母と呉少林が手当てをしており、どうやら強力な魔獣に引っかかれたようだった。
「剣? 静姝?」
母上がこちらに気づき、驚いたように声を上げる。
「二人とも、どうしたの?」
――嫌な予感が、確信へと変わりつつあった。
俺は答えず、父上をじっと見つめた。
「……父上。
呉美影を呼び出したりはしていませんよね?」
突拍子もない問いだったのだろう。父上は眉をひそめた。
「していない。
西牙山(ウエスト・ファング山)から戻ってきたばかりだ。戻ってからは、ここを一歩も離れていない」
その言葉を聞いた瞬間、胃の奥に冷たいものが込み上げてきた。
――やはり、あの男だ。
俺はすぐに、侯静姝が見たこと、聞いたことを父上に伝えた。
話を聞き終えたとき、父上、母上、そして桃花姑姑の顔には、はっきりとした怒りが浮かんでいた。
「……あの老いぼれ、ますます焦っているようだな」
父上は立ち上がった。
「そろそろ、きちんと立場を思い出させてやる必要がある」
「剣宝、そんなに急がないで」
母上が制止する。
「まだ怪我が完全に塞がっていないわ。少なくとも、きちんと手当てをしてからにして」
俺は一瞬、後でいいと言いかけたが、口を閉じた。
母上の言う通りだ。今ここで無理をすれば、事態を悪化させるだけだ。
俺は壁に背を預け、治療が終わるのを待った。
隣では侯静姝が、落ち着かない様子で両手を握りしめている。
やがて、母上と呉少林が治療を終え、父上の胴に包帯を巻き終えた。
父上は立ち上がり、漢服を羽織る。胸元は開いたままだったが、構わないらしい。
そして父上は、侯静姝へと視線を向けた。
「呉美影が連れて行かれた場所に、心当たりはあるか?」
侯静姝は首を横に振り、そしてはっとしたように言った。
「あ……大きな建物の方へ、向かっていました」
――会議殿か。
嫌な予感が、確信へと変わった。
「……会議殿だ」
父上は、遠雷のように低く唸る声でそう言った。
それ以上、誰の言葉も待たず、父上は治療室を飛び出した。
俺と他の皆は慌てて後を追い、当主の背中を先頭に、一列になって会議殿へと向かう。
到着したとき、会議殿の扉は固く閉ざされていた。
入口には二人の警護が立っており、父上たちの姿を見て明らかに動揺した様子を見せたが、それでも慌てて頭を下げる。
「よ、用事宗主……お戻りが早かったのですね。
西牙山はいかがでしたか? また希少な霊材は見つかりましたか?」
その問いに、父上は一瞥をくれただけだった。
「どけ」
鋭く、短い命令。
「え……よ、用事宗主、どうかお聞きください。
こ、これは……呉大長老から、誰も中へ通すなと命じられておりまして……
私的な用事があると――」
「ほう?」
父上の目が、細く鋭くなる。
「一介の長老の命が、当主である私の命より重いと、そう言いたいのか?」
その一言で、警護の二人は完全に青ざめた。
顔から血の気が引き、身体が木の葉のように震え出す。
「い、いえっ! 決してそのような――」
「もう一度だけ言う」
父上の声が、氷のように冷え切る。
「――どけ。今すぐだ」
俺は昔から、父上の放つ威圧感が苦手だった。
だが今は、その存在が頼もしくて仕方がなかった。
二人の警護は、もはや逆らえないと悟り、慌てて道を空ける。
父上は一切の躊躇もなく前へ進み、両手を扉に当てて押した。
……びくともしない。
施錠されている。
一瞬、父上は眉をひそめたが、次の瞬間、さらに力を込めた。
――バキィッ!!
鈍く、しかしはっきりとした破砕音が響く。
内側の錠が耐えきれず砕け、重い扉が無理やりこじ開けられた。
父上はそのまま会議殿へと踏み込み、
俺たちも、息を呑みながらその背中に続いた。
会議殿の中で俺が目にした光景に、血が一気に沸き立った。
呉威と呉忍が、呉美影を追い詰めていたのだ。
何が起きていたのか細かいことまでは分からなかったが、
あれが“話し合い”などではないことだけは、誰の目にも明らかだった。
二人は圧力と威圧で、彼女を無理やり従わせようとしていた。
隣で、侯静姝が思わず口元を押さえ、息を呑むのが分かった。
父上の放つ殺気じみた視線に晒され、二人の長老はその場で凍りついた。
一歩でも間違えれば、取り返しのつかない結果になる――
そのことを、本能的に理解している顔だった。
だが、さすがは百年近く生きてきた老獪な男だ。
呉威はすぐに立て直し、いつもの作り笑顔を父上へ向けた。
「用事宗主、ずいぶんお早いお戻りですな。
西牙山で何か問題でもありましたかな?」
「お前が気にする必要はない」
父上は冷ややかに言い放つ。
「それより――これはどういう状況だ?」
「大したことではありませんよ。大したことでは」
呉威は肩をすくめた。
「ただ、少しばかり呉美影と話をしていただけです」
そう言いながら、呉威はまるで孫娘にでもするかのように、
呉美影の頭へ手を伸ばした。
――パシッ。
彼女は即座に、その手を払いのけた。
「この人は、私に力を使えって無理強いしてきました」
呉美影は、はっきりとした声で言った。
「私に制御できないと、何度も説明したのに」
確かに口を挟む形にはなったが、
彼女の立場と、そして何より“被害者”であるという事実が、
この場では彼女の発言を正当なものにしていた。
「……そうか?」
父上は呉威を睨みつけ、目を細める。
「説明してもらおうか、長老。
制御不能だと既に分かっている力を、
なぜ無理やり使わせようとしたのか――
私はぜひ、その理由を聞きたい」
会議殿の空気が、凍りついた。
「私が彼女にそんなことを強要したという証拠が、どこにありますかな?
あるのは、彼女の言葉だけでしょう」
呉威はそう言い返した。
その表情はわずかにひび割れていたが、まだ平静を装っている。
「私はただ話をしたかっただけです。
仮に能力の使用をお願いしたとしても、それ自体は族の法に反しておりません」
「そうか」
父上は短く答えた。
「では、もう話は済んだな。今すぐ立ち去れ。
そして――今後一切、呉美影に近づくな。
彼女と話すことも、視界に入ることも許さん。
……分かったか?」
その言葉は命令だった。
反論の余地など、どこにもない。
呉威の顔が醜く歪んだのを、俺は見逃さなかった。
だが、彼は飲み込んだ。
言葉も、怒りも、すべてを。
一度だけ深く息を吸い、彼は頭を下げた。
「……承知しました、用事宗主」
そう言って、静かに踵を返す。
呉忍は数秒だけその場に留まり、
何か言いたげな視線を残してから、同じように後を追った。
二人が俺の横を通り過ぎ、扉の向こうへ消えていくのを、
俺は警戒を解かずに見送った。
――何を企んでいたのか、正確なところは分からない。
だが、これで終わりだとは、とても思えなかった。
あの二人は、必ずまた動く。
そんな予感だけが、胸の奥に重く残っていた。




