呉威の策謀 彼がどこへ向かっているのか、注意深く観察しながら歩く。
やがて辿り着いたのは――議事堂だった。
(……ここ?)
ほんの少しだけ安堵しかけた、その瞬間だった。
彼女が中へ足を踏み入れた途端、背後でバンッと扉が閉じられる。
思わず肩が強張る。
室内は、普段よりも薄暗かった。
いくつかの天灯が宙を漂い、かろうじて内部を照らしているが、それでも全体を見渡すには心許ない。
柱の影は不自然なほど長く伸び、床や壁に濃い闇を落としていた。
そして、広間の奥――
二つの人影が、静かに立っている。
どちらも年老いた男だった。
白くなった髪、深く刻まれた皺。
呉美影はすぐに彼らの正体を理解した。
――呉威。
――呉仁。
呉一族の第一長老と第二長老。
(……やっぱり、あなただったのね)
彼女が内心で嫌悪を抱いている、数少ない存在。
「族長と長老方が私に用があると聞いたけれど……ここにいるのは、あなたたち二人だけね。これはどういう意味かしら?」
呉美影は眉をひそめ、はっきりと問いかけた。
すると、呉威が両腕を広げ、さも無実であるかのように言った。
「どういう意味とは何だ? 呉明は“族長”が来るなど、一言も言っていなかったはずだが?」
その言葉に、呉美影はぐっと下唇を噛んだ。
――確かに。
そう言われてみれば、彼は族長が来るとは言っていない。
呉威は、にたりと笑った。
だが、それは決して愉快な笑みではなかった。
むしろ――背筋がぞわりと粟立つような、不快な笑顔。
(……嫌な感じがする)
呉美影は無言のまま、静かに二人を見据えた。
「そう身構えることはないだろう、美影……いや、美影」
呉威は、まるで孫娘を諭すかのような、いかにも祖父然とした声音で言った。
「我々は同じ呉一族の一員だ。少し話をしたいだけだよ」
「それは――**呉用志叔父**の許可を得てのことかしら?」
呉美影は、微塵も揺らがぬ視線で問い返した。
「その点は、気にする必要はない」
その言い方で、すべて察せてしまった。
形式上、彼女を呼び出すこと自体は族規に反していない。だが族長は、自分の許可なく美影を単独で呼び出すなと、明確に通達していたはずだ。
――つまり、許可は取っていない。
胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がる。
それでも呉美影は一歩、前へ出た。
(逃げ場はない。……それに、私に危害を加えることはできない)
未来視という切り札。
それほどまでに、彼女の価値は高い。
「……その呼び方はやめてください」
声は冷え切っていた。
「私を“美影”と呼んでいいのは、剣と、藍蓮阿姨だけです」
その瞬間、呉威の右眉がぴくりと跳ね、こめかみに血管が浮かんだ。
だが彼はすぐに深く息を吸い、再び――祖父が聞き分けのない孫を見るような笑みを作った。
それが、どうしようもなく不快だった。
(……やっぱり。この人の笑顔、嫌い)
理由は、はっきりしている。
呉威は、何の見返りもなく、こんな笑みを浮かべる男ではない。
――欲しいものがあるのだ。
「名で呼ぶことが、特別な者にのみ許された“権利”だとは知らなかったよ。今後は気をつけよう」
「必ず、そうしてください」
呉美影は一歩も退かず、静かに言い切った。
「……それで? 用件は何ですか。なぜ私を呼び出したのですか」
薄暗い議事堂の空気が、さらに重く沈んだ。
「……分からぬとでも思ったか?」
呉威は両腕を大きく広げた。九十を超える老体でありながら、背筋はまっすぐに伸び、その立ち姿には衰えを感じさせない威圧感があった。
「お前のその“特別な力”を使い、わしのために未来を占え。それだけだ」
呉美影は小さく溜息を吐いた。
「やはり、その件でしたか」
冷え切った視線を向ける。
「以前にも申し上げたはずです。私の力は任意で発動できるものではありません。何を見るかも、いつ見るかも、私自身には一切の制御ができない」
「ふむ……それは、族長に能力を利用されるのを恐れての方便だろう」
呉威は宥めるような口調で言った。
「分かっておる。もし自在に未来を視られると知られれば、**呉用志**は間違いなく、その力を骨の髄まで使い倒す。だからこそ、嘘をついているのだろう」
一歩、近づく。
「安心せよ。わしは違う。知りたいのはただ一つ。それが済めば、二度とこのような頼みはせぬ」
――人は、希少な力を前にすれば、必ず欲を抱く。
呉美影は、未来視の力が明るみに出たときから、この瞬間を恐れていた。
本来なら、彼女は何も語るつもりはなかった。
だが――
明神に嫁がされる未来を視てしまった。
それを避けるため、彼女は力を明かした。
そうすることで、自分を“代えの利かない存在”にしたのだ。
呉一族は、もう彼女を外に出さない。
その判断は、彼女を守ると同時に、縛る鎖にもなった。
「残念ですが……私は嘘をついていません」
呉美影は、きっぱりと言い切った。
「私の未来視は制御不能です。啓示は、ランダムに訪れるだけ。
もし私が未来を自由に視られるのなら――とっくにその力を使って、剣を族長にしています」
一歩も退かず、静かに告げる。
「呉大長老。あなたは、私の時間も、あなた自身の時間も無駄にしています」
呉美影は、呉威の顔に浮かんだ暗い表情を見て、背筋に小さな戦慄が走るのを感じた。
――知っている。この顔。
それは、思い通りにならぬ者を前にしたときの表情だった。
この男は、もう引かない。
どれほど言葉を尽くしても、彼は信じない。
そして――思うようにならなければ、強硬手段に出る。
だが、呉美影は本当に嘘をついていなかった。
彼女は自分の力を制御できない。
それは、おそらく彼女がまだ鍛体境に過ぎないからだ。
気を自在に操れず、技を使うことすらできない今の彼女に、未来視を操る術などあるはずもない。
そもそも、なぜ自分が未来を視られるのか――
彼女自身、それを理解していなかった。
それは生まれつき備わった、ただ一つの異能。
理由も理屈も分からない、説明不能な力だった。
「小娘……わしを欺いていると思っている」
呉威は低く、陰鬱な声で言った。
漂う灯籠の影が彼の顔に濃い陰影を落とし、白い肌と深い皺を強調する。
その姿は、どこか妖異じみて見えた。
「素直に従うことだ。そうすれば、お前のためにもなる」
呉美影は目を細めた。
「……それは、脅しですか?」
「脅し? 事実を告げているだけだ」
呉威は鼻で笑う。
「お前はまだ子どもだ。この世の仕組みを理解しておらん。
今は価値があるだろう。だが成人すれば、女としての価値しか残らん」
胸が、冷たくなる。
「呉用志は、お前を分家の男に嫁がせ、
一族に縛りつけるだろう。
一方で――お前の愛する呉剣は、侯静姝姫を娶る」
呉美影の心臓が、きゅっと締めつけられた。
「……それは、望まぬ未来だろう?
だからこそ、わしに協力するのだ。
そうすれば、呉剣と永遠に共にいられるよう、取り計らってやろう」
甘い言葉。
だが――呉美影は、そんな誘いに騙されるほど愚かではなかった。
この男が欲しているのは、族長の座。
彼女の力を使い、用志叔叔を引きずり下ろすつもりなのだ。
もし協力すれば、どうなるかは明白だった。
彼女は孫に嫁がされ、
呉剣は――追放されるか、殺される。
前の継承者を生かしておくなど、あまりにも危険すぎる。
――その考えを裏付けるかのように。
突如、視界が揺らいだ。
豪奢な婚礼衣装を纏う、自分自身。
だが、その瞳は虚ろで、表情は壊れていた。
隣に立つ男は――愛する人ではない。
呉美影は瞬きを数回し、
その光景が煙のように霧散するのを感じた。
――やはり、そうなる。
(剣と静姝なら、きっと異変に気づく)
(用志叔叔を連れて、ここへ来てくれる)
今の彼女にできることは、ただ一つ。
時間を稼ぐこと。
呉威は、何度言っても信じない。
力を欲する者は、信じたいものしか信じない。
耳を傾けるのは、己に都合のいい言葉だけだ。
だからこそ――
彼女は、ここで耐えねばならない。
助けが来るまで。
来なかったら……その先は、考えたくなかった。




