努力の成果(ザ・リザルツ・オブ・ハードワーク)
障子戸がすっと閉まり、
室内には侯静姝と呉愛蓮だけが残された。
静姝は寝台に横になったまま、
呉剣の母――呉愛蓮をそっと観察していた。
色白で、物腰の柔らかなその女性は、
静姝の探るような視線など気にも留めていない様子で、
ただ穏やかな笑みを浮かべている。
「筋肉が、かなり酷使されているみたいね」
呉愛蓮が言った。
「美影の修練についていこうとしたのでしょう?」
静姝は、その視線をまともに受け止められず、
思わず目を逸らしてしまう。
「……どうして、分かったんですか?」
小さく問いかける。
「ほとんど身体が動いていないこと以外に?」
呉愛蓮は、からかうような声音で言った。
「筋肉が腫れているの。
無理をして使いすぎると、こういうことがあるのよ。
人の身体の仕組みは、知っている?」
静姝は首を横に振った。
人体の構造など、これまで学ぶ機会はなかった。
「運動をするとね、筋肉には細かい傷ができるの」
呉愛蓮は穏やかに説明する。
「それを修復するために、身体は栄養を含んだ水分を大量に送り込む。
その結果、筋肉が一時的に膨らむことがあるのよ。
――それを“炎症”と言うの」
そう話しながら、
呉愛蓮は戸棚へ向かい、
緑色の薬膏が入った小瓶を取り出した。
治療用の軟膏だ、と静姝は気づく。
丹師が精製する治癒丹には及ばないが、
それでも十分に効果のあるものだ。
――そういえば、兄上が言っていた。
田舎では丹師はほとんどいない、と。
儲けが少なく、わざわざ来る者がいないのだと。
呉愛蓮はその薬を床に置き、
静姝に向かってにこりと笑った。
「少し染みるかもしれないけど、
ちゃんと効くから安心してね」
「さあ、服を脱ぎましょう。
この治療用の軟膏を肌に塗れば、炎症が引いていくはずよ。
それから、筋肉の凝りをほぐすために軽く揉んであげるわ。
回復も早くなるから」
侯静姝は、呉愛蓮に裸を見られることに少なからず気恥ずかしさを覚えた。
だが、呉愛蓮の所作には一切の迷いも、余計な感情もない。
その様子はまさに熟練の治療師そのものだった。
衣服を外すと、
呉愛蓮はすぐに小瓶の中の軟膏に指を浸し、
親指、人差し指、中指の三本でそれをすり合わせる。
そして静姝の背に手を当て、
丁寧に、円を描くように軟膏を塗り広げていった。
「あぁ……」
「痛む?」
呉愛蓮が様子をうかがう。
「いえ……でも、少しかゆいです」
「それでいいのよ。
そのかゆみは、薬効が働き始めた証拠だから。
すぐに治まるわ」
「……ん」
そういえば、と静姝は思う。
治療用の軟膏を使うのは、これが初めてだった。
宮廷には専属の丹師がいた。
怪我をすればすぐに彼のもとへ行き、
ほとんど一瞬で治る丹薬を与えられていた。
もっとも――
彼女が怪我をすること自体、ほとんどなかったのだが。
父は常に、彼女が傷つかないよう細心の注意を払っていた。
木登りでさえ禁じられていたほどだ。
やがて、
肌に走っていたむずがゆさは消え、
代わりに、ひんやりとした心地よい感覚が全身に広がっていく。
そのあまりの気持ちよさに、
侯静姝は思わず、ほう……と小さく息を吐いた。
呉愛蓮は軟膏を塗り広げながら、同時に筋肉を揉みほぐし始めた。
腕、太腿、腰、そしてふくらはぎ。
特に負担のかかっている箇所を的確に見抜き、指で奥深くまで押し込んでいく。
「っ……」
親指と指先が凝り固まった筋肉に食い込んだ瞬間、
侯静姝は思わず身体を強張らせた。
だが、その痛みは一瞬だけで、
直後にはじんわりとした解放感が広がっていく。
――いたいけど……効いてる。
その感覚が、はっきりと分かった。
「はい、次はうつ伏せになって」
呉愛蓮にそう言われ、
侯静姝は自力で体を返そうとして失敗し、
結局、手を借りてゆっくりと体勢を変えた。
うつ伏せになると、
再び軟膏が肌に塗られていく。
ひんやりとした感触が背中から広がる中、
侯静姝は、ずっと気になっていたことを口にした。
「……呉剣と、呉美影は……
どれくらい前から修練をしているんですか?」
「呉一族の子どもは、六歳から修練を始めるの。
でも、呉剣が本格的に打ち込むようになったのは八歳頃ね」
そう答えながら、
呉愛蓮は静姝の太腿に親指を押し込んだ。
「……だから、真剣に修練を始めてからは、
だいたい四年、といったところかしら」
「っ……!」
太腿の奥にあった凝りが解され、
思わず声が漏れたが、
その不快感もすぐに消え、
呉愛蓮の手はふくらはぎ、そして足へと移っていく。
「……あの修練って……
ずっと、あんなに激しいんですか?」
修練中、
侯静姝は何度か呉剣の様子を目にしていた。
“過酷”という言葉では生ぬるい。
逆さまに鉄棒へぶら下がって腹筋をしたり、
果ては鉄棒の上で逆立ちし、そのまま腕立て伏せを始めたり。
正直――
正気の沙汰とは思えなかった。
「つまり、
あの子たちの修練が、最初からずっとあんなに厳しかったのか、
そう聞きたいのね?」
呉愛蓮の声には、
どこか含みのある柔らかな響きがあった。
「……はい」
「いいえ。もちろん違うわ。
最初からあの子たちと同じことができるわけがないでしょう。
まずは基礎体力をつけて、少しずつ積み上げていくものよ。
ああいった修練は、その先にあるものなの」
「……そうですよね」
侯静姝は、内心では最初から分かっていた。
それでも、もしかしたら――という淡い期待を抱いていたのだ。
だが、現実はやはり甘くない。
「がっかりした?
自分じゃ、あの子たちには追いつけないと思った?」
呉愛蓮の問いかけに、侯静姝は即座に首を横に振った。
「いいえ。そんなことはありません」
静かだが、芯の通った声だった。
「あれほど強いのだと分かったからこそ……
もっと、もっと修練しようと思えました。
もし……もし私が呉剣と結婚することになるなら、
せめて、隣に立てるくらいには強くなりたいです」
まだ婚約を受け入れきれたわけではない。
だが、受け入れるのが早いほど楽になることも、彼女は理解していた。
それに――
まったく何も感じていない、というわけでもない。
上半身裸の彼を見たとき、
胸が高鳴り、鼓動が早まったこと。
初めて出会ったとき、彼に助けられて感じた安堵と高揚。
その記憶を思い出すだけで、
胸の奥がきゅっと締め付けられ、
頬に熱が集まる。
彼は強い。
彼女が憧れてやまなかった修行者の象徴のような存在で、
鍛え抜かれた身体は、努力の結晶そのものだった。
修行者に憧れる者として――
そんな相手に惹かれないほうが、どうかしている。
「はい、これで全部終わりよ」
呉愛蓮はそう言って立ち上がると、
近くに置いてあった水の入った小さな桶へ向かい、
手を洗い、布で丁寧に拭ってから戻ってきた。
「しばらく休んでから動きなさい。
朝食を持ってきてあげるから。
それから身体を拭いて……
手早くすれば、呉剣と美影の武芸の授業にも間に合うはずよ」
「ありがとうございます、愛蓮様」
そう礼を言いながら、
侯静姝は自分でも驚くほど楽になっていることに気づいた。
先ほどまでは身動きすら取れなかったのに、
今は自力で上半身を起こすことができる。
――武芸の授業……。
純粋に、興味が湧いた。
これまで彼女が行ったのは基礎的な鍛錬だけだ。
だが、二人がどんな戦いをするのか――
それを、この目で見てみたかった。
「それはダメね」
呉愛蓮は人差し指を振り、
いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そんな堅苦しい呼び方。
私たちはもう家族なのだから、
もっと親しい呼び方をしなさい」
「……?」
「そうねぇ……
これからは『お母さん』って呼んだらどう?」
侯静姝は、思わず顔をしかめた。
「……しばらくは、愛蓮様で通します」
「はぁ〜……つれない子ね」
呉愛蓮は、わざとらしく肩を落とした。




