疲れ果てた皇女(エグゾーステッド・プリンセス)
俺は鼻から深く息を吸い、口からゆっくりと吐き出しながら、最後の動きを続けていた。
どの動作も、身体強化を最大限に引き出すために組まれたものだ。
腕、背中、脚、体幹――使える筋肉はすべて使う。
確かに、腕立て伏せは胸に効くし、懸垂は腕や背中に負荷が集中する。だが最終的には、全身が心地よい熱を帯びるまで追い込むのが目的だった。
……そして、今日も例外じゃない。
「はぁ……はぁ……も、もう……無理……。
これ以上……スクワット……できない……」
そんな声が聞こえて、俺は顔を上げた。
「ふむ。とりあえず、今日はここまでかな。
今はまず、基礎の筋力と持久力を鍛える必要があるわね」
「う゛ぅぅぅ……」
視線を向けると、美影が立ったまま指導していて、静姝は仰向けに倒れ込んでいた。
地面の土が髪に付くことも気にせず、胸を大きく上下させながら必死に呼吸している。
額から首筋にかけて汗が流れ落ち、その様子は――正直、かなり限界そうだった。
「……これ……正気じゃない……」
「あんたたち……毎日……これを……?」
息も絶え絶えにそう言う静姝に、美影は真剣な顔でうなずいた。
「基本は週六日。
一日は“動きながら休む”回復日にしてるわ」
静姝は呻くような声を漏らした。
六日間、こんな修練を続ける自分の姿を想像しただけで、心が折れそうになったんだろう。
でも、安心してほしい。
俺と美影は、同じ鍛錬を延々と繰り返したりはしない。
鍛錬に慣れすぎると、集中力が落ちる。
退屈すれば、無意識に手を抜く。
そうなると、成長は一気に鈍る。
だから俺たちは、日ごとに内容を変え、負荷も組み替える。
常に“初めてのきつさ”を味わうために。
――静姝にとっては、今日はその最初の日だ。
俺は息を整えながら、倒れたままの彼女を見た。
苦しそうで、情けなくて、それでも――
不思議と、投げ出す気配はなかった。
(……大丈夫だ)
疲れ切った皇女は、確かに限界だった。
だがその目には、まだ火が残っている。
俺は、そう確信していた。
――この鍛錬で退屈することは、まずないだろうな。
俺は、思わず小さく笑った。
「とにかく、もう限界みたいね。筋肉も相当張ってるはずだし、
これはもう、愛蓮阿姨のところに連れていったほうがいいわ」
そう言ってから、美影は俺のほうを見る。
「ねえ、剣。運んであげられる?」
その瞬間、静姝は慌てて身を起こそうとした。
「えっ!? わ、私なら……じ、自分で――
――っ!? い、痛っ……!」
俺には、その感覚がよく分かる。
限界まで使い切った筋肉は、命令を聞かない。
案の定、静姝は途中で力が抜け、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
顔から地面に突っ伏す、あまりにも無防備で、あまりにも“皇女らしくない”姿だった。
「無理しちゃだめよ」
美影は指を左右に振りながら、たしなめる。
「ここまで痛がってるってことは、
これが人生で初めての本格的な運動ね。
大人しく剣に運んでもらいなさい」
「うぅ……わ、分かりました……。
で、でも……その……や、優しくしてください……」
渋々そう言う静姝に、俺は頷いた。
片手を彼女の膝裏に、もう片方を背中に回し、
できるだけ揺れないよう注意しながら立ち上がる。
軽い――とは思わなかったが、重くもない。
腕の中に収まった静姝は、みるみるうちに顔を真っ赤にした。
一瞬こちらを見たかと思うと、すぐに俺の肩へ顔を埋める。
だが、それでは隠しきれない。
耳も、うなじも、はっきり分かるほど赤く染まっていた。
「……そんなに恥ずかしいか?」
「俺が運ぶの」
そう問いかけると、
静姝は小さく身じろぎしながら、かすれた声で答えた。
「……べ、別に……恥ずかしくなんて……」
――どう見ても、思い切り恥ずかしそうだった。
俺は内心で苦笑しつつ、
そのまま彼女を抱え、修練場を後にした。
「そ、そういうわけじゃ……ありません……」
静姝は、腕の中でもぞもぞと身じろぎしながら、しどろもどろに言った。
「ただ……父上以外に、
こんなふうに抱き上げられたことが……今まで、なくて……」
「兄上たちにも?」と、俺は思わず聞いた。
「昔は……背中に乗せてくれました」
静姝は小さく息を吸い、続ける。
「でも……もう、何年も前の話です……」
その声には、はっきりとした寂しさが滲んでいた。
俺は、思わず口を閉ざす。
昨夜――
皇帝陛下と父上が話していた内容が、脳裏をよぎった。
……なるほどな。
「……悪かった」
俺は、短くそう言った。
静姝はすぐに首を振る。
「いえ。大丈夫です。気にしないでください」
だが、その言葉が本心でないことくらい、俺にも分かった。
「兄上たちのことは、今は気にしなくていいわ」
横から、美影が淡々と言う。
「いずれ、ちゃんと“立場”ってものを思い知らされるんだから。
今はただ、強くなることだけ考えなさい」
静姝は、その意味を完全に理解できていないようだったが、
それでも素直に頷いた。
「……はい」
俺が先導する形で、
三人は修練場を後にし、回廊を通って医療棟へ向かう。
すでに朝は進み、
屋敷のあちこちで人の気配が増えてきていた。
すれ違う男や女たちは挨拶をしてくるが――
俺の腕の中にいる“汗と土まみれで、完全に力尽きた皇女”に気づいた瞬間、
ほとんどの者が目を見開いて固まる。
……まあ、そうなるよな。
(今ごろ、どんな噂を思いついてるんだか)
俺の脳裏に、
あまりにも馬鹿げた想像がいくつも浮かび、
思わず小さく笑ってしまった。
腕の中の静姝は、
その笑みの理由を知らないまま、
ますます顔を赤くして、俺の胸元に顔を埋めていた。
(……もう今ごろ、
“皇女をいじめ倒した”とかいう噂が広まり始めてるんだろうな)
まあ……完全に間違いとも言い切れない。
美影が静姝を容赦なく鍛え上げていたのは事実だし、
本人も楽しんでいた節がある。
とはいえ――すべては修練のためだ。
俺たちはそのまま医療棟へ向かった。
美影が扉を開け、
俺は静姝を抱えたまま中へ入る。
室内では、母上が乳鉢の前に座り、
何かの薬草をすり潰していた。
作業の邪魔にならないよう、
道袍の袖は肘までまくり上げられ、
髪は左右に分けて団子状に結われている。
相当集中している様子だったが、
扉が開く音に気づくと、顔を上げ――
ぱっと表情を明るくした。
「まあ、こんな朝早くに二人が来るなんて珍しいわね。
最近は修練で怪我なんて、ほとんどしないでしょう?」
そう言ってから、
俺の腕の中にいる静姝に気づき、目を瞬かせる。
「……あら。
なるほど、皇女殿下が怪我をなさったのね。
二人とも、まさか可哀想な子を痛めつけたりしてないでしょうね?」
「「そんなことしません」」
俺と美影の声が、
不気味なくらい同時に重なった。
「……あまり信用できないわね、その返事」
母上はそう言って、じとっとした視線を向けてきた。
周囲を見回すが、
他に人影はない。
呉少林は外出しているか、
あるいは休んでいるのだろう。
彼は高齢で、修為も高くはない。
正直なところ、あと十年も生きられれば御の字だと思っている。
「えっと……
“皇女”って呼ばなくても、大丈夫です……」
静姝が小さな声で言った。
「そう?
それなら、これからは“静ちゃん”って呼ぼうかしら」
「そ、それは……できれば“静姝”で……」
「はいはい」
母上は軽く受け流し、
空いている寝台を指さす。
「とにかく、あちらのベッドに寝かせてあげて。
そのままじゃ、話もできないでしょう」
俺は頷き、
静姝をそっと寝台へ下ろした。
「……今、完全に無視されませんでした?」
静姝がむすっとした表情で小さく呟いた。
「すぐ慣れるわよ。ああいうの、しょっちゅうだから」
美影がくすくす笑う。
俺も思わず頷いた。
俺は静姝を寝台にそっと横たえ、
髪についた土を指先で払ってやる。
ついでに、靴と靴下も脱がせた。
どうせ横になっている間は必要ない。
靴下は、美影が貸したものだ。
静姝は修練用の履き物を持っていなかったからな。
足の裏を見ると、
やはり――水ぶくれができている。
慣れない動きで、
相当無理をしたのだろう。
……肌、すごく柔らかいな。
この修練で、
俺みたいにごつごつになったりしなければいいが……。
それはさすがに、少し惜しい。
「あなたたちは食堂に行っていいわよ」
母上が言った。
「ただし、その前にちゃんと体を拭いて、着替えなさいね」
俺が一瞬ためらうと、
母上はぱん、と手を叩いた。
「心配しなくていいわ。
静ちゃんは私がちゃんと整えて、
武芸の授業までには食事も済ませておくから」
「……だから“静ちゃん”じゃなくて、“静姝”で……」
小さく抗議する声が、
医療棟にむなしく響いた。




