皇女との修練(トレーニング・ウィズ・ザ・プリンセス)
侯静姝は感電したかのように背筋を伸ばした。
身体の奥を、びりっとした衝撃が走る。
思わず振り返って呉美影を見つめたくなったが、
ちょうどその時、彼女は丁寧に静姝の髪の絡まりを解いていた。
「……わ、私が……修練を?」
自分の口から出た言葉が、信じられないもののように響く。
「ええ。……あ、でも、先にあなたの意思を聞くべきだったわね。勝手に決めつけてごめんなさい」
そう言って、呉美影はくすりと笑った。
だが侯静姝には、またからかわれている気がしてならなかった。
――この人、私の気持ち、言わなくても分かってる……?
事実、侯静姝はずっと修行者に憧れていた。
幼い頃、こっそり帝国学院に忍び込み、弟子たちの試合を見ていたことがある。
技を放ち、拳と脚、そして武器でぶつかり合う姿は、ただただ眩しかった。
――私も、あんなふうになりたい。
誰からも一目置かれる、強い修行者に。
だが父はそれを許さなかった。
皇女である彼女に認められたのは、飢餓境までの突破だけ。
そのための滋養食や丹薬は与えられたが、それ以上は禁じられていた。
……それなのに。
今、呉美影は「修練できる」と言った。
侯静姝はごくりと喉を鳴らす。
「そ、それは……あなたや、呉剣と一緒に……?」
「もちろんよ。だからこんなに早く迎えに来たの」
呉美影は髪を梳き終えると、それを丁寧に編み、簪で留めた。
「呉剣はもう修練場にいるわ。私たちは毎朝、朝食前に自主修練をしているの」
その言葉を聞いた瞬間、
胸にまとわりついていた不安が、少しずつ薄れていくのを侯静姝は感じた。
結婚したくない気持ちは、まだ消えていない。
けれど――修練したいという想いは、それ以上に強かった。
修行者として生きられるなら。
それだけで、他のすべてを許せてしまいそうだった。
身支度を終え、呉美影の後について屋敷の外へ出る。
朝の空気はひんやりとしており、肌に鳥肌が立つ。
夜は明けきっていないが、
山の向こうから顔を覗かせた太陽が、空を淡い橙色に染めていた。
庭園をいくつも通り抜けるたび、花の香りが風に乗って漂ってくる。
石畳を踏みしめながら、侯静姝は胸の奥で、確かに何かが動き始めたのを感じていた。
やがて、森を切り開くように造られた一角へと辿り着いた。
「ここが……修練場?」
思わず声が漏れる。
広く均された地面には、打撃痕の残る木柱、石製の重り、簡素ながらも実用本位の器具が整然と配置されていた。
飾り気はないが、ここが“本気で鍛える場所”であることは一目で分かる。
そして――そこにいた。
汗に濡れた黒髪を肩に流し、呼吸を整えながら拳を握る少年。
朝靄の中で、静かに立つその姿は、昨日見たときよりもずっと凛として見えた。
「呉剣……」
名を口にした瞬間、彼がこちらに気づく。
「もう来たのか」
驚きは一瞬だけで、すぐに柔らかな表情に変わった。
「おはよう、静姝」
その自然な呼びかけに、胸が小さく跳ねる。
皇女としてではなく、一人の少女として名前を呼ばれた気がした。
「今日から一緒に修練するわ」
呉美影が一歩前に出て言う。
「まずは基礎から。無理はさせないから安心して」
侯静姝は小さく息を吸い、そして――はっきりと頷いた。
「……お願いします」
その声には、迷いよりも期待が勝っていた。
この瞬間、彼女はまだ知らない。
ここから先の道が、どれほど険しく、
同時にどれほど自由へと近づくものなのかを。
だが確かなことが一つだけあった。
――私は、ここから変わる。
朝の光の中、
侯静姝は初めて“自分で選んだ一歩”を踏み出した。
「おはよう、剣」
呉美影の声に、侯静姝は何も返せなかった。
呉剣が不思議そうに彼女の顔の前で手を振る。
次の瞬間、静姝は小さく悲鳴を上げて飛び退いた。
「ひゃっ!?」
胸に手を当て、大きく息を吸う。
どうにか平静を装おうとしたが、頬の熱だけは誤魔化せなかった。
――熱い。
あまりにも熱すぎる。
本気で、卵くらい焼けてしまいそうだ。
「……お、おはよう……」
ようやく視線を逸らし、ぼそりと呟く。
呉剣は一瞬間を置いてから、苦笑混じりに言った。
「……上着、着たほうがいいか?」
静姝の顔が、再び一気に赤く染まる。
「それがいいと思うわ」
呉美影がくすくすと笑いながら言う。
呉剣は素直に頷き、上着を取りに離れていった。
その背中を見届けてから、呉美影は静姝のほうを向く。
「私とあなたは、剣とは違うことをするわ」
「さあ、来て。まずは基礎から教えるわね」
「一緒に強くなりましょう」
侯静姝は、まだ自分の気持ちを整理しきれていなかった。
あまりにも多くのことが、あまりにも急に起きすぎている。
けれど――
「一緒に強くなりましょう」
その言葉を聞いた瞬間、
胸に巣食っていた不安が、すっと静まった。
代わりに芽生えたのは、
熱く、鋭く、胸の奥で燃え上がる感情。
「……はい」
侯静姝は、一度だけ力強く頷いた。
「一緒に……やりましょう」
胸に灯ったその炎の名を、
彼女ははっきりと自覚していた。
――決意。




