まずは相応しい装いを(プロパー・アタイア・ファースト)
侯静姝は夢を見ていた。
――宮殿に戻っている夢だ。
昨夜の出来事など、すべて悪い夢だったのだと。
いつもと変わらぬ日々。家族に囲まれ、笑顔で過ごす日常。
とても心地よい夢だった。
できることなら、これが現実であってほしいと――心から願った。
だが、目を開けた瞬間、その願いは無残にも打ち砕かれる。
見慣れない天井。
知らない部屋。
現実を突きつけられ、視界の端がじんと滲んだ。
……婚約してしまったのだ。
相手のことは、ほとんど何も知らない。
知っているのは――
これまで当たり前だった生活が、
自分の意思とは無関係に、根こそぎ奪われたという事実だけ。
とはいえ、貴族にとって若いうちに婚約すること自体は珍しくない。
それは修行者が現れるよりも遥か昔、
病と戦乱が蔓延していた時代から続く古い慣習だった。
当時は三十で命を落とす者も多く、
四十まで生きられれば幸運とすら言われていた。
家を存続させるため、人々はできるだけ早く結婚し、
できるだけ多くの子を残そうとしたのだ。
そうした婚姻では、
男が女より十歳、あるいは十二歳も年上ということも珍しくなかった。
その点で言えば、父は伝統に逆らっている。
同い年の相手を選んでくれたのだから。
……そう考えれば、侯静姝は“恵まれている”のかもしれない。
それでも――
昨日まで一度も会ったことのなかった相手と
結ばれることを、素直に受け入れられるはずがなかった。
もちろん、今はまだ婚約だ。
結婚は互いに成人してからになる。
だが、だからといって気持ちが軽くなるわけではない。
婚姻について思いを巡らせているうち、
彼女の意識は昨日の出来事へと引き戻された。
夕食の場での発表は確かに衝撃的だった。
気分が沈んだのも事実だ。
……それでも。
呉剣と呉美影と過ごした時間は、正直に言って楽しかった。
街を案内してくれて、
自然に会話に混ざらせてくれて、
柔らかな笑顔で接してくれた。
興味の方向も似ていて、話していて居心地がよかった。
――二人のことは、好きだ。
だが、
「気が合うから」という理由だけで、
結婚を決められるかと言われれば……それは別の話だ。
……どうしてこんなことに。
そんな思考の渦に沈んでいた、その時。
コン、コン、コン。
控えめなノック音が、静かな部屋に響いた。
突然、扉を叩く音がして、侯静姝はびくりと跳ねた。
慌てて身を起こし、布団を胸元まで引き上げると、扉の方を振り返る。
「……ど、どなたですか?」
「呉美影よ。入ってもいい?」
その声を聞いた瞬間、侯静姝の心臓が跳ね上がった。
「あ、え、ちょ、ちょっと待ってください! その……身支度を……!」
「自分でやらなくていいわ。手伝ってあげるし。それに、着替えも持ってきたもの」
「……は?」
「じゃあ、入るわね」
「ま、ままま待って――!」
制止する間もなく、扉は開かれた。
呉美影はまるで当然のように部屋へ入り込み、眩しいほどの笑顔を浮かべている。
「な、何をしているんですか!? まだちゃんと服を着ていません!」
侯静姝は顔を真っ赤にして叫んだ。
「当然でしょ。そもそも、今日に相応しい服を持ってないじゃないち」と、呉美影は平然と言う。
「それに、そんなに慌ててどうしたの? 宮殿では侍女に着替えを手伝ってもらってたでしょう?」
「それとこれとは話が別です!」
侯静姝は思わず声を荒らげた。
――まったく、この人は……。
内心そう思いながらも、
呉美影の自然体すぎる態度に、怒るべきなのか、調子を狂わされているのか、
自分でもよく分からなくなっていた。
その時の侯静姝の格好といえば、薄青色の簡素な寝間着一枚だけだった。
裾は素足の甲に触れるほど長く、肩口も緩い。
髪も結わずに下ろしたまま――
いや、それ以上に問題なのは、その髪があらゆる方向に跳ねていたことだった。
あまりにも無惨で、
誰にも見られたくない。
ましてや――あの完璧な呉美影にだけは、絶対に。
対照的に、呉美影の姿は非の打ち所がなかった。
まるで寝て起きたそのままが完成形であるかのように、
整った佇まい。
艶のある黒髪はきちんと一つに結われ、
目の下に隈一つなく、柔らかな笑みを浮かべている。
――昨夜、まともに眠れなかった自分とは、まるで別世界の人間だ。
「そ、その……あの……だから……勝手に……」
言葉にしようとするたび、思考が絡まり、口から出る音は支離滅裂になる。
そんな侯静姝を前にしても、
呉美影は微笑みを崩さなかった。
彼女の手には櫛と、丁寧に畳まれた着替えがある。
「大丈夫よ。朝のあなたがだらしないなんて、呉剣には言わないから」
「これは二人だけの秘密ね」
「えええっ!?」
「冗談よ。ほんとに。ちゃんと可愛いわ」
くすっと笑いながら、呉美影は付け加えた。
「全然だらしなくなんてないもの。約束するわ」
「……意地が悪いです」
侯静姝はむっとした表情でそう言った。
「昨日の、あの優しい人はどこに行ったんですか?
もしかして、幻だったんでしょうか……」
胸の奥に、言いようのないむず痒さを覚えながら、
侯静姝はそう呟いた。
――この人、本当に調子を狂わせる。
そう思わずにはいられなかった
「ちゃんとここにいるわよ。安心して」
呉美影はそう言って微笑んだ。
「あなたをからかっているのは、気に入ってるから。ほんとよ」
その一言で、侯静姝の頬が一気に熱を帯びる。
呉美影はその反応を見逃さず、畳みかけるように続けた。
「さあ、立って。着替えるのを手伝うわ。それから髪も梳かしてあげる」
反論しようと口を開きかけたが、
――この人には勝てない。
そんな予感がすでに胸にあった。
侯静姝は小さく息を吐き、観念して立ち上がった。
呉美影は手際よく寝間着を脱がせ、用意してきた衣を着せていく。
すべてが終わり、鏡に映った自分の姿を見た瞬間――
侯静姝は思わず目を瞬かせた。
「……これは……修練服、ですか?」
驚きと困惑が入り混じった声だった。
呉美影は椅子の後ろに立ち、座るよう促しながらにこりと笑う。
「そうよ。あなたのお父様は“皇女だから”って理由で修練を許さなかったでしょう?」
「でも、これからはここで暮らすの。もう止める人はいないわ」
その言葉に、侯静姝の胸がわずかにざわめいた。
――修練。
――自分の意思で、体を動かすこと。
これまで遠ざけられてきた“選択肢”が、
今、静かに目の前へ差し出された気がした。




