一夫多妻は普通のこと(ポリガミー・イズ・パーフェクトリー・ノーマル)
夜はすっかり更けていたが、俺は布団の上で目だけが冴え渡っていた。
夕食の場で起きたことが、ずっと頭の中でぐるぐる回っている。
皇帝・侯君皇帝が「娘を俺に嫁がせる」と宣言した瞬間――
食堂は地獄のような騒ぎになった。
あっちでもこっちでも大声が飛び交い、皆が皆、他人の声をかき消そうと必死になっていた。
あれだけの混乱が短時間で収まったのは、
皇帝がそこにいた “から” だ。
あの威圧感は、俺の父でも到底真似できない。
けれど――
俺の頭から離れないのは、静姝が見せた“あの表情”だった。
顔から血の気が一瞬で引き、
肩は何か巨大な石でも乗せられたように沈み込んで、
その場で立っていられるのが不思議なほどだった。
……父親が勝手に決めたんだ。知らなくて当然だよな。
可哀想に。
とはいえ、俺自身も複雑だ。
ずっと、俺は「強くなって、メイと一緒に生きる」以外の未来なんて考えてこなかった。
目標は一つ。
――最強になり、メイと結婚し、呉家を継ぐ。
それを疑ったことなんて、一度もない。
なのに今、その未来がどんどん遠ざかっていく気がした。
考えても答えなんて出ない。
そんなとき――
コン、コン。
窓を叩く音がした。
俺は布団から抜け出して窓に近づき、
そっと鎧戸を開く。
その瞬間、影がひらりと飛び込んできた。
もちろん、メイだ。
外を覗くと、本来なら持ち場にいるはずの警備兵の姿がない。
……宴会で飲みすぎたか。
ため息をつきつつ鎧戸を閉めて振り返ると、メイはすでにフードを外していた。
夜の闇を吸い込んだような黒髪が、さらりと背に流れ落ちる。
さらにマントの留め具を外すと――
その下から、やけに可愛らしいパジャマ姿が現れた。
「メイ……」
「今夜、絶対に悩んでると思ったわ」
明るい笑みを浮かべながら、メイが言った。
「やっぱり、わかってたんだな。皇帝が俺と侯静姝の婚約を発表するって……見えてたんだろ?」
否定しない。
「かくれんぼの時に見えたのよ」
かくれんぼと言っても、俺たちにとっては訓練だ。
普通のように隠れて見つける遊びじゃない。
“鬼”は常に奇襲を警戒し、“隠れる側”は罠を仕掛け、死角から攻撃を仕掛ける。感覚と反応速度を鍛えるための訓練だった。
俺はベッドに腰を下ろし、肘を膝に置いて前かがみになりながら、髪をかきむしった。
正直、どうしたらいいのかわからなかった。
「こんな急に言われても……これからどうすればいい? 状況が飲み込めないんだ」
「どういう意味?」とメイ。
「だって……もし本当に俺が侯静姝と結婚することになったら……」
――どうやって、俺たちは結婚できるんだ?
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
答えが怖かったからだ。
「何言ってるの?」
メイはクスクス笑いながら軽い足取りで俺の横まで来て、肩が触れ合うほど近くに腰を下ろした。わざとらしく一度、肩をぶつけてくる。
「結婚なんて、ちゃんとできるに決まってるじゃない」
しばらく俺は何も言えなかった。だが、ようやく口を開いたとき、その言葉は一つ一つ、慎重に絞り出すような声になった。
「……一夫多妻なら、たしかに可能なんだろうけど。もし俺が侯静姝と結婚したら……俺は“駙馬”みたいな立場になるんじゃないのか? 皇族の婿って……複数の妻を持っていいのか?」
「そうはならないわよ」
メイがあっさり否定する。
「ならないのか?」
「忘れちゃったの? 今回、向こうが“こちらに来た”のよ。侯俊皇帝が“静姝を嫁がせるために”ここまで来たんだから、結婚先は“うち”になるの。つまり、静姝はあなたに嫁ぐと同時に、姓も“武”になる。武静姝ね」
言われてみれば、その通りだった。
最近では妻が夫の姓を名乗るのが一般的になっている。父上の正妻である武阿蓮も、桃華姑姑も、結婚と同時に“武”を名乗った。もちろん例外もいるが、父上が“宗主”だからこそ、ふたりもそれに従ったのだろう。
「……そうか。完全に勘違いしていたんだな」
胸につかえていた不安が、ひとつ霧散した気がした。
よく考えれば、皇帝が自ら地方の小さな宗族まで足を運ぶ理由は一つしかない。向こうが婿を求めて来たのではなく、“娘を預けに来た”のだ。
だが、そうなると逆に疑問が浮かぶ。
「……それにしても、どうして皇帝は、自分の“ただひとりの娘”を、俺たちみたいな小さな宗族に嫁がせるんだ? 都には俺たちよりずっと強くて、金も名誉もある名家が山ほどあるだろ。武家なんて田舎の小宗族にすぎないのに」
それが、一番腑に落ちない点だった。
メイは腕を組み、首をかしげながら答えた。
「私にも全部は分からないけど……首都で何か“よくない動き”が起きてるんじゃないかって思ってるわ」
「皇帝は軽く話してたけど、あれ、多分かなり深刻よ。皇子たちが勝手に暴れている、とか……そんな感じ」
そう言ってメイは小さく息をつく。
「侯俊皇帝も、もう年齢が年齢だしね。修為も高くない。人間極限境の初段……王としては十分強いけど、他国の君主と比べれば決して高くはないわ。年齢も二百歳を超えてるし、あと五十年生きられるかどうか……。たぶん、皇子たちは“その後”の玉座を狙って動き始めてるんだと思う」
メイの言葉は、もし他の誰かが口にしたなら不敬罪になりかねない内容だった。
だが、俺は黙ってうなずいた。
侯俊皇帝はついこの間、二百三十四歳の誕生日を迎えたばかりだ。
もしこれが天界や大宗門の化け物じみた化境者なら、千年単位で生きることができる。
だが――人間極限境の寿命は、それほど長くない。
普通の人間より百年、二百年長生きする程度。
記録に残る“最長寿”でも三百くらいだ。
皇帝の寿命が尽きかけているなら……
その後継争いが熾烈になるのは当然の話だ。
「つまり皇帝は……自分の娘が、皇子たちの権力争いの“道具”にされないように、わざわざ辺境の小さな宗族に嫁がせた――ってことか」
思わず口に出していた。
メイは肩をすくめる。
「私はそう考えてるわ。たぶん本当の理由はもっと複雑だろうけどね」
「……で、俺はどうするべきなんだ?」
問いかけると、メイはこてんと首を傾け、それから真剣な顔になる。
「まずは、侯静姝ちゃんを“家族”として受け入れることね。今回の件で一番の被害者は、間違いなく彼女よ。きっと今頃、不安でいっぱい。怒ってもいるだろうし、怯えてもいるはず」
「婚約者になるあなたは、彼女の“支え”になってあげなきゃ。安心させて、ここが安全だって分からせてあげるの」
「……俺にそんなこと、できるかな」
自信はなかった。
だが、メイは迷いなく言い切った。
「できるわ。あなたなら絶対に」
その一言が、胸の奥に灯をともす。
メイがそう言うなら――できる気がする。
いや、できるように努力しよう。彼女が信じてくれる俺でありたい。
「……分かった。じゃあ、そうするよ」
「うん。その方がいいわ。もしあなたが手を抜いたり、困らせたりしたら……私、すごく怒るもの。侯静姝ちゃん、かわいいし、私けっこう好きよ」
「そうか……メイがそう言うなら頑張るよ。……ところで、今日は泊まっていくのか?」
にやりと笑うと、メイはふるふると首を振った。
「無理。あと五分であなたのお母様が来るわよ。侯静姝ちゃんのことで話があるって。だから私は帰らなきゃ」
そう言うと、メイはすっと立ち上がった。
俺もつられて立ち上がり、彼女がマントを羽織るのを見守る。
窓辺まで行ったメイは、すぐ外へ飛び出すかと思いきや――こちらへ振り返り、そっと身を寄せてきた。
そして、唇が触れた。
一瞬で頭が真っ白になる。
メイは俺の反応を楽しむように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「おやすみ、剣」
「……お、おやすみ、メイ」
フードをかぶり直したメイは、身軽に窓枠へ乗り、そのまま音もなく外へ跳び去った。
林の影に彼女の姿が溶けるまで見届けてから、俺は静かに雨戸を閉めた。
――トントン。
すぐに、今度は部屋の扉が叩かれた。
開けると、そこに立っていたのは母だった。
「母上? こんな夜更けに、どうしたのですか?」
わざとらしく、とぼけて聞く。
母は穏やかに微笑んだ。
「少し、入ってもいいかしら? 夕食での発表……あなたも驚いたでしょう? 話をしておきたいの」
……やっぱり、メイの言った通りだ。
彼女はこれも“視ていた”んだな。
毎回思うけれど、本当にすごい……そしてちょっと怖いくらいに正確だ。
「もちろんです、母上。どうぞ、お入りください」
俺は脇へ下がり、母を部屋の中へ招き入れた。




