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まだ怒ってるの?(スティル・マッド?)

夕餉が終わるころには、空の赤はゆっくりと群青へ沈み、

やがて夜の帳がザーン市の上に降りていった。

侯静姝は、父の馬車の前に立っていた。

涙をこらえるように瞳を潤ませ、頬をふくらませ、

まるで「一生許さないからね」とでも言いたげな顔をして。

そんな娘に向かって、父はどこか気まずそうな苦笑を浮かべていた。

「……まだ怒っているようだな」

声をかけられても、侯静姝は反射的に噛みつきそうになる自分を必死で抑えた。

怒鳴り散らすことだってできた。泣きつくことだってできた。

でも、それをしたら負けな気がして――余計に悔しかった。

置き去りにされるなんて冗談じゃない。

勝手に婚約を決められるのも、もっと冗談じゃない。

自分の人生を全部“他人の都合”で決められることへの、どうしようもない反発。

(……まただ。いつだってそう。私の選択肢なんて、どこにもない。)

「嫌なのは分かっている。しかし……どうか分かってほしい。これは、お前の身を守るためなんだ」

「ふんっ」

ぷいっと顔をそむけて腕を組む。

それ以上何を言われても聞かない、という強固な意思表示だった。

父は深く息を吐き、困り果てたように眉尻を下げた。

「仕方のないことだとは思うが……もう少しだけ、私の立場も察してくれれば嬉しいのだがな」

その一言に、侯静姝はほんの一瞬だけ言葉を失った。

「……っ」

やめてほしい。

“父として”ではなく、“皇帝としての責務”を持ち出されると、強く出られなくなる。

彼が国のすべてを背負っていることは、誰よりも理解している。

民のために、国のために、自分の願いすら押しつぶすように生きていることも。

だからこそ、娘を守るために“皇帝”ではなく“父”として動いた今回の件も――わかる、わかるのだけれど。

「……わ、わかってるよ。お父さまが心配してくれてるのも。

 でも……全部決められるのは、もうイヤなの。

 私、自分で決めたいことくらいあるのに……」

胸の奥で渦巻いていた言葉が、ようやく形になって漏れ出した。

ずっと抑えてきた小さな願い。

決して叶えられないと知っている、子どもじみた自由への渇望。

――それでも、言わずにはいられなかった。

侯静姝は拳をぎゅっと握りしめ、誰にも見せたことのない素直な表情で父を見上げた。

(……わかってるよ。本当はわかってる。

 でも、お願い。少しくらい……私に、選ばせてよ。)

彼女の想いは夜風に揺れ、静かに馬車の周りに満ちていった。

「それが“皇女”という立場だ、静姝。……好きであれとは言わん。

 だが、私はこれまでずっと、お前の未来を守るために選んできたのだ。

 本当なら……お前の母上が生きていてくれたら、もう少し違ったのだがな。

 彼女は私よりずっと強かった。だが――いや、やめておこう。

 ともかく……すまなかった。どうか、少しだけ我慢してほしい」

優しく、しかし逃げ場を与えない“皇帝”の声。

侯静姝は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じて、視線を落とした。

「……約束は、できないよ」

ぽつりと返すと、父は苦笑しながら「そうだろうな」と言った。

そのとき。

父は懐へ手を伸ばすと、ゆっくり膝をつき、

掌に乗るほどの小さな“何か”を取り出した。

そして、何も言わず静姝の首へとかけてやる。

「……え? これ……」

そこに揺れていたのは――

母の形見、十万年の古翠玉こすいぎょくから削り出された 国宝 の吊り石。

静姝は息を呑み、指先でそっと触れた。

ひんやりしているのに、不思議と安心できる温度だった。

父は静かに頷いた。

「お前の母上の首飾りだ。

 この翠玉は、発見されてから代々の皇帝が“気”を注ぎ続けてきた守りの宝。

 持っていれば、必ずお前を守ってくれる」

「……うん。大切にする。絶対に」

声が震えた。

それ以上言うと泣き出してしまいそうで、ぐっと唇を噛む。

父はそんな娘の額へ、そっと口づけた。

静姝は抵抗せず、ただ目を閉じた。

頭を軽く撫でられ――

その温もりが離れる前に、何かを言おうとしたが、声にならなかった。

「……行け、静姝。

 長く、幸せで、平和な人生を生きてくれ」

父はそれだけ告げて馬車へ乗り込む。

手綱が鳴り、馬たちが嘶き、車輪がゆっくりと動き出す。

侯静姝は、その背中が闇に溶けていくまで見つめていた。

――胸が、急に冷たくなる。

理由なんてわからない。

ただ、嫌な予感だけが心臓の裏をひっかくようにざわついて。

(……いやだ。

 どうして……こんなに……苦しいの……?)

ぽたり、と涙が頬を伝った。

自分でも説明できない“悲しさ”が、静かに、しかし確実に静姝の胸を締めつけていた。

父の馬車が闇へと溶けていく最後の影を見送りながら、

侯静姝は胸の奥がじわりと冷えていくのを感じていた。

――もしかしたら、これで最後なのだろうか。

 私は、父上と……もう会えないのだろうか。

そんな考えが浮かんだ瞬間、喉がきゅっと締めつけられ、息が苦しくなる。

そのときだった。

背後から、そっと気配が近づいてきた。

振り返ると、そこに立っていたのは――

呉佑士の正妻。名前は……呉艾蓮? 呉愛蓮?

“A”で始まっていた気がするが、静姝の頭は混乱しすぎてまともに思い出せなかった。

だが、その女性は何も言わず、静かに膝をつくと、

手にした布で静姝の涙を優しく拭ってくれた。

その仕草はあまりに“母”で。

本来なら反発してしまいそうなのに、

いまはただ――ありがたかった。

「……つらいわね、静姝さん。

 あなたの気持ちを思うと、胸が痛みます。

 状況がすぐ良くなるわけではないでしょうけれど……

 どうか安心して。呉家は、あなたのためにできる限りのことをいたします」

「……あ、ありがとうございます……」

静姝は鼻をすすりながら、かすれ声で答えた。

「さあ。あなたのお部屋を案内しますね」

そのまま手を取られ、柔らかい笑みのまま導かれて歩き出す。

静姝は門が閉まる直前、もう一度だけ父の去っていった道を振り返った。

――やっぱり、いやだ。

 このまま“終わり”になるなんて……。

胸に広がる不安を抱えたまま、彼女は呉家の中へと連れていかれた。

呉艾蓮は、屋敷群の中でも一際上質な造りの建物へ案内した。

中央には手入れの行き届いた美しい庭。

屋根の四隅には精巧な龍の彫像。

扉は鮮やかな朱塗りに金の渦模様が描かれ、まさに“迎賓館”と呼べる佇まいだった。

もちろん、静姝の来訪は予定されていない。

つまり、これは最初から呉家で最も丁寧に扱うための客殿なのだ。

「ここが、あなたの新しいお部屋になります」

呉艾蓮は微笑みながらそう告げた。

呉艾蓮は静姝の手をそっと引き、客殿の中へ案内した。

皇宮ほどの華麗さはもちろんない。

だが、そこにあるのは――温かく、落ち着いた“家”の気配だった。

部屋には衣装箪笥、机、ふかふかの寝台、

そしてこの規模の屋敷としては極めて珍しい“専用浴室”まで備わっていた。

「呉家の中でお風呂があるのは、当主の棟と、ここだけなんですよ」

呉艾蓮が少し誇らしげに微笑む。

皇都の宮廷と比べれば質素かもしれない。

だが、静姝は思った。

――悪くない。むしろ、こういうのも……悪くないのかもしれない。

「何か、私にできることはありますか?」

呉艾蓮が柔らかい声で尋ねる。

静姝は少し迷い、しかし正直に答えた。

「……いえ。その……ひとりにしてほしい、です」

「わかりました。では、ゆっくりお休みなさいね」

最後にもう一度だけ、母のような微笑みを向けて呉艾蓮は退出した。

扉が閉じる音がやけに大きく響く。

静姝はひとり残された部屋で、

胸の奥に鈍く広がっていく感覚を抱えながら、静かに息をついた。

――まるで鳥籠に閉じ込められた鳥みたい。

自由を奪われた王女の心には、再び“冷たい寂しさ”が忍び寄っていた。


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