あなたが会いに来た人(ワンズ・ユー・ケイム・ヒア・トゥ・ミート)
つい先ほどまでの威張り散らす態度も、
侮蔑の笑みも、跡形もなく消え失せている。
「し、白い肌に……黒髪……。まさか……お、お前……
武家の“ジャン坊ちゃん”じゃ……ないよな……?」
黒髪の少年は首をかしげた。
「そうだけど? 僕のこと、知ってるの?」
「ひ、ひぇぇ……ま、まさかほんとに本人だったとは……!」
リンの額からは滝のような汗が流れ始めた。
「き、聞いてくれよ! お、俺らは別に武家と揉めたいわけじゃねぇ!
こ、これは……全部俺たちの間違いだ! 本当にすまねぇ!
この通り謝るから……見逃してくれ! もう二度と姿見せねぇからさ!」
先ほどまで猫を虐げていた少年とは思えないほど低姿勢で、
手をわなわな震わせながら必死に頭を下げている。
侯静姝は、その急激な態度の変化に驚きつつ――
“武家”という名前の重みを、初めて実感した。
侯静姝は、黒髪の少年が五人のならず者たちをじっくりと観察する様子を見つめていた。
先ほど彼らが呼んでいた名――
「武家の坊ちゃん」
「武家最強の若手」
この呼び方からして、少年は“武家”という一族の者なのだと分かる。
“坊ちゃん”というのは、裕福な家柄や宗家の若君に対して使われる敬称で、
礼儀と敬意を含む呼称だ――と、兄から教わったことがある。
(武家……。そういえば、道中で父上が何か言っていたような……?
うう……ちゃんと聞いていなかったから、全然思い出せない……!)
怒って父の話を聞かなかった自分を、今になって侯静姝は強く後悔した。
(もうっ……! こういうときに限って役に立たないんだから!)
そんな自己嫌悪を抱えながらも、侯静姝は改めて少年を観察する。
肩まで伸びた黒髪。
白磁のような肌。
どこか中性的で、美しく整った顔立ち。
そして――
ふいに少年がこちらへ視線を向けた瞬間、侯静姝の胸は大きく跳ねた。
その瞳には、静かな自信と鋭い強さが宿っていた。
同年代の少年で、こんな眼差しを向ける者を見たことがない。
まるで吸い込まれるように、視線が離れない。
そんな侯静姝の前で、少年は静かに口を開いた。
「……ふむ。お前たちを見逃してやってもいい。」
五人の少年たちは、一斉に安堵の息をついた。
今にも泣きそうな顔の者までいる。
だが、少年の次の一言が空気を一変させた。
「――ただし。まずは、このお嬢さんに謝れ。」
静かだが、有無を言わせぬ声だった。
侯静姝の胸が、また大きく鼓動する。
(なに、この人……かっこよすぎるんだけど……)
もし先ほどまでの状況だったなら、
この五人の少年が“謝る”など絶対にあり得なかっただろう。
だが――今は違う。
二人の救援者が現れた途端、
五人は一斉に地面へ手をつき、
額を石畳に押し当てて三度叩きつけるように叩頭した。
「ごめんなさいっ!! お許しください、小姐!!」
声が揃いすぎていて、侯静姝は逆にどうすればいいのか分からなくなった。
戸惑ったまま横を見ると、
黒髪の少年――武煎は穏やかな笑みを浮かべ、
軽く首をかしげてみせる。
“あなたが決めていい”
その視線が、そう語っていた。
侯静姝は小さく咳払いし、
父皇がよく見せる“威厳ある態度”を必死に思い出しながら、
叩頭する少年たちを見下ろした。
「こほん……。
許してあげます。ただし――
二度と、このような弱き者いじめはしないこと。
分かりましたね?」
「はいっ! 分かりました!!」
五人は声を揃えて返事をした。
「よし、行っていいぞ」
武煎がひらりと手を振ると、
五人はまるで命からがら逃げるように、
一瞬で路地の奥へと消えていった。
あっという間に静寂が戻る。
侯静姝は、ようやく二人に向き直り、
丁寧に武人の礼を取った。
上半身を深く折り、
感謝を示す最高の礼法だ。
「助けてくださり、本当にありがとうございました。
心より感謝いたします。」
侯静姝の声は、まだ少し震えていたが――
その瞳はしっかりと二人を見据えていた。
「たいしたことじゃありませんよ。無事でよかったです」
武煎の隣に立つ少女が、
ぱあっと花が咲くような笑顔を向けてくる。
その笑顔につられて、侯静姝も思わず微笑んでしまった。
――なんて愛らしい子なのだろう。
同い年くらいなのに、こんなにも人を惹きつけるなんて。
少女はまるで人に魅了をかける術でも持っているようだった。
「ところで……どうしてあんな状況になったんです?」
武煎が穏やかに尋ねる。
「あっ、私は猫ちゃんを守っていて――あっ!? 猫ちゃんどこ!?」
侯静姝は慌てて後ろを向いた。
さっきまで大木の陰に隠れていたはずの黒猫が、
spっと消えている。
右を見て、左を見て――
どこにもいない。
「……いなくなっちゃった……」
肩がしゅんと落ちる。
「なるほど。猫を守っていたんですね」
武煎はうなずいた。
「猫は賢いですからね。あなたがあの子たちを牽制している間に、
きっと逃げる好機を見つけたのでしょう」
少女が優しく微笑む。
「……そうですね。猫は、とても賢い生き物です。
逃げるための機会があれば……残らないのは当然です……」
侯静姝は落ち込んだ声でつぶやいた。
その様子を見て、
二人は気遣うように視線を交わし――
次の瞬間、少女の笑顔がさらに明るくなる。
「そうだ! まだ自己紹介してませんでしたね。
私は 武美瑩、そしてこちらが 武煎。
会えて嬉しいです!」
「……武煎。やっぱり、さっきの名前で合ってた……」
侯静姝は胸を撫でおろした。
間違って覚えていたら恥ずかしすぎるところだった。
「は、はじめまして。わたしはホ──じゃなくて、静姝。ジンシューだけでいいわ」
名乗りそこねた自分に気づき、
武煎と武美瑩がそろって眉をひそめる。
静姝の顔が一気に赤くなる。
(や、やばい……! ごまかさないと!)
慌てて話題を変える。
「あ、あの! 二人って同じ一族なのよね? でもあんまり似てないような……」
宗門とは違い、“氏族”は血縁や婚姻でつながる家族集団だ。
多少の外見差はあれど、基本的には似通った特徴を持つもの。
すると武美瑩が、にっこりと笑って言った。
「わたし、養子なんですよ」
「あ、そう……なるほど」
静姝は安堵しながらうなずいた。
その瞬間、武美瑩がぱっと彼女の手をつかむ。
「せっかく縁があって会えたんですし、少し一緒に過ごしませんか?
煎とわたしでザーン市を案内します。裏道まで全部知ってますから!」
「えっ……で、でも……お父様、きっと心配して……」
静姝は、ようやく時間の経過を思い出した。
馬車を抜け出したときはまだ午前中だったのに、
いつのまにか太陽は真上まで昇っている。
(や、やばい……絶対怒られる……!)
だが武美瑩は、まったく気にしない顔だった。
「大丈夫ですよ。どうせすぐ会えますし」
「……え? わたし、会えるの?」
「もちろん。だって──」
武美瑩は自信満々に微笑む。
「あなたのお父様が会いに来た相手は、わたしたちなんですから」
「…………えっ?」
静姝の頭の中で、しばし思考が停止した。




