抜け出し大作戦(スニーキング・アウト)
商国は小国ゆえに天宗との強い結びつきは少ないが、まったく関わりがないわけではない。
父は先祖代々の盟約に従い、天剣宗へ“保護”の名目で重い税を支払っている。
王国ではなく別勢力に忠誠を誓う宗門は、もし反旗を翻せば脅威となる存在だった。
目的地のザーン市に近づくにつれ、父は明らかに肩の力を抜いていった。
旅のあいだ、父は異常なほど用心深く、
足跡を消すような動きを徹底したうえ、
一晩で二〜三時間しか眠らない日が続き、
目の下にはくっきりと隈ができていた。
(……過剰すぎるよ、もう。絶対パラノイアだ。)
そう思ったが、侯静姝は口には出さなかった。
――帝女として、父の判断に口を挟む立場ではない。
だが、それはそれとして。
文句くらい言わせてほしい。
侯静姝が世界でいちばん嫌いなもの――
それは、自分の人生を他人に決められることだった。
朝食でさえ、人が勝手に決める。
誰と会うか、何を学ぶか、どう振る舞うか――すべて“決められた運命”。
(……一度でいい。
私だって“自分で決めたこと”を選びたい。
そんなに無茶な願いじゃないでしょ……?)
やがて、馬車は“ザーン市”と呼ばれる場所に到着した。
……が、侯静姝は思わず目を瞬いた。
「これ……ほんとに“市”なの?」
皇都と比べるのも失礼なほど小さい。
門もなければ、守衛一人すら見当たらない。
魔獣が出る地域なのに、どうしてこれで安全なのか。
不安のはずなのに――
見慣れない景色に、なぜか視線が奪われていた。
普通なら退屈で仕方ないはずなのに、胸がわずかに高鳴る。
「王都とは、ずいぶん違うだろう?」
父が優しい笑みを浮かべて言った。
「別に。“ある人物”(名前は言わないけど)がわたしを宮殿に閉じ込めていたせいで、王都そのものはほとんど見られませんでしたから。」
侯静姝は父をジト目でにらみつけ、父は気まずそうに視線をそらした。
「でも……そうですね。少しだけ見た王都とはまったく違う場所です。」
宮殿を出るときに見た街並み――
その記憶と比べれば、この小さな村はあまりにも質素だった。
最初に気づいたのは、建物の小ささ。
土地が狭いのか、お金がないのかは分からないが、王都とは規模が違いすぎる。
左を見ると、露店がいくつも並んでいた。
宝飾品や衣服を売っているようだ。
いくつかの店にはガラス窓があり、商品が陳列されていた。
その中に「王都最新ファッション取扱店」と書かれた服屋があったが――
マネキンが着ていたのは去年の流行。
(……ここ、本当に田舎なんだ。)
情報の遅さに、侯静姝は遠くへ来たのだと実感した。
だが、粗末な場所だからといって嫌いになったわけではない。
人々は笑顔で、子供たちは走り回り、いろんな料理の匂いが風にのって漂ってくる。
(……目がいくつあっても足りないくらい。)
思わずそう感じるほど、街には素朴で不思議な魅力があった。
「ねぇ、父上、あれは何ですか?」
「ん? あれとは?」
「ほら、あの子が食べてるやつです。」
侯静姝は、馬車の横を通り過ぎた少年を指さした。
少年は見たこともない食べ物を手にしていた。
丸いお団子のような形で、中に何か詰まっているらしい。
少年は幸せそうにかじりついていて、その表情からしてよほど美味しいに違いない。
「あれは“糍飯”だな。」
父は目を細めて言った。
「米で作った団子の中に、いろんな具材を入れるんだ。あの子のは……砂糖とゴマか。甘いタイプだな。」
そして娘の方を見て、柔らかく笑った。
「食べてみるかい? このあと武家と夕食だが……一つくらいなら、食欲を損なうこともないだろう。」
父の表情には、娘を喜ばせたい一心が見え見えだった。
二ヶ月以上前、王都から突然離されて以来、侯静姝はずっと不機嫌で口数も少なかった。
当然、父は気をもんでいる――その気持ちは痛いほど分かる。
だからこそ、侯静姝は悟った。
(……使える。)
「父上、食べてみたいです。」
ウキウキと声を弾ませて言う。
父は安堵のため息をつき、喜んで頷いた。
「もちろんだとも。すぐ御者に――」
「違います。」
侯静姝はピシャリと遮った。
「わたしが言ったのは……父上に取ってきてほしいという意味です。」
「ジンアー……」
父は、今にも「分をわきまえなさい」と言いそうな顔をしていた。
だが侯静姝は、それを封じる最強の秘技を使うことにした。
両手を胸の前でぎゅっと組んで、
大きく潤んだ瞳で見上げる――
これぞ必殺技・子犬のお願い眼。
彼女が持つ数少ない“必殺技”の中でも、最も破壊力が高い技である。
「お願い、父上……。父上が取ってきてくれたら……とっても嬉しいの。」
父の表情がぐにゃりと揺れた。
侯静姝は末っ子であり、唯一の娘。
父にとっては宝物のような存在――だからこそ、彼は彼女に甘い。
ずっと不機嫌だった娘に、久しぶりに向けられた“お願い”。
その抵抗力は限りなくゼロに近い。
――寝不足なのも、判断を鈍らせているに違いない。
(悪く思わないでね、父上。これは……あなたが不用心なだけ。)
娘の言い分を断ち切れず、父はとうとう折れた。
「……わかった。すぐに戻る。」
ほんの少しだけ胸が痛んだ。
だが侯静姝の中で、怒りの方が勝っていた。
自分の意思を無視され、勝手に人生を決められる苦しさを――父に少しでも分かってほしかったのだ。
だから彼女は、覚悟を決めた。
これからすることは、父に“教えるべきこと”なのだと。
父は御者に馬車を止めさせると、外へ降り、シーファンを売っている屋台へ歩いていった。
いつもの威厳ある皇帝の衣ではなかったが、それでも街の誰よりも立派な装いであることに変わりはない。
そのため、父が姿を現した瞬間、通りの人々の視線は一斉に彼へと向けられた。
屋台の店主など、注文を受けただけで手足がもつれるほど緊張している。
――だが、侯静姝にとってそんなことはどうでもよかった。
彼女は迷いなく、馬車の反対側の扉をそっと開き、
できる限り物音を立てないようにして外へ滑り出た。
幸い、御者はただの一般人で、修行者のような鋭敏な感覚は持っていない。
外の喧騒が音をかき消してくれたおかげで、侯静姝の脱出に気づく素振りもない。
御者は前だけを見て座っている。
彼女が馬車から降りたことなど、露ほども疑っていない――よし。
侯静姝は満足げに口元を上げると、
そのまま決意に満ちた足取りで近くの路地へと姿を消した。
ここまでして自分をこの田舎町へ連れてきた父の思惑。
ならば、自分の目で――この場所の何が特別なのか確かめてやる。
胸の高鳴りを抑えられないまま、侯静姝は路地の奥へと駆けだした。




