表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/161

ザーン市への来訪者たち

侯静姝ホウ・ジンシューは、ぽすんと頬をふくらませながら小さな馬車の座席に腰かけていた。

腕を組み、片手で顎を支え、窓の外だけを睨むように見つめる。

向かいの席に座る人物のほうへは、絶対に視線を向けようとしない。

窓の外には、どこまでも続く木々の海と、大地から牙のように突き出した二つの山――それだけ。

ここは、煌びやかな商国皇都シャング・インペリアル・シティとは比べものにならない田舎だ。

「ジンアー、まだ怒っているのか?」

そう声をかけてきたのは、向かいに座る初老の男性だった。

白くなり始めた髪に、目尻のしわ。

年相応の顔立ちだが、その下には若い頃に築き上げた鍛え抜かれた筋肉が今も存在している――彼が身にまとう優雅な衣のせいで外からは見えないだけだ。

この男性こそ、商国の皇帝・侯徳光ホウ・ドグアン

静姝の父である。

父は今でこそ 人間極境ヒューマン・リミット・リアルム第一境 に留まっているが、それはこの小国においては頂点に立つ力。

この国で同じ境地に到達した者は、三大宗門の宗主たちと、近衛軍の将軍・于晨光ユー・チェングアンくらいのものだ。

しかし静姝は知っている――。

大きな国や名だたる宗門では、人間極境に到達して初めて「ようやく人並み」と言われることを。

そんな中で、静姝はぷいっと顔を背けたまま毒を吐く。

「まぁ、別に怒ってなんていませんわ。どうして怒る必要があるのでしょう?」

「わたくしの大好きな皇都から無理やり引っ張り出されて、こんな何もない場所に連れて来られても――」

「――怒るはずありませんもの。どうぞご心配なく、

 陛下ファンディお父様。」

声は冷え切っていて、馬車の中の空気まで凍らせるほどだった。

「間違いなく怒っているだろう、ジンアー。」

父は乾いた笑みを浮かべながら言った。

「普段なら、わしのことを“父上フーチン”と呼ぶはずだろう?」

父上を呼ぶ時に使う「父親フーチン」、そして皇帝を指す「皇帝ファンディ」。

今の静姝の冷たい呼び方は、父にとって胸が痛むものだった。

「ふんっ。」

侯静姝は、話す気なんてこれっぽっちもなかった。

けれど、この馬車には父しかいないのだから、沈黙を続けるほかない。

――今、自分たちは皇都から遥か遠く離れた、田舎のまた田舎にある小都市へ向かっている。

馬車の中で過ごす数か月は、静姝の短い人生の中でも最も退屈で苦痛な時間だった。

どれほど遠くまで来たのかも分からない。

まさか、皇都からこんな僻地に街があるなんて、静姝は今の今まで知らなかった。

本来なら、この馬車にはずらりと護衛がつくはずだ。

だが今回に限って、護衛は一人もいない。

父は何を考えているのか――

静姝にはまったく理解できなかった。

父の右腕である 于晨光ユー・チェングアン さえ同行していない。

それがどれほど異常なことなのか、静姝はよく知っている。

あの男は、父が一人で行動することなど絶対に許さないのだから。

もっとも、父に護衛が必要ないのも事実だ。

この国で 人間極境ヒューマン・リミット・リアルム に至った鍛体者に、

普通の盗賊など敵うはずがない。

小規模な宗門ぐらいなら、一人で潰せてしまうだろう。

――それほどまでに、商国における人間極境の力は絶対なのだ。

侯静姝は、どうしても気になってしまう。

――皇都で、何か良くないことが起きているのではないか。

だが、自分には何も教えてもらえない。

父の口は、まるで岩のように固く閉ざされたままだ。

静姝はちらりと左目の端で父を見る。

その額には深い皺が刻まれており、何かに悩まされているのが明らかだった。

皇都を出発する前からずっとだ。

父は、ずっと何かに心を囚われていた。

静姝にはその理由が分からないが、ただ一つ――とても深刻であることだけは確かだった。

「陛下、間もなくザーン市に到着いたします。あと十五分ほどでございます。」

御者の声が馬車越しに響いた。

その瞬間、父は大きく息を吐き、ぐったりと背もたれに沈み込んだ。

骨が抜けたみたいに力が抜けて、けれど、ようやく安堵の色が浮かぶ。

こんなにも“ほっとした”父の顔を見るのは、いつ以来だろう?

静姝は窓の外に目を向けた。

ザーン市の姿を少しでも見たいと思ったが、まだ遠いらしく、景色は変わらない。

相変わらず、地面から牙のように突き出た二つの山が見えるだけ。

「無事に着けそうだな。道中で何事もなかったのは幸いだ。」

父が小さく呟いた。

「…フーチンは、何か起きると思っていたのですか?」

静姝は針のように鋭い声で問いかけた。

父はふっと笑った。

「おや? また“父上”と呼んでくれるのか。」

「べ、別にそんなこと思ってません! ただ――なんだか“襲われるかもしれない”みたいな言い方だったので、気になっただけです!」

侯静姝は語気を荒げた。

頬が熱くなるのを感じ、慌てて顔を背ける。

父はくすくすと笑った。

「期待していたわけではないが、もし面倒事が起きても不思議ではないと思っていたのは確かだな。

 しょう国には多くの勢力が存在する。私の権威があっても、全員が言うことを聞くわけではない。とくに“三大天宗”に属する分派宗門や、王朝に忠誠を誓う者たちはな。」

そう話す父の声は落ち着いていたが、その言葉の重さは十二歳の侯静姝にも十分理解できた。

「さらに、近頃はしん国から傭兵が国境を越えて侵入しているという噂もある。

 それに、しゅう王国やめい州との関係も不安定だ。

 ……そう考えれば、身構えてしまうのも当然だろう。」

侯静姝は真剣に頷いた。

自分はまだ子供だが、世の中の仕組みについてまったく無知というわけではない。

五歳の頃から帝国最高の師たちに学び、まつりごとや国際情勢についても教わってきたのだ。

商国だけでも多くの宗門が存在する。

そのなかには皇帝に従う宗門もあるが、“三大天宗”の分派は別だ。

彼らは王朝に忠誠を誓うことなく、ただ本家宗門への忠誠のみを誇示する。

商国に存在する聖剣宗もその一つ。

さらに腹立たしいことに――

帝国はこれら天宗に毎年「保護」という名目で莫大な税を払わなければならない。

侯静姝はギリっと歯を噛みしめた。

(……どう考えても、天剣宗のいじめじゃない。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ