悪夢(ナイトメア)
「どうして……こんなことするの……?」
「な、なにを――」
「全部、あなたのせい……」
「ち、違うの……わたし、そんなつもりじゃ……」
「全部あなたのせいよ! 大っ嫌い! もう顔なんて見たくない!」
「わ、わたし……」
「どこか行って! わたしの前から消えて!」
「ごめんなさい! お願い……行かないで!!」
――その瞬間、
呉美瑩は悲鳴のような息を吸い込み、
上半身を跳ね起こした。
必死に伸ばした手は、
目の前で霧のように消えていく“誰か”に届かない。
涙で視界が濡れ、胸がつぶれそうに痛む。
どこ?
どこに行ったの?
どこに……呉建は……?
混乱で頭が真っ白になり、
美瑩は荒い呼吸のまま周囲を見回した。
見慣れない――
いや、思い出せないだけだった。
ここは自分の部屋。
呉家の屋敷の中にある、いつもの寝室。
でも、夢の残滓が濃すぎて、
視界には黒焦げになった死体が重なり、
部屋の空気には“焼けた肉”の匂いが染みついている気がした。
「……っ!」
胃がひっくり返るような吐き気が襲った。
美瑩はベッドから転がり落ちるように立ち上がり、
窓を開け放って身を乗り出した。
――そして、嘔吐した。
夜風の中に、
ぐちゃりとした音と、えずく声が響いた。
吐くものがなくなっても、
身体は勝手に何度も何度も痙攣し、
乾いた嗚咽だけが喉を引っかいた。
「はぁ……はぁ……っ……うぅ……」
涙、汗、震える呼吸。
胸の奥で燃え残った恐怖が、
まだ消えない。
呉美瑩は床に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
目覚めてからというもの、涙は一度も止まっていない。
この住居には何人もの少女が暮らしているが、壁は厚く、声が漏れないように造られているため、
誰も彼女のすすり泣きに気づくことはなかった。
さっきまで夢に見ていた光景がまだ目の奥にこびりつき、
胸が締め付けられるような不安と吐き気が波のように押し寄せてくる。
彼女は昔から悪夢を見ることが多かったが、今夜のものはとくに酷く、心の奥を抉るように痛かった。
――会わなきゃ……あの人に……
呉美瑩はふらつきながら立ち上がった。
椅子に掛けていた漢服に手を伸ばした瞬間、指先がべったりと湿った感触に触れ、動きが止まる。
髪に、冷たく嫌なものが絡みついていた。
「……うっ」
嘔吐物だった。
吐いたときに髪を避ける余裕がなかったのだ。
彼女は急いで水桶へ駆け寄り、膝をついて髪を水に浸し、力いっぱい洗った。
指で丁寧に梳き、汚れを落とし、匂いが消えるまで何度も水を替えて念入りに洗う。
仕上げに香りの強い薬油を数滴垂らし、残った臭気をごまかした。
――あの人に、こんな匂いを嗅がせたくない……
髪を絞ったあと、夜の闇に溶け込む濃い色の厚手の漢服を身につけた。
口をゆすいで吐瀉物の残り香を取り除き、顔についた涙の跡も拭い流す。
窓越しに空を見上げる。
月の位置から、時刻は深夜を少し過ぎた頃だと判断できた。
床に残った吐瀉物を踏まないよう慎重に足を運び、
呉美瑩はそっと窓枠に手をかけ、音を立てずに身を外へ滑らせた。
そして静かに窓を閉める。
彼女は闇の中を軽やかに進む。
回廊は使えない。
夜警の護衛が毎晩決まったルートで巡回しているからだ。
だが、誰がいつどの歩廊を通るのか――
呉美瑩はすべて把握していた。
巡回の足音が遠ざかる瞬間を狙い、
彼女は走り出し、回廊を横切って植え込みの影へ身を滑り込ませる。
葉の揺れる音すら立たない――息づかいも乱れない。
――待ってて……あの人……今すぐ行くから……
やがて美瑩は建仁の居住区にたどり着いた。そこには四人の護衛が立っていた。二人は正門の前に、もう二人は窓の前に立っている。
この四人の護衛は、外敵から一族の後継者を守るためではなく――美瑩が忍び込むのを防ぐために配置されていた。
以前の美瑩は、毎晩のように窓から建仁の部屋へ忍び込んでいた。
だがようやく洋士叔叔が気づき、窓にも護衛を置くようになったのだ。本来なら美瑩の住む女子棟にも護衛を置きたかっただろうが、彼女の棟は複数の娘たちが暮らしているため、さすがにそこまではできなかった。
むぅ〜〜……どうしよう……
どうやって護衛を突破するか考えていると、不意に美瑩の“視界”に、未来の一片がひらめいた。
――火事で護衛が動く光景。
それは、彼らがその場を離れる可能性の高い未来。
すぐに美瑩は、近くの地面から細い枝を二本拾い上げ、乾いた草を集めた。
これ……まだちょっと湿ってる……でも、仕方ないよね……
まず湿気を取らなければ火はつかない。幸い、足元の草はよく乾いていた。
草の上で棒を強くこすりつけると、棒の表面の水分はすぐに飛んだ。
美瑩は棒を指で弾き、コン、コンと音を確かめる。
……うん、中までちゃんと乾いてる。
使える。
美瑩は棒をすり合わせ、摩擦で熱を生み出した。最初は何も起きなかったが、数分ほど続けると、白い煙が立ちのぼり、木の表面が黒く焦げ始めた。
そこへ乾いた草をそっと乗せ、口を近づけてふーーっと息を吹きかける。
ほどなくして、ぱち、と火がついた。
美瑩は別の棒をその火で燃やし、それを近くの低木へと押し当てた。
じわ……じわじわ……と植物が燃え広がり始めると、美瑩はすぐにその場を離れ、建仁の住居の影に戻った。
どれくらい待っただろう。
体感では永遠に思えるほどの時間が過ぎ――
ついに、夜空の下でもはっきり見える煙が上がり始めた。
「な、なにあれ? 煙か?」
「火事……?」
「確認しに行くぞ!」




