第28話 銀蓮の力
日々はあっという間に過ぎていった。
俺はメイと母上の助言どおり、ひたすら鍛錬に打ち込んでいた。
まだ子供で、気を練ることはできない。
だからこそ――俺にできるのは、身体を極限まで鍛えることだけだった。
腕立て伏せ。腹筋。懸垂。スクワット。ランジ。ディップス。プランシェ。
思いつく限りの鍛錬を片っ端からこなした。
昼の半分を身体の鍛錬に費やし、夜は座禅を組んで瞑想する。
もちろん、今の俺にとって瞑想には直接的な効果はない。
だが、いずれ修行者となる時のために――正しい瞑想の仕方を身につけておくことが大切だと、母上とメイに教わった。
いま俺がしているのは「アーチャー懸垂」という鍛錬だ。
部屋の梁に二本のロープを垂らし、その先に拳の二倍ほどの金属輪を結びつけてある。
俺はその輪を両手で掴み、ぶら下がっていた。
ゆっくりと、できる限りゆっくりと――右腕だけで身体を引き上げる。左腕は伸ばしたまま固定。
右腕の筋肉が悲鳴を上げ、全身に力がみなぎる。
顎が金属輪より上に来た瞬間、腕が震えだした。
焼けつくような痛みをこらえながら数秒その姿勢を維持し、今度は左腕に切り替えて同じ動作を繰り返す。
アーチャー懸垂という名は、弓を引き絞る動作に似ていることからついたらしい。
普通の懸垂よりも遥かに難易度が高く、普段の鍛錬では使われない筋肉までも酷使する過酷な鍛錬法だ。
汗が腕から、背中から、脚から、そして足の先から滴り落ちた。
床に落ちた雫が小さな水たまりを作っていく。
だが、俺は手を止めなかった。
アーチャー懸垂を終えると、今度は身体を反転させ、逆さまにぶら下がったまま、両足を金属輪に通した。
そして両手を放す。
血が一気に頭へと上る。
不快な感覚だった。目の前がぐらつき、早くも目眩がする。
足には体重がずっしりとかかっていた。
深く息を吸い込み、両手を頭の横に添えて――逆さのまま腹筋を始めた。
身体を最大限まで起こしたところで八秒間静止。
筋肉が震え出すのを感じながら、ゆっくりと上体を下ろしていく。
それを何度も何度も繰り返した。
この金属輪だけでこなせる鍛錬法は数多くある。
俺はそれらを一つずつこなしていった。
汗が滝のように流れ、腕がもげそうになり、背中の筋肉が燃えるように熱くなるまで――。
ようやく最後の動作を終え、地面に降りようとしたその時だった。
「はぁぁぁ……あっ!?」
床に広がった汗の水たまりのことを、すっかり忘れていた。
足が滑り、そのまま派手に尻もちをつく。
鈍い痛みが尾てい骨を直撃し、思わず声が漏れた。
「いってぇ……くそ、これ痛ぇな」
顔をしかめながら立ち上がり、しびれる尻をさすりつつ、深くため息をついた。
尻をさすりながら、俺は足を引きずるようにしてベッドまで歩いた。
だが、汗でびしょびしょの身体のまま座る気にはなれない。
シーツを汚したくなかった。
代わりに、棚の上に置いてあったタオルを手に取り、顔の汗をぬぐい、床に広がった汗の跡を丁寧に拭き取った。
掃除を終えて間もなく、二人の召使いが部屋へ入ってきた。
一人は盆を手にしており、その上には果物とナッツが入ったお粥の椀、そして脇に添えられた豚肉の焼き物が乗っている。
もう一人は金属棒の両端に吊るされた水桶をいくつも担いでいた。
二人のうち、水を運んできた方が風呂桶へ向かい、桶の水をゆっくりと注ぎ入れる。
もう一人は俺のベッドに食事の盆をそっと置いた。
「ありがとう」
そう笑顔で言うと、召使いの一人が一瞬だけ俺を見つめ、無言で小さくうなずいた。
……それ以上の言葉はなかった。
俺の笑みが少し引きつる。
だが、何も言わない。
――これも罰の一環だ。
俺は誰とも話してはいけない。
同様に、彼らも俺に話しかけることを禁じられている。
召使いたちはすぐに部屋を出ていった。
一人残された俺は、ため息をつき、それから自分の頬を両手で軽く叩く。
「よし……食うか」
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
腹がぐぅっと鳴った。
俺はすぐに箸を手に取り、お粥と豚肉をあっという間に平らげた。
ほんの数十秒で空になった器を見つめながら、名残惜しそうに喉を鳴らす。
……まだ腹が減っている。
猛烈に減っている。
たぶん、あれだけ身体を酷使しているせいだろう。
最近は以前よりもずっと食欲が増している。
だが――召使いが次に食事を運んでくるのは昼。
今はもう、待つしかなかった。
朝食を終えると、鍛錬の最終段階に入った。
俺は服を脱ぎ捨て、銀蓮を手にして風呂桶の方へ向かった。
まず、茎の一部を小刀で切り落とし、それを水の中へ放る。
――ジュッ。
茎が溶けていく音がした。見た目はほとんど変わらない。
だが俺にはわかる。この水は今、周王国の名湯にも勝る栄養湯になっている。
次に、花の中から二粒の種を取り出し、水面に放った。
種もまた音もなく溶け、湯は乳白色に変わっていく。
最後に、銀色の花弁を一枚と、雄しべを一本口に含んだ。
そして、そのまま湯の中へ身体を沈めていく。
いつものような熱い風呂ではなく、ぬるめの湯。
けれど、それが今の俺にはちょうどよかった。
火照った肌を優しく冷ましてくれる心地よさに、思わず息を漏らす。
脚を組み、目を閉じる。
呼吸を整え、意識を内へ向けた。
世界の音が遠のき、心が静寂に包まれる。
――そのとき、感じた。
銀蓮の力が身体に染み込んでいく感覚を。
銀蓮にはいくつかの効果がある。
一つは肉体の強化。
筋肉の力、硬度、密度、柔軟性を大幅に高める。
もう一つは身体の浄化だ。
今の俺にはまだ恩恵が薄いが、修行を始めたときにこそ真価を発揮する。
人の身体には、食べ物や空気、そして取り込んだ気から生まれる不純物が溜まっていく。
気というものは本来、完全に清らかな存在ではない。
修行者は長い年月をかけて、それらの不純物を取り除く術を身につける。
だが、まだ修行の道に踏み出せない子供たちは――ごく微量とはいえ、生きているだけで気を吸収し、そしてそれを浄化する術を持たない。
つまり、この銀蓮は、俺のような者にとって、未来の修行に備えるための“下準備”となる宝なのだ。
どれほどの時間が経ったのかはわからなかった。
ただ、気がつけば湯はすっかり冷え切っていた。
目を開けると――湯の色が真っ黒に変わっていた。
……俺の身体から染み出た不純物が、すべて湯の中に流れ出たのだ。
鼻を突くような臭気と濁った色が、まるで毒を煮詰めたように見える。
慌てて湯船から出て、タオルで身体を拭う。
黒い汚れが布にこびりつき、何度も何度も擦った。
身体を乾かすと、薄い下衣だけを身にまとった。
どうせ部屋から出ることは許されていない。
誰に見せるわけでもないし、着飾る必要もない。
大きく息を吐いて、ベッドに倒れ込む。
全身が心地よい疲労に包まれ、瞼が重くなる。
「……メイは、どうしてるかな」
思わず口からこぼれた言葉。
だが、当然ながら――部屋は何の返事も返さなかった。




