阿修羅境の真の力(アシュラ・リアルムのしんのちから)
父上とタオファ叔母上は、獅子が体勢を立て直す前にすでに動いていた。
二人の姿が風を裂くように前へ走り抜ける。
母上はそんな二人の背を見送りながら、俺たちのそばに膝をついた。
安堵に満ちた微笑みを浮かべ、震える俺たちを見つめる。
「見つけられて本当によかった……! 二人とも、無事?」
「母……う、うわぁ……!」
胸の奥が熱くなり、気づけば涙がこぼれていた。
助かった――その事実だけで、体の力が抜ける。
「アイイェ……」
メイインが小さくつぶやいた。
驚きはあまり見えない。
きっと、彼女にはこの光景が“見えていた”のだ。
母上はそっと俺たちを抱き寄せた。
「よかった……本当に。部屋にいないと気づいたとき、どんなに心配したことか……」
その温もりに包まれた瞬間、全身が震えた。
安堵と、そして恥ずかしさ。
俺はまた守られている――その事実が、痛いほど情けなかった。
「うっ……ううっ……!」
止めようとしても、涙は溢れた。
母上の腕の中で、遠くから轟音が響く。
視線を向けると、父上と叔母上が獅子と激しく交錯していた。
父上の拳に、赤い炎が灯る。
「はぁっ!!」
気が爆ぜ、拳から炎の奔流が放たれる。
それが獅子の脇腹を焼き裂こうと迫る――が、獅子は地を蹴ってかわした。
しかし逃げ切れない。
タオファ叔母上の手から無数の短刀が閃いた。
氷上を滑るように飛んだ刃が、獅子の体に突き刺さる――
「っ……砕けた!?」
刃は肉に届かず、毛皮の表面で粉々に砕け散った。
その下には、氷の鎧。
獅子は自らの気で毛皮を凍らせ、防御している。
叔母上が眉をひそめ、一歩踏み込み――
「――山掌裂破!!」
轟音とともに、地面が割れた。
獅子が喉を鳴らした。
次の瞬間、空気が震える――音の刃。
耳を裂くような衝撃波が、タオファ叔母上に向かって放たれた。
だが、それより早く父上が動いた。
炎のような紅い気が掌に集まり、
空中から鋭く叫ぶ。
「――炎掌・天墜!!」
掌から放たれた気が、巨大な“手”の形を成す。
父上の五倍はあろうかという紅蓮の掌が、
獅子の頭上から叩きつけられた。
「ガアァァァァァァァァ!!!」
地が揺れ、雪が跳ね上がる。
獅子は地面に押し潰され、足掻きながら吠えた。
その隙を逃さず、タオファ叔母上が駆ける。
影のような速さで獅子の懐に入り、小さな刀を閃かせた。
――ザシュッ!
氷の鎧が砕け、
白い毛並みに鮮血が飛び散る。
だが獅子も反撃に転じ、
再び咆哮――音波が炸裂した。
叔母上は身をひねって退く。
髪先をかすめる衝撃波。
ほんの僅かでも遅れれば、肉体ごと吹き飛ばされていた。
「グルルルルルルッ!!」
怒りと痛みに満ちた雄叫びが響く。
獅子は父上の気掌を振り払い、
周囲の雪面から氷柱を無数に突き上げた。
だが、二人はそれを軽やかに避ける。
父上が地に着地し、拳を振り下ろした。
「うおおおおっ!!!」
轟音。
拳が地面に突き刺さると、
そこから爆発的な気の波動が走り抜けた。
地が裂け、雪が弾け、
衝撃が一直線に獅子へと向かう。
避けきれない――!
獅子が身を翻したその瞬間、
タオファ叔母上の投げた短剣が飛来した。
赤く濡れた刃が次々と突き刺さり、
獅子の白い毛並みを血で染め上げる。
「す……すごい……」
思わず息を呑んだ。
「ヨウシ叔父上とタオファ叔母上……強い……!
あの斑雪獅子を、あんなに圧倒してる……!」
メイインが呟く声が震えている。
当然だ。
魔獣は同じ修為でも人より強い。
しかもここは奴の縄張り、氷の世界だ。
それでも二人は互角どころか、押している。
「ふふっ、さすがね」
母上が微笑んだ。
その目に誇りが宿っている。
「あなたたち、知らないでしょうけど――
タオファは昔、暗殺者だったのよ。
ヨウシを殺すために雇われたの。」
「……えっ!?」
「でもね、彼に敗れて、そのまま恋に落ちたの。
小さな一族の者が皇帝の親友になったのを
面白く思わない人たちも多かったから……
最初は殺そうとしたのに、今では命を預け合ってる。
皮肉だけど、素敵な話でしょ?」
母上の微笑みは柔らかく――
だが、どこか誇らしげでもあった。
「そんな話、知らなかった……」
思わずそう漏らすと、母上は小さく肩をすくめた。
「知っている人は少ないの。タオファ自身、過去のことを話したがらないし、外に漏れれば面倒も起こるでしょうからね。」
彼女はあっさりとした口調で続けた。
「タオファは暗殺と毒の技にかけては一流よ。気をすべて毒に変換し、武器に染み込ませるの。あの戦いぶりも、そのおかげ。」
母上の言葉に意識を戻すと、確かに戦況が変わっているのがわかった。
最初のうちは、獅子が父上の攻撃を軽々と避けていた。
だが今では、次第に動きが鈍くなり、避けきれない一撃を幾度も受けている。
拳圧がぶつかるたびに、
赤い閃光とともに肉が裂け、
白い毛並みが血に染まっていった。
「効いてる……毒が、回ってるんだ……」
そう思った瞬間、獅子が怒号のような咆哮を上げた。
次の瞬間、毛並みが逆立ち――
無数の氷の針が、爆発するように四方へ放たれた。
「――っ!!」
「きゃあっ!!」
俺とメイインが悲鳴を上げるより早く、
母上が手印を結んだ。
銀色の光が弾け、俺たちの前に幕のような障壁が現れる。
薄く透き通った膜――まるで霧を凝らしたような輝き。
とても頑丈には見えない。
だが、氷の針がぶつかった瞬間、
鋭い音を立てて砕け散った。
一本も貫通しない。
「……すごい……」
息を呑む俺の前で、
父上とタオファ叔母上が一斉に跳躍した。
攻撃の雨を飛び越え、
炎のような気を纏った父上が天から落ちてくる。
拳を引き絞り、轟く声を放つ。
「――焔掌・墜破!!!」
空が赤く染まり、巨大な炎の掌が獅子の背に叩きつけられた。
轟音とともに大地が揺れ、炎が雪を蒸発させる。
「ガアアアアアアアアアアッ!!!」
獅子が断末魔を上げ、地面を抉りながら崩れ落ちた。
巨体がびくびくと痙攣し――やがて、静止する。
「……死んだ、のか?」
俺が息を詰めて問うと、
母上は一度まばたきをしてから、穏やかに答えた。
「ええ……どうやら、ね。」
安堵の息を吐こうとした――その瞬間だった。
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
理由はすぐにわかった。
「……っ!」
父上がこちらへ歩いてきていた。
炎のように赤く染まった顔。
怒りを隠そうともしない表情。
一歩ごとに、雪が軋む音がやけに大きく響く。
そのたびに心臓が跳ねた。
――やばい。終わった。俺、絶対怒られる。
あの斑雪獅子より父上のほうが何倍も怖い。
今なら、もう一度あの獅子と戦うほうを選ぶ。
父上の“怒り”に立ち向かうよりは、まだマシだ。




