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第19話 父の想い、母の言葉

日が傾くころ、俺とメイインは図書館に本を返し、外へ出た。


冷たい風が吹き抜ける中、俺たちの前にゆっくりと歩み寄る影があった。


長い衣の裾が静かに揺れ、凛とした美しさを放つ女性――それは母上だった。


「……母上?」


思わず立ち止まり、声が裏返る。


彼女の黒い瞳は、俺と同じ色。


けれど今の姿は、いつも朝に見せる飾らない姿とはまるで違っていた。


髪は見事な髷にまとめられ、いくつもの髪飾りが光を受けてきらめく。


首筋まできちんと整えられた装いは、まさに族長の正妻にふさわしい。


普段はあまり着飾らない人だからこそ、この姿には一瞬、息を呑んでしまう。


「探したわよ、二人とも」


母上が穏やかに微笑んだ。


「やっぱりここにいたのね」


「……母上? どうしてここに?」


「ユウシのことを聞いたの」


彼女はやわらかな笑みを浮かべたまま、俺を見る。


「少し歩かない? あなたと話がしたいの」


そして、メイインへ視線を向ける。


「ごめんなさいね、メイインちゃん。少しの間、この子をお借りしてもいいかしら?」


とても丁寧な言い方だった。


まるで相手が同じ大人であるかのように。


けれど、それが母上らしい。


彼女は俺とメイインの絆を理解してくれている。


……俺とメイインは、切っても切れない関係だ。


彼女が隣にいないと、まるで自分じゃないみたいに感じる。


「もちろんです、アイー」


メイインは柔らかく微笑みながら、右の拳を左の掌に重ね、丁寧に武人の礼を取った。


そして、こちらを見てにっこり笑う。


「ここで待ってるわ、ジエン」


「うん。すぐ戻る」


母上の視線が温かく注がれる。


その穏やかな笑みが、なぜかくすぐったくて、俺は耳のあたりが熱くなるのを感じた。


けれど、何も言わずに母上の後を追う。


彼女はゆったりと歩き出し、俺もその後ろを歩いた。


途中で何人もの族人とすれ違ったが、皆、母上を見ると足を止め、恭しく頭を下げた。


母上はそのたびに、袖で口元を隠して微笑み、優雅に会釈を返す。


その仕草のひとつひとつが、まるで舞のように美しい。


しばらくして、母上がぽつりと口を開いた。


「メイアはあなたのことが本当に好きなのね」


「……俺も、メイのことが大好きだよ」


思わず素直に口から出た。


母上は袖の端で口元を隠しながら、くすりと笑う。


「ええ、知っているわ。もう何度も聞いたもの。


あなたが“メイと結婚する”って言うの、数え切れないくらい」


彼女の笑いには、少しだけ呆れと、それ以上に優しさが混じっていた。


「でもね、ユウシはまだ納得していないの。


“素性の分からぬ娘を嫁にはできん”って。


でも――心配はいらないわ。


彼もいずれ分かるでしょう。


メイアは賢くて、将来有望な子。


あなたの良い妻になるって、きっと気づくわ」


「……そうだといいけど」


俺の胸の奥には、あの日の記憶がまだ鮮明に残っている。


“メイと結婚する!”と初めて言ったとき、父上は笑いもしなかった。


“くだらん。子供の夢だ”と一蹴された。


血の気が上って、思わず叫び返した。


あのときだけは――俺は父上に逆らったのだ。


父上に逆らったあの日の代償は、まだお尻に残っている。


あの鞭の痛みは、思い出すだけで身が引き締まる。


◆◆◆


やがて、俺たちは薄く雪化粧をした庭園へ出た。


踏みしめるたびに、雪が小さくきしむ。


吐く息が白く霧になり、そのたびに鼻の先が赤く染まっていく。


そんな中で、母上がゆっくりと口を開いた。


「あなたのお父様はね――厳しい人でしょう?


でも、あの人は本当はあなたをとても愛しているの」


「……うん。わかってる」


少し間を置いてから、そう答えた。


あの人が愛情を持っていないはずがない。


あの高価な錬丹薬を、自分に渡してくれたのだから。


父上の私蔵品の中から。


それだけで、十分に伝わってくる。


「族長という立場は、とても孤独なのよ」


母上は歩を進めながら続ける。


「一族を守るためには、どんな時も冷静でなければならない。


だからあの人は、“誰にも特別扱いをしてはいけない”と自分に言い聞かせているの。


たとえ、それが自分の息子であってもね」


その声には、静かな哀しみがにじんでいた。


「それに――」


母上は雪の積もる石灯籠へ視線を落とした。


「双牙山は危険すぎるわ。


お父様が行かせたくないのも当然よ。


あの山には強力な魔獣が多く棲んでいるの。


中には“修羅境”に達した個体がいるって噂もある」


「……修羅境の魔獣……?」


思わず息を呑む。


修羅境といえば、人間の国どころか一つの都市を滅ぼすほどの力を持つ存在だ。


そんなものが山にいるなんて――。


寒さではなく、背筋を冷たいものが走った。


修羅境。


その言葉を聞くだけで、胸の奥が重くなる。


人の修行段階でいえば第四境。


それは、蒼国において到達できる者の限界とも言われていた。


修羅境に達した者は、軍の中でも“国を守る柱”と呼ばれる存在だ。


父上もその一人――修羅境初段。


蒼国南部のこのザン市で、彼に敵う者などいない。


そんな父と同等の力を持つ魔獣が、すぐ近くの山にいるだなんて……。


「……理解したわ」


母上の言葉を胸に刻み、俺は小さくうなずいた。


「うん、わかったよ」


母上は穏やかに微笑み、伸ばした手で俺の頭を撫でる。


指先が髪をかき分け、優しく頭皮をなでるたび、胸の奥がじんわりと温まっていく。


母上の手は、春の日差しみたいに柔らかい。


きっと外から見れば、母親に甘える情けない子供にしか見えないだろう。


それでも、この温もりだけは手放したくなかった。


「いい子ね」


その声を聞くと、不思議と息が楽になった。


◆◆◆


しばらくして、俺たちは再び図書館へ戻った。


扉の前に立つメイインの姿が見える。


彼女は入口のそばで静かに待っていたが、どうやら別の少年が話しかけているようだった。


たしか――同じ訓練班の、ウー・ヤンとかいう子だ。


メイインは彼にまったく興味を示さず、そっけなく返事をしている。


その様子を見て、胸の奥がほんの少しだけ熱くなるのを感じた。


「なあ、そろそろ半年ごとの力試しがあるだろ? もし俺の数値が三千を超えたらさ、オマエ――」


ウー・ヤンの言葉は、最後まで続かなかった。


メイインがこちらを見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせ、彼の言葉などなかったかのように駆け寄ってきたのだ。


「おかえり、ジエン!」


「ただいま。退屈してた?」


「とーっても退屈してた」


「それは大変だ。退屈は俺が倒しておこう」


二人の軽いやり取りを見て、ウー・ヤンの顔がみるみる赤くなる。


口を半開きにしたまま立ち尽くしていたが、やがてぷいっと顔をそらし、足を鳴らして去っていった。


残されたのは、微笑ましく二人を見守る母上だけだった。


袖で口元を隠しながら、やさしく微笑む。


「ふふ……仲がいいのね。――私はこれから少し用事があるから、ここで失礼するわ。二人とも、よい一日を過ごしてね」


「ありがとうございます」


「ありがとう、アイー」


俺とメイインの声が重なった。


母上は嬉しそうに目を細め、静かに一礼してその場を後にした。


その姿が見えなくなるまで、俺はなんとなく、じっと見送っていた。

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