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第16話 限界の先へ

「……五十四……五十五……ごじゅう……六……はぁっ、はぁっ……」


腕が悲鳴を上げている。


拳を地面につけ、胸を下ろして数秒止め、そしてゆっくり押し上げる――それを延々と繰り返す。


自分でも、もうどれだけ続けているのか分からない。


拳、腕、脚――すべてが焼けるように痛む。


汗が肌の上で冷え、冷たい風が頬を切るように吹き抜けた。


冬は終わったはずなのに、ザン市の空気はまだ冬の名残を手放していなかった。


標高が高いせいで、暦の上では春でも、体感ではまだ真冬だ。


その証拠に、地面のあちこちに白い粉雪が残っている。


「……五十七……ごじゅう……はぁっ……八……っ、五十九……」


息が白く弾ける。


東の空ではようやく太陽が昇り始めていたが、森の中はまだ薄暗い。


枝葉が光を遮り、わずかな木漏れ日だけが幾何学模様のように地面を照らしていた。


「六十……六十一……はぁ……はぁぁ……六十二……」


拳の下で、小石や枝が肌を削る。


鋭い痛みが腕に走るたび、歯を食いしばった。


――それでも、血はもう出ない。


最初の一ヶ月は、本当に地獄だった。


寒さもそうだが、拳が裂けて何度も血を流した。


この森の一角には、俺の血がしみついているはずだ。


けれど今は、拳の皮膚が分厚く硬くなり、それなりに痛みにも慣れてきた。


硬くなった拳を見下ろし、俺はかすかに笑った。


「……少しは、“強く”なってきた、かな」


「……六十三……ろくじゅう……四……っ、六十……五……っ!」


汗が滝のように流れ落ち、稽古着が肌に張りつく。


上腕三頭筋、肩、胸――そのすべてが焼けるように熱い。


腕が震える。


一回ごとに地面が遠く感じる。


腕立て伏せは、ウー・イエイェがくれた鍛錬の巻物の中でも最も基本で、最も誤魔化しがきかない修練法だった。


種類も多く、拳立て、掌立て、指立て――。


俺は毎朝、それらを組み合わせながら体を痛めつけている。


「……六十……六……七……はぁっ……八……!」


息が荒く、肺が焼ける。


少し離れた場所では、メイインもまた鍛錬をしていた。


ただし、彼女のそれは俺とはまるで違う。


俺が筋肉を破壊し、再生させることで強度を上げる“爆発的な鍛錬”なのに対し、メイインの鍛錬は“しなやかさ”と“軸”を育てるものだった。


柔軟な動き、深い呼吸、ゆったりとした動作の中で、彼女は芯の強さを作り上げている。


……正直、少し羨ましい。


あんなに優雅に鍛錬できるなんて。


まるで白鳥が水面を滑るような美しさだ。


でも、俺と彼女では戦い方が違う。


体格も違う。


メイインは細身で低重心の戦闘法を身につけることになるだろう。


だから、これでいい。


「……六十九……っ! はぁっ! はぁっ! あと……ひとつ……七十ぅぅぅ!」


全身の筋肉が悲鳴を上げる。


拳が地を押し返し、肩が軋む。


それでも――倒れなかった。


七十回目の腕立てを終えた瞬間、俺はそのまま前のめりに崩れ落ちた。


腹を地面に打ちつけ、小石が皮膚に食い込む。


痛みはあったが――もう、どうでもよかった。


動く気力すら残っていない。


「……っはぁ……はぁ……」


限界。


けれど、これが今の俺の“全力”だ。


一ヶ月前までは、五回がやっとだった。


あの頃を思えば、七十まで増えたのは大きな進歩……のはずだ。


――それでも、まだ足りない。


強くなるには、これでは遅すぎる。


そんな焦りが、息苦しさの中に滲んでいた。


「……もう一セットだ」


地面に手をつき、痛む腕を無理やり動かして立ち上がる。


呼吸を整えながら、次の鍛錬へ移る。


枝と枝の間に手をかけてディップス。


足を曲げ、しゃがみ、スクワット。


踏み込み、ランジ。


腕を広げてジャンピングジャック。


逆さにぶら下がって腹筋を絞るハンギングシットアップ。


さらに懸垂、体幹――。


気づけば、太陽は森の奥を金色に照らし始めていた。


肺が焼ける。


筋肉が火を噴く。


身体中が汗にまみれ、息をするたびに胸が痛い。


「もう終わり?」


メイインの声がした。


彼女は軽やかに立っていた。


息ひとつ乱れていない。


額と首筋に薄い汗の膜を張っているのに、それがむしろ艶やかで――どこか神聖にすら見えた。


黒い髪を高く結い上げたポニーテールが、風を受けてしなやかに揺れる。


その姿を見て、思わず息を呑んだ。


――ああ、ずるい。


どうして、こんなに綺麗なんだ。


どうしてメイインは、鍛錬のあとでもあんなに綺麗なんだ?


俺なんて、まるで魔獣に引きずられた後みたいな有様じゃないか。


……べ、別に俺まで“綺麗”になりたいわけじゃないけど!


でも、もう少しこう、息切れせずに決まっててもいいじゃないか。


これじゃあ男の威厳が地に落ちる……。


「はぁっ……はぁっ……あ、ああ……終わった……」


「じゃあ、軽くストレッチしてから走りましょう」


「えっ……あ、ああ……了解」


顔をしかめながらも、言われるがまま腕や脚、背中を伸ばす。


身体をほぐし終えると、二人で森の中を走り出した。


ただのジョギングではない。


例の巻物に書いてあった“間欠走”だ。


一分間のランニングごとに、三十秒の全力疾走。


それが終わればまた一分間のスローラン。


そして、再び三十秒の全力――。


この流れを、ほぼ一時間。


全力で走って、息を整えて、また全力で走る。


その繰り返しで、肺も脚も悲鳴を上げる。


「はぁっ……はぁっ……」


終わったころには、さすがのメイインも膝に手をついていた。


汗で髪が頬に張りつき、呼吸が乱れている。


……正直、ちょっとだけ嬉しい。


いつも完璧な彼女が、こうして俺と同じように疲れてるのを見ると――不思議と報われた気がする。


「うぅ……お水……。お水どこ……? はぁっ……はぁっ……あの水筒……どこに置いたっけ……?」


「……こっちだよ……はぁ……はぁぁ……」


二人して、よろよろと木陰に腰を下ろした。


俺は水筒を手に取り、メイインへ差し出す。


それは動物の皮で作られた素朴な水筒で、近くの小川から汲んできた冷たい水が入っている。


このあたりを流れる水は、すべて双牙山からの雪解け水だ。


透き通るように澄んでいて、口に含むと喉の奥まで冷たさが走る。


昔、誰かが言っていた。


「昔、この山に天人境へ至った僧がいて、山そのものに清浄の法をかけたから水が濁らないんだ」と。


……本当かどうかは知らないけど。


メイインは喉を鳴らして数口飲み、息をつくと、水筒を俺に返した。


俺も続けて口をつけ、一気に飲み干す。


冷たい水が喉を通り抜け、乾ききった体の隅々まで染み渡っていく。


「……っはぁぁぁ……生き返る……」


四方の守護神に感謝したくなるほどの恍惚感だった。


鍛錬を終えた俺たちは、そのまま地面に腰を下ろした。


背中合わせで座ると、互いの汗が混ざってぬるりとした感触がしたが、もう気にする余裕なんてなかった。


「……つっ、疲れたぁ……」


頭を後ろに預け、両手を地面につく。


雪解けの冷たさが掌から伝わって、火照った体にじんわりと心地よい。


「うん……大変だけど、ちゃんと強くなってる。

私、感じるの。ジエン、前よりずっと強くなったよ」


「父上の薬のおかげだよ」


俺は息を整えながら答えた。


「骨鍛丹がなかったら、今頃まだ腕立てすらまともにできなかったと思う」


あの丹薬は、今月の前半で全部使い切ってしまった。


けれど、その効果は確かだった。


今の俺の骨は――鋼よりも硬い。


ウー・ヨンが全力で殴ってきても、もう折れたりしない。


……まあ、試してみようとは思わないけど。


「そうね、薬も効果はあったと思うわ」


メイインはうなずいたあと、少し口を尖らせて俺を見た。


「でもね、それだけじゃないの。

ジエンがここまで強くなった一番の理由――それは、“気持ち”よ。

強くなりたいっていう想い。

今のジエンは、本気で自分を変えようとしてる。

以前みたいに“最低限だけやる”んじゃなくて、全力で、自分の限界までやってる」


その言葉は、まるで年長者が年下を励ますような口調だった。


不思議と、それが自然に聞こえるのがメイインらしい。


彼女の言葉にはいつも、どこか“年齢を超えた重み”がある。


でも――俺は深く考えないようにしている。


メイインのことになると、理屈よりも“気持ち”が先に動く。


胸の奥に、あたたかいものが広がる。


それは、心の底から湧き上がる光のような感覚だった。


「……ありがとう、メイイン」


息を整えながら立ち上がり、振り返って手を差し出す。


「そろそろ戻ろうか。

このままじゃ汗まみれだし、朝食の前にひとっ風呂浴びないとな」


「そうね」


メイインはにっこり笑って、その手を取った。


軽やかに立ち上がる彼女の笑顔が、朝の光に透けて眩しい。


「こんな臭いままで食堂に入ったら、皆に嫌われちゃうわね」


「え、俺……そんなに臭い?」


「ええ、当然でしょ?」


「ひどっ!?」


二人の笑い声が、森の静寂の中に溶けていった。

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