距離が近すぎる
屋敷の内外に植えられた木々は、鮮やかな橙や赤に色づき、小川のせせらぎと相まって穏やかな雰囲気を作り出している。小さくきしむ音を立てる橋を渡ると、武術の稽古に励む周家の若者たちが集まる広い中庭が見えてきた。指導役が基本の型を叩き込んでいるらしい。年の頃は、十か十二といったところだろう。
「どうやら我が娘は、お前の息子にかなり興味を持っているようだな。いっそ縁談を考えてみるのも一案か。ははは!」
周祖の笑い声に、父は外交的な微笑みを浮かべて応じた。
「周麗花が我が家に嫁ぐことを、お許しいただけるのであれば光栄ですな。剣はいずれ、私の後を継ぐ身ですから」
「まあ、その話は、また別の機会にしよう」
――やめてくれ。
本気で、今その話はやめてほしい。
結婚。
その言葉だけで、さっきから必死に抑え込んでいた思考が一気に暴れ出しそうになる。
もちろん、周麗花とのことを考えたことがないわけじゃない。
俺は男だ。しかも十五だ。最近は、夜になると勝手に頭が余計なことを考え始めるし、朝起きるたびに「なんでだよ……」と一人でため息をつくことも増えた。
夢に彼女が出てくることもある。
内容を細かく思い出すつもりはない。思い出したら、絶対に平静ではいられなくなる。
……思春期って、本当に容赦がない。
気持ちを切り替えようと、俺は小さく息を吐いた。
結婚という考えが頭をよぎるのは事実だ。でも、それが正しいかどうかは別問題だ。俺にはすでに梅英と静淑がいる。周麗花は、それでも納得するのだろうか。
――まあ、梅英は「彼女に近づけ」と言っていたけど。
確かに、結婚ほど“近づく”方法はないのかもしれない。
「最近、何してたの?」
父たちの後ろを歩きながら、周麗花がこちらを見上げて尋ねてきた。俺は、老人二人の危険な会話から意識を引き剥がし、久しぶりに会えた彼女に集中する。
「主に修行だな」と俺は答えた。
「まだ突破を狙うには早いから、基礎を固めて戦い方を磨いてる。この前は一族の力量試験も受けた」
「ふーん……それで?」
「なあ、教えてくれよ。お願いだって」
「無理だ。さすがにそれは話せない」
俺は肩をすくめた。「友達ではあるけど、あれは一族のことだ。呉家の人間じゃない相手に話すわけにはいかない」
「ひどいわ……」
周麗花はわざとらしく唇を尖らせた。
「剣哥哥、それってすごく意地悪じゃない? 面白そうな話を、私が一族じゃないってだけで教えてくれないなんて」
そう言いながら、彼女はさらに俺の腕に抱きついてきた。
……近い。
いや、近すぎる。
腕に押し付けられた柔らかな感触を、嫌でも意識してしまう。
背筋が一気に強張り、全身がぎこちなくなるのが自分でもわかった。
「だったら、やっぱり本当に結婚しちゃおうかしら?」
周麗花は楽しそうに続ける。
「そうすれば、全部教えてもらえるでしょう?」
……勘弁してくれ。
「……二万だ」
「え?」
「力量試験の結果だ。二万」
視線を逸らしたままそう言うと、彼女は一瞬ぽかんとした顔になり――次の瞬間、目を大きく見開いた。
「二万!? 本当に!?」
「す、すごい……! 本当にすごいわ!」
その反応は、作り物じゃなかった。
純粋な驚きと、素直な称賛。
「私が飢餓境に突破した時は、十四万……じゃなくて、十四千だったのよ?」
「剣哥哥、あなたはまだ突破まで三年もあるのに、その時の私より強いじゃない」
「はは……ありがとう」
俺は少し照れながら頭を掻いた。
「一族でも過去最高の数値らしい。ちなみに、梅英は一万五千、静淑は一万四千六百だった」
「……三人とも、本当にとんでもないわね」
周麗花はため息をついた。
一瞬だけ、少し羨ましそうな表情を浮かべたかと思うと――すぐに、いつもの自信に満ちた笑みに変わる。
「でも、勘違いしないで?」
彼女は胸を張り、どこか得意げに言った。
「私はもう、飢餓境第九重よ」
「長老たちは、このまま行けば一年もしないうちに動魂境に届くって言ってるわ」
……やっぱり、負けず嫌いだ。
「だからね」
周麗花は俺の腕を離さず、楽しそうに微笑んだ。
「いくら剣哥哥がすごくても、私に勝てるなんて思わないことね?」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。
――この人は本当に、油断ならない。
「このまま強くなり続ければ、成人の儀で飢餓境を飛び越える可能性だってあるのよ?」
周麗花は、どこか誇らしげにそう言った。
「ふん……せいぜい互角ってところだろ」
そう返しながら、俺は少し肩の力が抜けるのを感じていた。
会話が続くうちに、自然と落ち着いてきたのだ。
周麗花は、修行に対する姿勢という点では俺とよく似ている。
俺ほど切迫した理由があるわけではないようだが、それでも――強くなることそのものを楽しみ、自分の限界を試すことが好きなのが伝わってくる。
そういうところは、素直に尊敬できた。
……それに、そのひたむきさは、どこか侯静淑にも似ている気がする。
彼女があれほどまでに修行に打ち込むのも、父親に認められたいという思いがあるからだ。
もしかすると、周麗花もまた――
自分の居場所を、自分の力で証明したいだけなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺たちは食堂へと辿り着いた。
そこは、以前に訪れた時に使われた大広間よりも、ずっと小ぢんまりとしていた。
部屋の中央には円卓が一つ置かれ、その周囲には座布団が等間隔に並べられている。
角には観葉植物が配置され、落ち着いた彩りを添えていた。
三方を壁に囲まれているが、入口から最も遠い一面は縁側へと続いており、欄干の向こうには見事な庭園が広がっている。
思わず息を呑むほどの眺めだった。
卓は、ちょうど四人が座れる大きさしかない。
椅子――いや、座具は高価な木材で作られているのだろうが、見た目だけでは俺には分からない。
周家は、力ある一族にありがちな派手さを好まず、こうした簡素で洗練された佇まいを選ぶ。
それが、この一族の在り方なのだろう。
全員が円卓の周りに席を取った。
俺は父の隣に座り、向かいには周麗花、その隣に周祖が座っている。
腰を下ろした周麗花を、つい目で追ってしまった。
すると、彼女は俺の視線に気づいたらしく、にこりと笑ってウインクしてくる。
……やめてくれ。
こんな場でやられたら、落ち着けるわけがない。
慌てて視線を逸らした直後、給仕の女性たちが入ってきた。
伝統的な漢服に身を包んだ彼女たちは、手際よく皿を並べ、四つの杯を置くと、何も言わずに去っていく。
俺の前に置かれたのは、赤いタレがかかった米麺だった。
上には刻まれた野菜が彩りよく盛られている。
「夕食にはまだ早いからな。軽いものにしておいた」
周祖はそう言いながら箸を取り、麺を一筋つまみ上げた。
「この米麺は南唐から取り寄せたものだ。あちらの麺は珍味として知られていてね。
中には“食べるだけで気の生成量が増える聖なる麺”などという噂もあるが……もちろん、それは誇張だ」
くつくつと喉を鳴らし、彼は続ける。
「実際にそういった麺を口にできるのは、王族や一部の貴族だけだ。
ただし、この麺には薬膳が練り込まれていて、体内の毒素を排出する効果は確かにある」
「それは興味深いですね。南唐には行ったことがありませんから、知りませんでした」
父はそう言うと、自然な動作で麺を啜った。
「私も一度きりだがな。あの味に惚れ込んで、帰りに可能な限り買い込んだ。
もう残りは少ないから、特別な時にしか使わせていない」
「では、今日は特別な日ということですね」
父の言葉に、周祖はゆったりと微笑んだ。
「良き客、良き縁――それだけで、十分に特別だ」
両家の当主が話している以上、割り込むのは無作法だ。
そう理解しているのだろう、周麗花も俺も、黙って話に耳を傾けていた。
彼女の方を見る。
普段は平然と礼儀や慣習を飛び越えるくせに、今は不思議なほど落ち着いた表情で、大人たちの会話を聞いている。
……こういうところを見ると、やはり只者じゃないと思わされる。
軽い食事が終わると、数人の使用人が入ってきて、手早く皿を下げていった。
代わりに、今度は茶が運ばれてくる。
夏場は冷茶だったが、秋に入った今は温かい茶だ。
湯気が立ち上り、ふわりと落ち着いた香りが鼻をくすぐる。
一口含むと、喉を通って腹の底までじんわりと温かさが広がった。
思わず息を吐く。
胸の奥に溜まっていた緊張や雑念が、そのまま一緒に抜けていくようだった。
「次の丹薬の出荷準備が整った」
周祖が穏やかな声で切り出す。
「我が方で流通を手配しよう。呉家が運営する露店すべてと、王九の薬舗にも回す」
「ご配慮、痛み入ります」
父は軽く頭を下げた。
「なに、当然のことだよ」
周祖は朗らかに笑う。
「明家に丹薬市場を独占させるなど、商人として看過できん話だからな。それに、競争があってこそ業界は活気づく」
ふと視線を父に向ける。
「ところで、売れ行きはどうだ?
私は直接関わっていないから、数字までは把握していなくてね」
「順調です。非常に」
父は即答した。
「特に治療用の薬丸が好調で、この二か月足らずで、年商の四分の一近くを稼ぎ出しました」
「それは素晴らしい」
満足そうに頷いた周祖は、茶杯を持ち上げる。
「成功した友誼に、乾杯だ」
その合図に、父、俺、そして周麗花も杯を掲げた。
「成功した友誼に」
四人の声が重なり、湯気の立つ茶が静かに揺れた。




