元・呉家長老
その場に立ち尽くし、目の前の男が俺と呉家を貶める言葉を吐き続けるのを聞きながら、
俺は自分が何を感じるべきなのか分からずにいた。
怒りか。
憎しみか。
それとも――不安か。
まさか、再びこの男と相対する日が来るとは、夢にも思っていなかった。
歯牙競技大会の折、
魏は明家と結託し、俺を再起不能にして明申を勝たせようと画策していた。
それと同時に、族長である父上の権威を貶め、呉家を乗っ取る計画まで進めていたのだ。
父上はその陰謀を見抜き、
奴を討とうとした――だが、
あの卑劣な元長老は、低位の霊装甲に助けられ、命からがら逃げ延びた。
生き延びた代償として、
奴は呉家から追放され、姓すら剥奪された。
魏は俺を見て、
見下しと嫌悪が入り混じった笑みを浮かべた。
その表情に、周囲の空気がぴりつく。
中でも、美影の怒りは際立っていた。
あれほど露骨な殺意を、彼女が顔に浮かべるのを見るのは初めてだった。
――もし視線に殺傷力があるなら、
この男は今頃、灰になっている。
「まさか、また会うとは思わなかっただろう?」
魏は愉快そうに言った。
「正直に言えば、俺もだ。
この世界は広い。
お前は井の中の蛙に過ぎん」
「……だが、少しはその井戸から這い出てきたようだな?」
胸の奥が、むっと熱くなる。
「……なぜ、ここにいる?」
俺の問いに、魏は鼻で笑った。
「俺が何をしていようと、貴様の知ったことか。
呉家の人間でもない俺が、わざわざ答えてやる義理はない」
「俺のやることは、俺の自由だ」
その笑みはさらに歪み、
老いた唇の奥に、黄ばんだ歯が覗いた。
そして、視線が――
美影へと移る。
「まだ、その女を傍に置いているのか」
吐き捨てるような声。
「さっさと始末すべきだな。
ああいう女は、族長の跡取りには相応しくない」
「……もっとも」
彼は肩をすくめ、嘲笑を浮かべる。
「お前のような哀れな一族に、
そもそも“族”と呼べるほどの価値があるのかは――
大いに疑問だがな?」
俺は、何度も深呼吸をする必要があった。
耐えることなら、慣れている。
俺自身を嘲る言葉。
呉家を貶める中傷。
俺を利用しようとする輩。
そのどれも、今までは飲み込んできた。
――だが。
呉美影を侮辱されることだけは、絶対に許せない。
「裏切り者の老いぼれより、あたしが“雌犬”でいる方が百倍マシよ」
俺が口を開くよりも先に、美影が吐き捨てた。
「地獄――**地獄**には、あんたみたいな人間のための特等席があるって聞いたわ。
裏切り者は、向こうの鬼神たちに一番念入りに可愛がられるんですって」
地獄。
それは死者の国。
魂が罪を裁かれ、輪廻へと至る前に罰を受ける場所だ。
地獄に落ちた魂は、殺されることはない。
何度でも蘇らされ、
罪が償われるその時まで、延々と責め苦を受け続ける。
魏は歯を食いしばり、顔を真っ赤にした。
「貴様ら……!
身分や力が、いつまでも通用すると思うな!」
「確かに、お前たちは呉家では特別扱いされているのだろう。
だが、その影響力が及ぶのは**斬牙城**までだ!」
「ここはもう斬牙城ではない。
この地に、お前の一族の権威など存在せん」
「調子に乗るなよ。
気を抜けば――その辺の溝で血を流しながら、命が尽きる瞬間を眺める羽目になるぞ」
その頃には、周囲に人だかりができていた。
誰も近寄ろうとはしないが、
俺たち――
俺、美影、侯静淑、周麗華、そして元・呉家長老の魏をぐるりと囲み、
ひそひそと囁き合いながら、成り行きを見守っている。
次に何が起こるのか――
その答えを、誰もが待っていた。
群衆の前へ、侯静淑が一歩踏み出した。
婚約者を侮辱した男を、鋭い眼差しで睨みつける。
「呉剣と呉家の影響力は小さいかもしれません。
――ですが、私には影響力があります」
彼女は静かに、だがはっきりと告げた。
「帝都へ一通、手紙を送るだけで、あなたは牢に放り込まれるでしょう」
冷たい笑みが、その唇に浮かぶ。
「それから……ご自分の立場についても、よく考えて行動なさることですね。
確か、この大華城の知府は――父が直々に任命した人物だったはずです」
「私の身分を示し、少し話をするだけで……
あなたの人生を、いくらでも“不便”なものにできると思いますが?」
侯静淑が密かに呉家へ預けられていたのは、
父が、息子たちの権力争いに彼女を巻き込みたくなかったからだ。
本来、彼女の居場所は誰にも知られてはならない。
だが――だからといって、
裏切り者の蛇が婚約者を踏みにじるのを、黙って見ている理由にはならない。
俺にも、彼女の意図ははっきりと伝わっていた。
彼女は、商王国の姫としての影響力を示すことで、
この男にこう告げているのだ。
――もし、私の存在を口外すればどうなるか、よく考えなさい、と。
魏の顔から一瞬、血の気が引いた。
だが、すぐに歯を食いしばり、侯静淑を睨み返す。
何か言い返そうとした、その瞬間――
一歩前に出たのは、周麗華だった。
「どうやら、また巡り合う運命だったようですね。
元・呉家大長老さま」
彼女は一礼した。
だが、その仕草には敬意など微塵もなく、あからさまな嘲りが含まれていた。
「どうか、そのような下卑た言葉は胸の内に留めてください。
父は小さな支家の当主に過ぎませんが……
周家が友をどう扱うかは、ご存じのはずです」
そう言って、彼女は俺、美影、侯静淑へと手を向ける。
「この三人は、すでに周家の友人です。
――すなわち、私の庇護下にあります」
「今後は、どうかお言葉にお気をつけください」
その場の空気が、目に見えて張り詰めた。
誰もが息を潜め、
次に起こる“何か”を待っていた。
魏は完全に激怒していた。
顔は、俺が今まで見たこともないほど真っ赤になっている。
だが、この男は狡猾さだけは一流だった。
二枚舌を使い続けながら、長年呉家から追放されずに済んでいたのには理由がある。
おそらく、かなり前から家主の座を奪う算段をしていたのだろう。
もちろん、どんな策士でも完璧ではない。
父はどこかで異変に気づき、対策を練り始めた。
それでも、あれほど時間がかかったという事実こそが、この男の狡猾さを物語っている。
魏は喉までこみ上げたであろう罵詈雑言を飲み込み、
周麗華に向けて、心にもない笑みを浮かべた。
「もちろんですとも、周公主。
ご友人方を侮辱したこと、心よりお詫び申し上げます」
「――友は慎重に選ぶべきだとは思いますが、
この件について、これ以上申し上げることはありません」
「どうやら、私も長居しすぎたようですな。
それでは皆さん、ごきげんよう」
そう言い残し、元長老は背を向けて歩き去った。
群衆は、まるで水が割れるように彼の前から道を空ける。
その姿が見えなくなると、周囲の人々も次第に散っていった。
何人かはこちらを指さして囁いていたが、大半は騒ぎが終わったとばかりに、元の用事へ戻っていく。
「……はぁ。嫌な気分ね」
溜め息混じりに、美影が言った。
「まさか、ここで呉家の元長老に会うなんて……」
侯静淑は唇を噛みしめている。
「彼が追放されてから、周家はずっと監視していました」
周麗華がそう打ち明けた。
「あなたの秘密を漏らさないか、確認するためです。
ただ……私も、今日ここで遭遇するとは思っていませんでした。
大華城は広いですから」
そう言って、彼女は侯静淑を見やる。
「それと――公の場での発言には、もう少し気をつけてください。
身分を悟らせない警告の仕方は、もっと穏やかな方法もあります」
「この街には、聴覚に優れた修行者もいます。
もし、あなたの正体を知られたら……」
「ひゃっ……! そこまで考えてませんでした!」
侯静淑は青ざめ、慌てて声を上げる。
「え、待ってください。
……今の話って、私の身分を知っているってことですか?!」




