第15話 骨を鍛える夜
その夜、俺は召使いたちに湯殿の準備を頼んだ。
本家の者たちは、それぞれ自室に風呂を持っている。
もっとも、俺のは立派な湯屋などではなく、寝室の押し入れにしまえる大きめの木桶だ。
召使いたちは桶を運び出し、水を張り、火属性を持つ修練者が掌に炎を灯して湯を温めてくれる。
立ち上る湯気が部屋を満たしたころ、俺は皆に礼を言った。
彼らが一礼して下がると、ようやく一人きりになった。
服を脱ぎ、畳の上にきちんと畳んで置く。
次に、父上からもらったあの箱を開き、中から一粒――緑に輝く丹薬を取り出した。
強烈な薬香が熱気に溶け込み、頭が少しふわりと軽くなる。
血が全身を駆け巡り、妙な高揚感が生まれた。
まるで香りそのものが骨の髄まで染み込んでいくような――
いや、それはきっと錯覚だ。
父上の指示どおり、丹薬を湯の中へ落とす。
ぽちゃん、と音を立てて沈んだそれは、すぐに淡い緑の泡を立てながら溶けていった。
俺はゆっくりと湯に身を沈め、脚を組んで座り、目を閉じた。
心を静め、意識を空にする。
丹薬の効能を最大限に取り込むには、完全に落ち着いた精神状態でなければならない。
身体が無意識のうちに、皮膚の毛穴から薬効成分を吸収するためだという。
――だが、実際にやってみると難しい。
頭の中がうるさい。
メイインのこと、父上のこと、ウー・ヨンのこと、そして六ヶ月後の決闘のこと。
勝てるのか?
本当に兄上を倒せるのか?
もし負けたら……?
思考が止まらない。
心を空にするどころか、鳥の群れのように思考が枝から枝へ飛び回る。
もし負けたら、俺は――
武人としての誇りを失うだけじゃない。
この先、二度と強くなれない気がする。
“後遺症”。
以前読んだ医学書にそう書いてあった。
過去の怪我や病で身体の流れが歪み、気の循環が滞る状態。
そうなると修練は鈍り、次の境界へ突破するのが難しくなる。
もし、敗北の痛みが“心の後遺症”になるのだとしたら――
――絶対に、負けるわけにはいかない。
背筋がぞくりと震えた。
もし負けたら――その瞬間、俺の人生は終わる。
一族の誰からも尊敬されることは二度とないだろう。
いや、それどころか……死ぬかもしれない。
そして、メイインが奪われるかもしれない。
――そんなの、絶対に嫌だ。
眉を寄せ、俺は深く息を吐いた。
心を落ち着けるために、以前教わった瞑想の基本を思い出す。
瞑想には七つの段階がある――
「座る」「時間を決める」「身体を感じる」「呼吸を意識する」「心の迷いに気づく」「迷いを受け入れる」「優しさで終える」。
……最初の「座る」はすでに済んでいる。
まだ「時間を決めて」いなかったな。
「よし……三十分だけ、やってみよう」
心の中でそう呟き、俺は再び呼吸に集中した。
まずは身体を感じる。
折れた肋骨がまだ少し痛む――けれど、さっきよりずっと楽だ。
骨鍛丹の効果なのかもしれない。
そう思いかけたが、すぐに思考を手放した。
考えるのは今じゃない。
痛みの向こうに意識を向ける。
指先の一本一本、足のつま先の感覚まで。
無意識のうちに、両手は禅那印――瞑想の手印を結んでいた。
この印そのものに力はない。
けれど、心を整える助けにはなる。
首筋から鎖骨へ、汗が一筋流れ落ちる。
次は呼吸だ。
吸って……五秒、止めて……吐く。
吸って……止めて……吐く。
数を数えようとしたが、途中で分からなくなった。
また、心がどこかへ飛んでいた。
“気づいても、責めない”。
そう教わったのを思い出し、迷った自分をそのまま受け入れる。
再び、呼吸に意識を戻す。
空気が鼻を通り、胸を満たし、そして口から静かに抜けていく――その流れを感じながら。
思考が、また別の方向へ漂っていく。
メイインのことを考えていた。
このあと、湯から上がったころに来ると言っていた。
……昔は、よく一緒に風呂に入っていたっけ。
けれど、六歳を過ぎたあたりで、父上にきつく止められた。
「男女のけじめを覚えろ」と。
あれから、もう何年も経った。
そういえば――メイインの正確な年齢って、知らないな。
籠に入った赤子の状態で見つかったと聞いたけど、そのとき何ヶ月だったのか分からない。
もしかしたら俺より少し年上かもしれないし、逆かもしれない。
……いかん。また集中が途切れてる。
軽く頭を振って、意識を呼吸へ戻す。
その瞬間、ふと気づいた。
――あれ? なんか違う。
身体の感覚がさっきまでと違っていた。
うまく言葉にできないけど……少し“重い”。
いや、正確に言うと、“どっしりしている”感じだ。
まるで地面にしっかり根を下ろした木のような、そんな安定感。
これは……骨鍛丹の効果なのか?
そんなことを思っているうちに、約束の三十分が静かに過ぎていった。
「ふぅ……」
長く息を吐き、目を開ける。
――と、その瞬間。
目の前に、別の瞳があった。
驚いてのけぞると、彼女がいた。
「がんばってる?」
メイインが悪戯っぽく笑う。
「うわっ……いつからいたんだ?」
「ちょっと前から」
彼女は湯船の縁に頬杖をつきながら、にこにこと俺を覗き込んでいる。
その笑顔には、いつものように小さな悪意と大きな優しさが混ざっていた。
「ちゃんと薬の成分、全部吸収できたみたいね。
この調子で続ければ、骨がどんどん強くなるはず。
骨が強くなれば、それだけ負荷をかけて鍛えられるもの」
「そうだな。……そうなるといいけど」
俺は苦笑いしながら答えた。
湯気の中で、メイインの笑顔がゆらりと滲んで見えた。
湯船から立ち上がると、冷気が肌を刺した。
思わず身を震わせる俺に、メイインがすぐにタオルを差し出してくれる。
「ほら、風邪ひくわよ」
「ありがと」
言われるままに身体を拭くと、メイインは続けて厚手の白い綿の寝間着を手渡してくれた。
彼女が用意してくれたものだ。
袖を通すと、心地よい温もりが全身を包み込む。
湯気がまだ残る部屋の中で、二人は並んでベッドに腰を下ろした。
「肋骨、どう? 痛みは?」
「もう大丈夫そう。たぶん、もう完全に治ってる」
「それは良かったわ。でも、明日はまだ安静にしておきなさい。
明後日からなら、鍛錬を再開してもいいと思う」
「……でも、一日も無駄にしたくないんだ」
そう言うと、メイインがむっと頬を膨らませた。
「まったく。自業自得でしょ?
“強くなれ”とは言ったけど、“バカになれ”なんて言ってないわよ」
「ぐ……返す言葉もありません。許してください、師匠」
「ふふっ、よろしい」
軽口を叩き合いながら、二人で笑った。
どちらも本気ではない。
こうして冗談を言い合う時間が、ただ嬉しかった。
メイインが見せる笑顔。
その笑顔を見るだけで、不思議と胸の奥が温かくなる。
他の誰といても感じられない、特別な安らぎ。
――彼女は、俺の世界そのものだ。
やがて、まぶたが重くなり、二人とも布団に潜り込んだ。
目を閉じる直前、俺が見たのは――
静かに寄り添いながら眠りに落ちていく、愛しい少女の姿だった。




