旅路にて
呉桃花の厳しい指導のもとで地理を学んできたとはいえ、
俺――|武剣は、これまで一度も他の都市を訪れたことがなかった。
何年もの間、俺はずっと一族の屋敷の中で過ごしてきた。
年に一度の呉氏一族武力競技会で実力を証明してからは、
牙恩城の中へ出ることを許されるようになったが、
それでも行動範囲はそこまでだった。
俺の知る世界は、
牙恩城と、その周囲の森だけ。
――だからだろう。
今、この瞬間、胸の奥から込み上げてくるこの高揚感は。
(これが……初めて牙恩城を離れるってことか)
(他の都市は、どんな場所なんだろう。どれくらい違うんだ?)
新しい街で、
俺たちを待っているものは何なのか。
どんな景色があり、どんな人々がいるのか。
想像するだけで、胸が躍った。
俺は今、赤く塗られた豪奢な馬車の中に座っている。
車体には、さまざまな姿勢を取った麒麟の金細工が施されており、
その装飾の一つ一つが、これまで俺が触れてきた世界とはまるで別物だった。
座席は、これ以上ないほど柔らかい。
ふかふかしていて、
(もしかして雲って、こんな感触なんじゃないか?)
なんて、馬鹿なことを考えてしまうほどだ。
そして、俺一人というわけでもない。
同じ馬車の中には、
不機嫌そうな|呉美影、
興味津々といった様子の|侯静淑、
どこか楽しそうな|周麗華、
そして彼女の二人の女性護衛――
前日に紹介された|周玲と|周蘭が同乗していた。
「……なあ、美影。どうしたんだ?」
俺がそう声をかけると、
美影はぷいっと顔を背ける。
「別に。何でもないわ」
「何でもない人は、
そんな“酸っぱい物を丸呑みした”みたいな顔はしないと思うけど?」
静淑が冷静に突っ込む。
……どうやら、
旅は出発早々、賑やかになりそうだった。
「だから、何でもないって言ってるでしょ。心配しないで」
そう言い切る美影の様子に、
俺は静淑と視線を交わした。
二人とも、理由が分からない。
普段なら、
明るくて、よく喋って、感情も隠さないのが美影だ。
それなのに、今日は最初からずっと機嫌が悪そうで、
しかも、何を聞いても口を閉ざしたまま。
馬車に乗り込んでから、ずっとこの調子だ。
残念ながら――いや、困ったことに――
美影は、何が気に入らないのかを話す気がまったくないらしい。
美影がここまで黙り込むのは、
少なくとも最近の記憶にはない。
……正直、少し心配だった。
ふと、俺は馬車の外に目を向けた。
窓越しに見えるのは、
俺たちを取り囲む護衛たちの姿だ。
彼らは皆、
黄と赤で漆塗りされた軽装の鎧を身に着けている。
層状に鋼の長方形板を紐で編み込んだ、
ラメラーアーマーと呼ばれる鎧だ。
そして――
全員が感応境の修行者。
さらに、その中でも護衛隊長らしき人物は、
修羅境に半歩足を踏み入れている気配すらあった。
世間一般で言えば、
感応境は決して「強者」とは呼ばれない。
だが、
この辺境で暮らす人々にとっては話が別だ。
この土地では、
修行者になれたとしても、
飢餓境で止まる者がほとんど。
呉氏一族の中ですら、
感応境に至った者はほんの一握りしかいない。
それを考えると、
周麗華がこれだけの感応境護衛を連れ、
さらには修羅境半歩の護衛隊長まで擁しているという事実は、
彼女がどれほど重要な存在なのかを雄弁に物語っていた。
この護衛体制は、
周祖の発案だった。
「娘を、ろくな護衛も付けずに他の都市へ行かせるわけにはいかん」
そう言っていたのを、俺は覚えている。
……そのときだった。
赤茶色の髪をした若い男が、
馬車の窓越しにこちらを覗き込んできた。
周超だ。
以前、一度だけ顔を合わせたことがある。
正直に言えば――
そのときから、あまり良い印象は持っていない。
そして、この旅が始まってからも、
その印象が改善されることはなさそうだった。
「周麗華公主、体調はいかがですか?」
窓越しに、周超がそう尋ねてきた。
麗華はにこやかに微笑む。
「ご覧の通り、何も問題ありませんわ。どうぞ、ご心配なさらず」
「念のためですから」
彼の視線が一瞬、俺へと向き、すぐに麗華へ戻る。
「あなたが一緒に行動されている方々が、分をわきまえているかどうか――それを確認するのは大切なことです。……何か、よからぬことを企てたりしないように」
……チッ。
俺は小さく舌打ちした。
周超が去った後、麗華は少し申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。彼、あなたに嫉妬しているのだと思いますわ。わたくしが、あなたを親しい友人のように扱っているから」
「まあ、気持ちは分からなくもないけどさ」
俺は肩をすくめた。
「正直、ちょっと鬱陶しいな」
「嫉妬深い男って、本当に魅力ないわよね」
美影が腕を組んで言い放つ。
「じゃあさ、俺が他の男と話してる美影に嫉妬するのはどうなんだ?」
俺がからかうように聞くと、
「それは困るわ!」
美影は即座に言い返した。
「他の男と話してるのに、あなたが嫉妬しなかったら、すごく嫌よ!」
「……要するに、呉剣が嫉妬するのは良くて、他の人がするのは駄目ってこと?」
静淑が呆れたように言う。
それを聞いた麗華が、くすくすと笑った。
「恋は盲目、とはよく言ったものですわね。きっと、こういうことなのでしょう」
……なんだか、妙に納得してしまった自分がいた。
俺は必死に笑みを隠した。
「どうだろうな。ただ、莉莉が俺に優しくすると、やけにイライラしてるように見えたからさ。もしかして、嫉妬してるのかなって思って」
莉莉――それは美影が周麗華につけた愛称だ。
俺自身はまだ使ったことがなかったが、静淑がここまで分かりやすく動揺しているのを見ると、つい口に出したくなってしまう。
「まあ」
麗華は扇で口元を仰ぎ、楽しそうに微笑んだ。
「ち、違うわよ! 私は嫉妬なんてしてない!」
静淑は食い下がる。
「ふぅん。じゃあ俺の勘違いか。嫉妬する理由なんて、別にないもんな」
「……ない?」
静淑は眉をひそめ、不思議そうな顔をした。
「もちろん。君は俺の知ってる中でも一、二を争うほど可愛いし、そのうち俺の妻になる人だ。嫉妬する必要なんて、どこにもないだろ」
「……あ……」
静淑の頬が一気に真っ赤に染まり、視線が俺から膝の上へと落ちる。
両手で着物の布をぎゅっと握りしめるその仕草が、実に分かりやすい。
……やっぱり、彼女がこうして照れるのを見るのは面白い。
「ずいぶん口がお上手ですのね」
麗華がくすりと笑って言った。
俺は胸を張る。
「お褒めにあずかり光栄です、お嬢様。ですが、俺はただ正直なことを言っただけですよ」
「それで、大華城ってどんなところなの?」
美影が窓から視線を離し、麗華を見て尋ねた。
――この絶好の機会に、俺と一緒になって静淑をからかってこない。
その事実だけで、美影がどれほど気が散っていて、どれほど機嫌が悪いのかが、はっきりと分かった。




