周家の公主と火鍋
やがて、廊下の最奥にある一室へと辿り着いた。
周囲から完全に切り離されたような場所で、
そこに足を踏み入れた瞬間――まるで別世界に入り込んだかのような感覚に襲われる。
背筋を、ぞわりとしたものが這い上がった。
……場違いだ。
そう思わずにはいられなかった。
ここは、本来、俺がいるべき場所じゃない。
小さく、身震いが走る。
案内役の若い女性が、引き戸をほんの少しだけ開いた。
「静華公主様。
お客様がお見えになりました」
「通して」
中から聞こえた声は、
もうすっかり聞き慣れたものだった。
「どうぞ、中へ」
女性は深く一礼し、そう促す。
俺たち四人は、静かに室内へと足を踏み入れた。
そこは、
洗練という言葉がそのまま形になったような食事の間だった。
中央には、低い座卓の円卓。
そして、その卓の中心には――
丸みを帯びた鋼の縁を持つ、炭火用の火床が設えられている。
……火鍋、か。
卓の下には、
柔らかな青色の絨毯が敷かれ、
金糸と銀糸で施された刺繍が、上品に光を反射していた。
その上に、いくつもの座布団が整然と並べられている。
室内の装飾も、抜かりがない。
彩色された柱は、天井の格子細工と見事に調和し、
隅には、手入れの行き届いた小さな盆栽。
床は磨き抜かれており、
まるで――王侯貴族のために用意された部屋のようだ。
天井の板張りに至るまで、
すべてがこの空間の美意識に溶け込むよう、丁寧に彩られている。
……信じられない。
こんなに贅を尽くした場所が、
この牙恩城に存在していたなんて。
しかも、
俺はそれを、今の今まで知らなかった。
呉家は、この街において最も力を持つ一族だ。
周家の方が総合的な実力では上かもしれないが、
彼らは“市政への不介入”を方針としている。
そのため、
権力争いの中では数に入れられず、
結果として――
この街で最も強い一族は、呉家ということになっている。
……だが。
目の前に広がるこの光景を見ていると、
その“常識”が、少し揺らいだ気がした。
卓の一方に腰を下ろしていたのは、
他でもない|周麗華だった。
白を基調に、橙色の差し色が入った豪奢な漢服。
それを身にまとった彼女は、まさに――
息を呑むほどの美しさだった。
衣は肩口がわずかにずれ、
上品に素肌を覗かせている。
……あれは、わざとか?
そう思ったが、
あまりにも自然で、計算なのかどうか判断がつかない。
薄化粧をしているのかもしれない。
瞳の縁には橙と紫を混ぜたような色が差され、
そのおかげで、彼女の眼差しはいつも以上に鮮やかに見えた。
微笑むと、
淡い桃色の唇が艶やかに光る。
……べ、別に。
別に俺は、息を奪われたりなんてしていない。
全然していない。
彼女の美しさに見惚れたりもしていない。
「……いって」
小さく呻き、俺は思わず腰をさすった。
……今、誰かにつねられた。
しかも、かなり本気で。
俺の両脇に立っている二人のうち、
どちらがやったのかは分からないが――
その容赦のなさから考えると、
隣にいる若き公主様の可能性が高い気がする。
|周麗華の背後には、二人の女性が控えていた。
どちらも太極拳衣を着ており、
腰には剣――|剣を佩えている。
俺はまだ鍛体境にすぎない。
彼女たちの正確な境地は分からないが、
間違いなく強い。
少なくとも、
守られている本人より弱い、なんてことはありえないだろう。
|周麗華は立ち上がり、
優雅に一礼した。
「招待を受けてくださって、ありがとうございます。
三人ともに会えて、とても嬉しいです」
その笑顔に、
俺はまた――ほんの一瞬だけ、胸がざわつくのを感じてしまった。
俺、そして美影と静淑もまた、礼を取った。
彼女と同じく、武人式の拝礼だ。
左手の拳を右手の掌に当て、腰を軽く折る。
「こちらこそ。お招きいただき、ありがとうございます。
このような機会を賜り、光栄です」
そう答えたのは静淑だった。
にこやかで上品な微笑み。
やはりこういう場には、俺や美影よりもずっと慣れている。
……さすがは一国の公主だ。
彼女が公の場に姿を現し始めたのは、
九歳か十歳の頃だったはずだ。
それ以前から、王族としての立ち居振る舞いを徹底的に仕込まれていたに違いない。
具体的にどんな教えを受けてきたのかは分からないが、
礼儀作法や社交の規範を、幼い頃から叩き込まれていたのは想像に難くない。
人に何かを教えるなら、幼少期が一番だ――それはどんな世界でも同じだ。
「うん。私も……またお話ししたいと思ってた」
そう続けたのは美影だった。
それを聞いた|周麗華は、
さらに笑みを深める。
「奇遇ですね。私も、また皆さんとお話しできる機会を待ち望んでいました。
あまりゆっくり話す時間は取れませんでしたが、しばらくは修為を安定させるため、
閉関修行に入っていたのです」
「六つも下位境を飛び越えてましたからね。
社交より、そっちを優先するのは当然だと思います」
俺がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。
新しい境地に到達した直後は、
誰であっても力が不安定になる。
それは、急激に増大した気が身体に馴染んでいないからだ。
その状態を解消するため、
修行者はしばしば外界と距離を置き、
瞑想によって自らの力を整える。
体内の陰陽を調え、
溢れ出る気を制御できるようになって、
ようやく次の鍛錬に進める。
――それが、修行の常道だ。
「趣味として錬丹を学んで、
ゆくゆくは副業にできたらいいな、と思っているんです。
錬丹薬の販売には、常に大きな利益がありますから」
|周麗華が、そんなことを口にした。
「でも、錬丹には相応の時間が必要だよ」
美影が指摘する。
「ちゃんと薬を練れるようになるまで、何年もかかる」
「その通りです」
麗華はうなずいた。
「錬丹が形になるまででも長い年月が必要ですし、
周家の名に見合う価値の錬丹薬を作れるようになるには、
さらに時間がかかるでしょう」
それでも――
彼女は、少しだけ目を細めた。
「ですが、もし名のある錬丹師になれれば、
それは一族にとって大きな助けになります」
「……で、君自身はどうなんだ?」
俺はそう尋ねた。
「一族の利益になるかどうかは別として、
君は錬丹師になりたいのか?」
「私、ですか?」
一瞬きょとんとした顔をしたあと、
麗華は首を傾げ、少し考え込む。
そして、柔らかく微笑んだ。
「楽しそうだとは思います。
だから……はい。錬丹師になってみたい、ですね」
「なら、それで十分だ」
俺は即座に答えた。
「自分がやりたいなら、やるべきだと思う。
一族のためとか、周囲の期待とかは二の次だ」
その言葉に、
麗華の笑顔は、さらに花開いた。
「……あなたのそういう考え方、好きです。
ええ、そうですね。前向きに考えてみることにします」
そう言って、
彼女はどこか楽しそうに、湯気の立つ鍋へと視線を移した。
|周麗華とは、
これまでにも何度か顔を合わせてはいたが、
彼女が閉関修行に入っていたため、
最近は一人で過ごす時間が圧倒的に多かったらしい。
招かれるまま、俺たちは席に着いた。
俺は彼女の希望で、|周麗華の右隣。
本来なら美影が俺の隣に座るところだが、
彼女は左側に座ってほしいと頼まれたため、
結果的に、静淑が俺の反対側に座る形になった。
桃華阿姨は、部屋の入口付近で警護の位置につく。
「話を聞く限り……修為はもう安定したみたいだな?」
俺がそう尋ねると、
|周麗華は満足そうに笑った。
「ええ。おかげさまで。
あなたからいただいた聖百合のおかげです。
あれは、私が餓境へ突破するのを助けてくれただけでなく、
気の安定化も、ひと月もかからずに終わらせてくれました。
その過程で、第七小境地にも到達できたのですよ」
「……それは、本当にすごいな」
思わず、素直な感想が口をついて出た。
「大したものだね」
美影も、率直に感嘆の声を上げる。
「自然霊宝の力は、侮れないということですね……」
静淑は小さく呟いた。
「まさか、聖百合がここまで有用だとは……」
その後、|周麗華は、
自分の修行や体質についても少し語ってくれた。
彼女は、生まれつき木と火の二属性を持っているらしい。
そのため、望めば錬丹師になる道も開けているという。
もっとも、現時点ではまだ迷っているそうだ。
周家は、商業と情報収集を得意とする一族。
彼女の立場を考えれば、
将来的には交渉役――
つまり、表舞台で言葉を武器に戦う存在になる可能性が高い。
だが一方で、
錬丹師はどの勢力からも重宝され、
引く手あまたの存在でもある。
――どちらを選ぶにせよ、
彼女の未来が明るいことだけは、疑いようがなかった。




