手紙
周莉華の誕生日から、すでに数週間が経っていた。
それでも――あの夜の騒動は、今なお俺の記憶に鮮明に焼き付いている。
彼女の突破が、あまりにも常識外れだったせいで、
宴はそのまま第二幕、第三幕と続き、まるで終わる気配がなかった。
聖百合を贈った張本人として、
俺は多くの称賛を受け、客人の中でも特別な席を与えられた。
呉家も同様に厚遇され、父上は周祖の隣、
まさに主賓の位置でもてなされていた。
……そして、舞踏が始まった時のことだ。
周莉華は、ほとんど有無を言わせず俺の手を引き、
その夜の大半を、俺と踊って過ごした。
――当然ながら。
静淑の機嫌は、見る見るうちに悪くなっていった。
周莉華に独占されている間、
彼女が浮かべていた、あの露骨な不満顔。
……あれは、たぶん一生忘れない。
翌日など、完全に俺を無視していたくらいだ。
もっとも、それも長くは続かなかった。
「……もしかして、俺を無視してるのはさ。
周莉華がずっと俺と踊ってたから、妬いてるのか?」
そう聞いた瞬間、
静淑の顔は、まるで火系功法を発動したかのように真っ赤になった。
「あ、あ、あああ、あ、あんなのっ……!
べ、別に、そ、そんな理由じゃありません!!」
必死に否定していたが――
「じゃあ、どうして無視してたんだ?」と聞くと、
彼女は完全に言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった。
……分かりやすすぎる。
一方で、美影はというと。
妬いている様子は、まったく見せなかった。
……いや、もしかしたら妬いていたのかもしれないが、
あの子の場合、感情が表に出ないことも多い。
正直、何を考えているのか分からない時がある。
ともあれ――
そんな一連の出来事も、ほどなくして日常に埋もれていった。
◆◆◆
俺は鼻から大きく息を吸い、口から吐き出す。
反射的に両腕を交差させ、美影の拳を受け止めた。
――ドンッ!
拳が当たる鈍い音が、周囲に響く。
歯を食いしばり、踏ん張る。
確かに、重い一撃だった。
だが――
まだ、よろけるほどじゃない。
「……いい拳だな」
そう呟きながら、俺は体勢を崩さずに立っていた。
――もちろんだ。
美影が俺の手首を掴んだ瞬間、
最初からこれが狙いだったのだと、嫌というほど分かった。
次の瞬間、
自分の体重を利用され、俺は彼女の肩越しに放り投げられていた。
空中で身体を捻り、そのまま足から着地する。
すぐに体勢を立て直そうとした――が、
風を切る音。
木製の訓練武器が、一直線に俺の顔へ飛んできていた。
速い。空気を裂くほどだ。
俺は反射的に上体を大きく反らし、
片手を地面につけて身体を支えながら、両脚を跳ね上げる。
――ガッ!
頭上を通過する武器に蹴りを当て、
相手の手から弾き飛ばすことに成功した。
……だが。
意味は、ほとんどない。
相手は――
もう一本、武器を持っている。
「っ――!」
今度は、静淑が残った蝶剣を振り下ろしてきた。
俺は素早く身をかわす。
……が、その先にいたのは――
美影だった。
すでに、低い体勢から脚を振り抜く動作に入っている。
完全に、足払い狙いだ。
「くっ……!」
俺はギリギリで跳び上がり、その攻撃を飛び越えた。
――だが、着地の瞬間。
目の前に、再び静淑が現れる。
彼女は一本だけになった蝶剣を、俺の脚目がけて横薙ぎに振るってきた。
俺は顔をしかめながら、
角度を調整した蹴りを繰り出し、刃の平に叩きつける。
――ズンッ!
強い。
速く、重く、芯を捉えた一撃。
静淑の身体が、わずかによろけた。
――今だ。
俺は一気に踏み込み、反撃に出ようとした。
だが――
その前に、立ちはだかる影。
美影だ。
幽霊のような速さで間合いに入り、
俺の拳が伸び切る前に、彼女は膝を落とし、
手の甲で軌道を逸らして、俺の拳を肩越しへと流した。
「ちっ……!」
間髪入れずに蹴りを放つが、
それも、軽やかにかわされる。
美影は、俺の攻撃を次々と捌きながら、
静淑が体勢を立て直すための時間を、完璧に稼いでいた。
……くそ。
二人とも、完全に息が合っている。
そして――
再び、二人が同時に俺へと襲いかかってきた。
静淑と美影は、本当に相性がいい。
一緒に俺と組手を始めて、まだ十日目だというのに、
互いの動きを“分かっている”かのような連携を見せていた。
……おそらく、二人で何度も手合わせをしてきたからだろう。
静淑は、とにかく速くて鋭い。
蝶剣を使い、俺の防御の隙間を正確に突いてくる。
集中がわずかに途切れた瞬間を逃さず、
機を見て叩き込む――そういう戦い方が、抜群に上手い。
一方の美影は、迎撃と投げに特化している。
彼女の攻撃はすべて、
相手の力と体重を利用して、空中に放り投げるためのものだ。
基本的には、俺に攻めさせる。
そうしてから――
肺の空気を一気に奪うような、凶悪な反撃を叩き込む。
……前回の組手で、身をもって学ばされた。
俺は後退しながら、
静淑が繰り出してくる電光石火の突きをかわす。
右、左――
身体をくねらせるように避け続け、
彼女の構えが一瞬だけ甘くなったのを見逃さず、拳を放った。
一直線。
無駄のない、渾身の一撃。
狙いは――鳩尾。
完璧に入るはずだった。
――だが。
その瞬間にはもう、美影が前にいた。
速すぎて、見えなかった。
彼女は掌で、俺の拳の力を軽く叩き流し――
そのまま、反撃。
……あれをまともに食らっていたら、
普通の人間なら肋骨が砕けていたはずだ。
「っ……!」
俺は身体を捻り、紙一重でその拳をかわす。
――ギリギリだった。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
……近すぎる。
本当に、今のは危なかった。
距離を取るために後退し、
俺は改めて、正統な戦闘の構えを取った。
二人を慎重に観察する。
「まだ、二人同時はきつそうね」
美影がそう言う間に、
静淑は地面に落ちていた武器のもとへ歩み寄り、拾い上げた。
彼女が使っているのは、木製の訓練用小剣――
**蝶剣**と呼ばれる武器だ。
形状が蝶の羽を思わせることから、そう名付けられている。
どちらも大きくはなく、全長は十六寸ほど。
静淑が武器を使うのに対し、
美影は一切、武器を持たない。
彼女の得意分野は、投げ、関節、締め、
そして――経穴や関節への打撃。
正直、
何度、四肢を痺れさせられたか分からない。
……今も。
左脚は、まだ少し感覚が鈍い。
さっき、膝裏の急所を突かれたせいだ。
「最初から、楽に勝てるなんて思ってないさ」
俺は素直に認めた。
「この稽古の目的は、それだからな。
同じくらいの強さの相手を、同時に二人相手にすることに慣れる」
俺は、もう何年も鍛錬を続けてきた。
身体能力だけで言えば――
正直、これ以上、劇的に伸びるとは思えない。
限界が近い。
だからこそ――
別の道を探す必要があった。
その答えが、
静淑と美影を“同時に”相手取ることだった。
二人を捌き切れるようになれば、
それは確実に、俺を一段階上の戦士へと引き上げてくれる。
……楽な道じゃない。
だが――
だからこそ、意味がある。
呉家のような一族は、頻繁に他と争うわけではない。
だが――それは、戦いが生活の一部ではないという意味ではない。
修行者にとって、武の実力は社会そのものに織り込まれている。
強さを戦いによって示すことは、極めて重要だ。
だからこそ、各地で絶えず大会が開かれている。
例外は――錬丹師くらいのものだ。
今この瞬間、
俺は自分専用の訓練場で、上半身裸のまま二人と向き合っていた。
全身に、うっすらと汗が浮かんでいる。
呼吸はやや荒れているが、すぐに整えられる程度だ。
「……続けますか?」
静淑がそう問いかけながら、
手首を器用に返して蝶剣をくるりと回す。
静淑と美影は、どちらも白い太極拳用の道着を着ていた。
俺と同じように汗をかいていて、
首筋や頬に、小さな水滴がいくつも光っている。
……そのうちの一滴が。
鎖骨の美しい曲線をなぞるように滑り、
そのまま――胸元へと消えていった。
「……っ」
思わず、喉が鳴った。
……俺の見方が変わってきただけなのかもしれない。
だが、二人は日を追うごとに、
ますます綺麗になっている気がする。
朝の陽光を受けて、艶やかな髪と瑞々しい肌が輝く。
それだけで、息を呑むほどだった。
――眩しい。
本当に、二人とも。
俺が「続けよう」と言おうとした、その時だった。
訓練場に、足音が響く。
現れたのは――母上だった。
左胸に一族の紋章が刻まれた、正統な漢服姿。
動きやすいように、豊かな袖は今は紐で結ばれている。
仕事の途中なのだろう。
その佇まいには、当主夫人としての威厳がはっきりと漂っていた。
母上は、俺たち三人を見てにこやかに微笑んだ。
「おはよう、三人とも!」
「おはようございます、母上」
「おはようございます、阿姨!」
「おはようございます、小姐・愛蓮様」
それぞれが、それぞれの呼び方で挨拶をする。
……なぜか、それが面白かったらしい。
母上の口元が、くいっと上がった。
それに――
俺には分かる。あの目の光。
……やめてくれ。
その表情、本当にやめてほしい。
絶対、何か恥ずかしいことを言う前触れだ。
ほら、言えよ。
どうせ言うんだろ?
さっさと済ませてくれ……。
「あなたたち、本当に仲がいいわね。ほとんど、いつも一緒じゃない」
……来た。
「まあ、それはさておき。訓練の邪魔をするつもりはなかったんだけど、三人に伝えておきたい大事な話があるの」
……あれ?
冗談じゃない?
からかいでもない?
……逆に、ちょっと拍子抜けした。
俺は美影と静淑に視線を向ける。
二人も同じように首を傾げていた。
――知らない、よな。
当然だ。
母上が、こうして訓練を中断させるなんて、今まで一度もなかった。
それだけで、話の重要さは察しがつく。
「……何かあったのか?」
俺がそう尋ねると、
母上は首を横に振り、にっこりと笑った。
「いいえ、何も問題はないわ。
むしろ――今回の話は、あなたたちにとって“いい知らせ”になると思うわよ」
……いい知らせ?
胸の奥で、
小さく、嫌な予感と期待が同時に膨らんだ。
三人は、もう一度だけ視線を交わした。
「……それで、何なの?」
美影が首を傾げて尋ねる。
「周静華《から手紙が届いたのよ。
三人を、夕食に招待したいんですって」
母上の笑みは、さらに深くなった。
……またか。
彼女の誕生日以降、
周静華は何度も俺たちを呼んでいる。
夕食のためだったり、修練のためだったり。
時には、ただ一緒に出かけたいだけ、なんてこともあった。
牙恩城へ連れ出されて、買い物に付き合わされたことも何度かある。
――そのたびに。
荷物持ちは、決まって俺だった。
三人分の貴族令嬢の買い物袋。
正直、かなりの重労働だ。
……俺が鍛えていて本当に良かった。
そうでなければ、腕が悲鳴を上げていただろう。
もっとも、
周静華のもとへ行くのは、嫌いじゃない。
父上も、周家の令嬢との親密な関係を認めていた。
この世界では、人脈もまた力の一つだからだ。
それを抜きにしても――
俺は、彼女自身が好きだった。
話していて楽しいし、
手合わせ相手としても申し分ない。
そして何より、
俺と美影と静淑の三人組に、自然に溶け込んでくる。
静淑は、まだ少し警戒している節はあるが、
周静華の人懐っこい性格は、どうしても憎めない。
それに――
美影は以前、こう言っていた。
「できるだけ仲良くしておいた方がいいよ。
あの人、将来きっと、建にとって重要な存在になるから」
……今回も、何の用なんだろうな。
そんなことを考えていると、
東の空が、少しずつ白み始めているのが目に入った。
今日という一日が、
静かに、だが確実に始まろうとしていた。




