兎と狐
周囲にいた人々は、あからさまな非難の視線を向けながら、ひそひそと囁き始めた。
……無理もない。美影は、完全に礼を破ったのだから。
父上に至っては、今にも怒鳴り出しそうな顔をしている。
母上は必死に彼をなだめていたし、桃華阿姨はというと――
なんと、額に手を当てて、ぶつぶつと何かを呟いている。祈り……だろうか?
だが、誰よりも強い反応を示したのは――
周莉華だった。
彼女の瞳は、さらに強い光を帯び、楽しげに細められる。
「もちろん。あなたからの挑戦なら、喜んで受けますわ」
そう言って、余裕たっぷりに微笑む。
「もっとも……あなたが突破する頃には、私はもっと強くなっているでしょうけど。
もしかしたら、あなたが飢餓境に至る頃には、すでに動魂境に達しているかもしれませんよ?
それでも――再戦を望みますか?」
「尚更、挑み甲斐があるってものよ」
美影は即座に言い返す。
「まあ、それもあなたが本当に動魂境に到達していれば、だけど。
もし到達できていなかったら……正直、挑戦する価値もないかもしれないわね」
「おほほほ……ずいぶん容赦がありませんのね?」
「うふふふ……当然よ。私は、生まれてこの方、誰にも手加減したことなんてないもの。
ねえ、静淑? 建? 私がどんな人間か、二人なら分かるでしょ?」
……まったく、その通りだ。
二人の少女は、まるで昔からの友人のように笑い合い、火花を散らしていた。
俺は静淑と並んで、一歩引いた位置からその様子を見守っていた――
その時だ。
……おかしな光景が、視界の端に映った。
きっと、気のせいだ。
そう思いたかった。
だが、俺にははっきりと見えた気がしたのだ。
二人の背後に、重なるように現れた“何か”が。
一方は、磨き上げられた翡翠のような毛並みを持つ兎。
もう一方は――九本の尾を持つ狐。
「……ねえ、建」
静淑が、かすれた声で囁いた。
「……これ、あなたにも見えてる?」
「……兎と狐のことを言っているなら――俺にも見えてる」
俺が小声で答えると、
「よかった。私だけじゃないんですね……」
静淑はほっとしたように息を吐いた。
――じゃあ、幻覚じゃないってことか?
……冗談だろ。
さすがに、心の中で悪態をつかずにはいられなかった。
その後、周莉華は、ほとんど半ば強引に――
俺と美影、そして静淑を、宴の間ずっと自分の側に置くよう要求した。
周祖は、「他の重要な客人にも挨拶を――」と控えめに提案したのだが、
娘から一睨みされただけで、あっさり黙り込んでしまった。
……どうやら。
周家の実権を握っているのは、周祖ではなく――
間違いなく、この娘だ。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
卓上を埋め尽くすのは、大陸各地から集められた珍味の数々。
どれもこれも、非の打ち所がないほど丁寧に調理されていて――
正直、俺は食べ過ぎたと思う。
俺は、美影、静淑、そして周莉華と同じ卓に着いていた。
周莉華は主に二人と楽しげに会話を交わしており、
いつもは少し内気で照れやすい静淑でさえ、二人に促されて、
修行や功法の話題で熱心に語っていた。
「……あの田舎者、よくもあんな偉そうに」
「贈り物がすごかったからって、所詮は小さな一族の小僧だろう」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
……当然だ。
三人の美女に囲まれて席に着いていれば、
妬みや敵意を向けられない方が不自然というものだ。
だが、俺はもう慣れている。
そういった視線や悪意は、岩に打ち付ける水のようなものだ。
いずれ弾かれ、流れ去る。
俺は黙って料理を味わい、
誰かに話を振られた時だけ、簡単に答えるに留めた。
やがて――
宴の第一幕は終わりを迎え、
数人の侍女がやってきて、食器を静かに下げていった。
「さて、皆が腹を満たしたところで――いよいよ、二つの目玉行事に移るとしよう!」
周祖が立ち上がり、贈り物が山のように積まれた卓へ、大げさに手を振る。
「まずは、我が愛娘が誕生日の贈り物を開ける。
そして――その後、飢餓境への突破を行い、この世界において真の“大人”となるのだ!」
会場に、期待と緊張が走った。
ほどなくして、周莉華は主役の玉座へと座らされ、
次々と贈り物を手渡されていく。
丹薬、希少な絹布、宝石細工……
どれもこれも、目を見張るほど高価で豪華な品ばかりだ。
……だが。
完全に贔屓目なしで言わせてもらうなら、
やっぱり――俺の贈り物が一番だったと思う。
うん。
これは本当に、まったく偏りのない、純粋な感想だ。
すべての贈り物が開けられ、感謝の言葉が述べられると、
いよいよ本命の行事が始まった。
宴会場の中央が大きく片付けられ、
周莉華がそこに進み出て、静かに腰を下ろす。
彼女が取った姿勢は――跪坐。
踵を臀部の下に入れて座る、伝統的な座法だ。
瞑想や師への敬意を示す際によく用いられる姿勢でもある。
周祖と周家の長老たちは、手分けして彼女の周囲に結界を張った。
それは泡のように半透明で、柔らかく見えたが――
一人の長老が小石を投げ込んだ瞬間、
石は音もなく、完全に蒸発した。
……見た目に騙されてはいけない。
あれは、相当強力な防壁だ。
「これより、莉児の突破が始まる。
全員、沈黙を守ってもらいたい。
もし口を開く者がいれば――即刻、退場してもらう」
周祖の声は低く、反論を一切許さないものだった。
周莉華は静かに呼吸を整え、
聖百合の入った箱を開く。
そして――
花弁を一枚、丁寧にちぎり取り、舌の下へと滑り込ませた。
その後、彼女は目を閉じ、両手で印を結ぶ。
……俺は、まだ気に敏感じゃない。
それでも――
空気が、ざわりと揺れたのを、はっきりと感じた。
目に見えない何かが、彼女を中心に集まり始めている。
会場には、刃物で切れそうなほど濃密な緊張が満ちていった。
誰一人として、息をする音すら立てない。
まるで――
全員が、同時に呼吸を止めているかのようだった。
俺もまた、無意識のうちに息を詰め、
その瞬間を、ただ見守っていた。
周莉華の眉が、きゅっと寄った。
静寂の中で、時間だけがゆっくりと流れていく。
誰もが、固唾を呑んで見守っていた。
突破にはどれほどの時間がかかるのか――それを測りかねて。
俺の知る限り、一般的な修行者なら、突破には三十分ほど要する。
だが……彼女は天才だ。
そこまでかかるはずがない。
――実際。
周莉華が要した時間は、わずか五分だった。
突如として、彼女の身体から力が噴き上がる。
緑がかった燈火のような光――
いや、正確には、生命力をそのまま色にしたかのような、眩い金橙色。
あまりにも鮮烈で、見ているだけで「生」を感じさせる輝きだった。
結界が張られているため、その威圧や気の波動を直接感じることはできない。
それでも――
俺の腕の産毛は、ぞわりと逆立っていた。
周莉華の全身が、光に包まれている。
その姿は、あまりにも神々しく――
一瞬、本当に“天女”でも見ているのかと思ったほどだ。
……だが、彼女は止まらない。
周莉華は、再び花弁を一枚ちぎり取り、舌の下に含んだ。
光が、さらに強まる。
まるで、身体そのものが炎に呑み込まれていくかのようだ。
――さらに一枚。
――さらに炎。
彼女は、淡々とその工程を繰り返す。
一枚、また一枚と、
聖百合の花弁が、すべて使い切られるまで。
やがて。
炎はあまりにも強大となり、
もはや彼女の姿は、火の中のぼんやりとした輪郭としてしか見えなくなっていた。
そして――
光が、ゆっくりと収束する。
周莉華の身体が、前へと傾いだ。
「結界を解除せよ!」
周祖の号令と同時に、防壁が解かれる。
彼は周家の長老たちと共に、すぐさま彼女のもとへ駆け寄った。
周莉華本人は「大丈夫です」と言わんばかりに手を振ったが、
そんな仕草で止まる連中ではない。
一人の長老が彼女の手を取り、
二本の指を脈門へと当てる。
……何をしているんだ?
俺がそう思った、次の瞬間。
「――ろ、六段目……!」
長老が、震える声で叫んだ。
「周莉華は、飢餓境第六小境界に到達!
さらに――百五十の経穴を開通させています!!」
――ざわっ!!
会場は、再び爆発したかのような騒然に包まれた。
驚愕、羨望、恐怖、歓喜。
ありとあらゆる感情が渦巻く中で、俺はただ一人――
呆然と、その光景を見つめていた。
……五分で、六小境界。
しかも、百五十穴開通。
――冗談じゃない。
やっぱりこの女、
ただの「狐」じゃ済まない存在だ。




