妻の務め
屋敷の中には使用人が大勢行き交っていた。
声をかけて、掃除道具の保管場所を尋ねるだけでよかった。
呉建はよく「梅英は何でも知っている」と言っていたが、実際のところ、彼女が知っているのは“視えたもの”だけだ。
視えないことまで知っているわけではない。
声をかけた侍女は、呉建の部屋を自分が掃除すると申し出てくれた。
だが、呉梅英はきっぱりと首を横に振った。
「大丈夫。私がやるわ」
それは“役目”であり、同時に“望み”でもあった。
――これは私の仕事。
――誰にも譲らない。
誰にも、この時間を奪わせるつもりはなかった。
桶と掃除道具を抱えて部屋へ戻ると、侯静淑はまだ呉建のベッドのそばに座っていた。
呉梅英は立ち止まり、しばらくその光景を見つめる。
侯静淑は、眠る呉建の頬を、そっと、慈しむように撫でていた。
その眼差しは――
呉梅英自身が、何度も彼に向けてきたものと同じだった。
(やっぱり……)
友人の瞳に宿るその感情は、否定しようもないほどはっきりしていた。
本人が認めていなくても、もう答えは出ている。
(たぶん、彼女自身も気づいてないのよね)
言ってやるべきだろうか、と一瞬思う。
だが、それはやめた。
気持ちは、誰かに教えられて知るものではない。
自分で気づいてこそ、意味を持つ。
侯静淑の呉建への想いも、きっとそうだ。
自然に気づいた時、その気持ちは、今よりもっと強くなるだろう。
……そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
呉梅英は、侯静淑と呉建の関係を応援している。
本心から、そう思っている。
けれど同時に、
どうしようもなく、独占欲と嫉妬も湧いてくる。
相反する感情が胸の中で絡み合い、
自分でもうまく扱えない、奇妙な感覚を生んでいた。
それでも――
彼女はそれを外に出さない。
すべては、皆が笑っていられるため。
そのために、想いは心の奥へとそっと閉じ込めた。
……たとえ、閉じ込めたからといって、
消えてくれるわけではないとしても。
「ただいま戻ったわ」
そう言いながら、彼女は部屋の奥へと足を踏み入れた。
「ひゃっ!?」
侯静淑は思わず甲高い悲鳴を上げ、勢いよく立ち上がった。慌てて両手を背中の後ろに回し、まるで少年の寝顔をじっと見つめ、頬を撫でていたところを見られたなどという、これ以上ないほど恥ずかしい行為がなかったかのように装う。
「お、おかえりなさい……。そ、それで……えっと……掃除道具は、取ってきたの?」
「もちろんよ」
呉美影はバケツを持ち上げて見せた。
「さあ、掃除を始めましょう」
掃除を始める前に、まずは動きやすくしなければならない。彼女の着ている漢服は袖が長く、ひらひらとしていて邪魔になりそうだった。そこで袖をくるくると巻き上げ、簡単な紐で留める。準備が整うと、彼女は箒を手に取り、掃き掃除を始めた。
部屋の掃除にかかった時間は、せいぜい一時間ほどだった。床を掃いて磨き、窓の埃を拭き、壁をきれいにし、さらには呉剣が鍛錬中に流した汗でできた染みまで落とした。
思っていた以上に手間はかかったが、不思議と苦ではなかった。呉美影は呉剣の世話をするのが好きだった。特に最近は、彼が必死に「頼れる存在」になろうとしているからこそ、なおさらだった。
彼が彼女に何かを頼ってきたのは、いったいいつ以来だろう。指折り数えることすらできないほど昔の話だ。今では、こうして彼の世話ができる時間は本当に貴重だった。
掃除が終わると、呉美影は額に浮かんだ――実際には存在しない――汗を拭う仕草をして、にっと笑った。
「ふぅ。なかなか上出来じゃない?」
「うん。すごくきれいになったと思う」
「これからどうしようかしら? 呉剣のために何か作ったほうがいいかも。薬草を使ったお粥は、熱があるときにいいって聞いたことがあるわ」
「……料理、できるの?」
「……やっぱり料理人の人にお願いしたほうがいいわね」
二人が、使用人にどんな食事を用意してもらうべきか話し合っていると、低いうめき声が耳に届いた。二人は同時に寝台の方を見る。
呉剣が身じろぎし、身体を少し動かしたあと、ゆっくりと目を開いた。何度か瞬きをしているが、その瞳はいつもよりずっと鈍く、焦点が合っていないように見えた。呉美影には、それがまるで熱に浮かされた夢の中にいるように思えた。
「……あ、起きたのね。具合はどう? 私たち、起こしちゃった?」
呉美影がそう尋ねた。掃除中、かなり物音を立ててしまっていた自覚があったからだ。
「いや、大丈夫……たぶん、気持ち悪くて目が覚めただけだと思う」
呉剣はそう正直に答えた。
「それなら、汗を拭いてあげたほうがいいわね」
呉美影は決して、呉剣の身体を拭くことを想像して興奮していたわけではない。断じて違う。ただ、彼が少しでも楽になればいいと思っただけだ。唇を拭ったその“怪しい水分”も、引き締まった腹筋や背中を思い浮かべた結果の涎などでは断じてない。
「ちょっと待ってて。石鹸とお湯を取ってくるわ。静淑、剣のそばにいてあげてね」
「え? ちょ、ちょっと待って――!」
侯静淑が慌てて声を上げたが、呉美影はすでに扉の外へと出ていた。
彼女はご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、近くの井戸でバケツに水を汲む。侯静淑から、帝都の建物には専用の水路があると聞いていたが、こんな辺鄙な場所にそんな便利なものはない。ここでは、水はすべて井戸か川頼りだ。唯一の水路らしい水路といえば、北市場にある噴水用のものくらいだった。
呉美影が部屋に戻ると、そこには上体を起こし、着物を脱ごうとしている呉剣と、それを必死に止めようとしている顔を真っ赤にした侯静淑の姿があった。
「だ、だめよ! そんなふうに脱がないで!」
「でも、べたべたして気持ち悪いんだ……」
「そ、それはそうかもしれないけど……れ、れ、レディの前で脱ぐなんて非常識よ! はしたないわ!」
「……そうなの?」
「当然でしょう!」
こういうことで簡単に取り乱す侯静淑を見るたびに、呉美影はつい楽しくなってしまう。本当に、からかい甲斐のある子だ。
「ただいま。剣、私が脱がせてあげるわ」
「ありがとう、梅」
「め、梅英!」
「なに? 服を着たままで汗を拭けると思ってたの?」
呉美影はそう言いながら寝台に腰を下ろし、呉剣の衣を留めていた帯を解いた。視線を侯静淑に向けることもなく、そのまま衣をはだけさせると、長年の苛烈な鍛錬で鍛え上げられた筋肉が露わになる。汗に濡れた肌のあちこちには、どこか刺激臭のある黒ずんだものが付着していた。病のせいだろう。
呉美影は、思わずその身体に見入った。
剣の体格は、大きすぎず小さすぎず、彼女にとっては理想的な均整だった。何より印象的なのは、ほとんど脂肪のない身体だ。そのおかげで、一つ一つの筋肉がはっきりと浮かび上がっている。
(……この筋肉、いくらでも見ていられる……)
「も、もちろん違うけど……で、でも、やっぱり不適切じゃない?」
侯静淑は耳まで真っ赤にして言った。両手で顔を覆っているものの、指の隙間はしっかり開いていて、そこから様子を覗いているのが丸わかりだった。
「相変わらず真面目ね、静淑」
呉美影はくすっと笑うと、布を手に取り、石鹸水に浸してから軽く絞った。湿り気を残したまま、呉剣の背後に座る。病に伏していても、その広い背中は力強く、頼もしさを失っていない。
布を背中に当てると、掌の下で筋肉がぴくりと反応した。その感触に、思わず心がくすぐられる。
「違和感があったら、すぐ言ってね」
「ん……わかった」
呉剣の体がわずかに力を抜いた。いつもならどんな時でも背筋を伸ばしている彼が、今は少しだけ身を預けている。心地いいのか、それともただ疲れているだけなのか――美影には判断がつかなかった。
彼女は丁寧に、背中の隅々まで汗を拭いていく。想像以上に汗をかいていた。立ち上る体温と、どこか懐かしい匂いに、集中するのが少し難しくなる。
そのとき、ふいに――
胸の奥に、ぼんやりとした映像が浮かんだ。
少し成長した呉剣の姿。
誰かと寄り添い、穏やかに笑っている――そんな、言葉にしづらい未来の一場面。
誰なのかは、わからない。
ただ、なぜか胸がざわついた。




