進退窮まる
「……明家の連中は、我々を舐めすぎている」
父はそう吐き捨てるように言い、険しい表情で眉をひそめた。
双牙山脈へ入り、周麗華の誕生日に贈る品を探しに行った翌朝のことだ。
昨夜は全員、疲れ果てて床に就いた。正直に言えば、頭が枕に触れたあとの記憶はほとんどない。
帰路で襲撃を受けただけでも十分すぎるほどだったのに、桃華は俺たちに、襲ってきた連中を“殺させた”。
肉体的にも、精神的にも――限界だった。
今朝、俺は悪夢で目を覚まし、冷や汗で身体を濡らしていた。
頭では理解している。俺は間違ったことをしていない。
あの傭兵たちは善人ではなかったし、もし捕まっていたら、死ぬよりも酷い目に遭っていたはずだ。
それでも――胸の奥では、命を奪ったことへの後悔と、失われた自分の無垢さを悼む気持ちが消えなかった。
それ以上に、俺は梅英と静淑のことが気がかりだった。
俺と同じように、あの出来事を重く受け止めているのだろうか。
昨夜、梅英は桃華に必死に頼み込んでいた。
「静淑と一緒に、建と同じ部屋で寝たい」と。
大騒ぎだったが、桃華は容赦なく却下した。
その上、追い打ちをかけるように、俺の住まいには夜通し見張りの護衛が増員された。
……本当に、二人のことが心配だった。
――もっとも、本来なら俺自身のことを心配すべきだったのかもしれない。
朝、起こされてから鏡を見たとき、自分の姿に愕然とした。
肌は血の気を失ったように青白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
充血した目には、赤い血管のような筋が走っていた。
眠れていない証拠であり、心が休まっていない何よりの証明だった。
俺はまだ、あの夜を乗り越えきれていない。
いずれ人を殺すことになるとは、覚悟していた。
だが、こんなにも早く訪れるとは思っていなかったし――ここまで辛いものだとも、思っていなかった。
今でも、胃の奥がむかむかしている。
呉斐や呉明と戦ったときでさえ、実際に誰かを殺したわけではなかったのだ。
「報復すべきです!」
呉金祟長老が声を荒げた。
父は深いため息をついた。
「それは分かっている。しかし……できん。
魏の裏切りが起きる前ならともかく、今は無理だ。
我々は戦力のほぼ半分を失っている」
元長老の呉魏は、単独で父を排除しようとしたわけではなかった。
彼は、父を快く思わない者たちを集めていたのだ。
正統な後継者ではないにもかかわらず族長になったこと。
血筋よりも功績を重んじる方針。
それらを理由に、父に不満を抱く者は少なくなかった。
表には出さずとも、心の奥に怨恨を溜め込んでいた者たちが、確かにいた。
その処理を任されたのが、桃華だった。
彼女と、彼女に直接鍛えられた少数の者たちは、反乱に関わった者をすべて始末した。
女も、子どもも――例外なく。
二度と立ち上がらせないためだ。
それはあまりにも苛烈で、残酷なやり方だった。
正直に言えば、俺はあの判断に賛同できない。
それでも、族長という立場にある者には、そうした重い決断を下すことが求められるのだということも、理解はしている。
「向こうは分かっているのよ」
桃華が静かに言った。
「私たちが、無謀に仕掛けられないことを。
だからこそ、あそこまで大胆に出てきている。
以前なら、あんな露骨な態度は決して取らなかったはずよ」
――追い詰められているのは、俺たちだった。
巨石家と明家は、正式に婚姻によって同盟を結んでいた。
巨石美鈴が明深に嫁いだことで、両家の結びつきはこれまで以上に強固なものとなっている。
今この状況でどちらか一方に手を出すということは、もう一方にも同時に喧嘩を売るのと同じだ。
彼らがここまで大胆に振る舞えるのは、新たな同盟関係と、そして我が呉家が戦力を大きく削がれたからに他ならない。
その時、俺は父の応接間に座っていた。
そこには父と母、呉桃華、そして長老たちが集まっていた。
父は玉座のような椅子に腰掛け、背もたれにもたれながら腕を組んでいる。
その険しい表情を見れば、一昨日の件に対して強い怒りと不満を抱いているのは明らかだった。
「……奴らが雇っていた傭兵は、あれだけではないのだろう?」
母が静かに問いかけた。
呉桃華は首を横に振った。
「いいえ。私たちを襲ったのは、天皓が雇った傭兵のほんの一部にすぎません」
「ということは……」
父は低く唸るように言った。
「今動けば、多くの族人を失う覚悟が必要になる、というわけか」
状況はまだ破滅的というほどではない。
だが、決して楽観できるものでもなかった。
呉家は確かに斬市で最も強い一族だ。
だが、それは好き勝手に振る舞えるという意味ではない。
明家と巨石家はいずれも有力な一族であり、両家が手を組めば、その戦力は呉家に迫る。
しかも向こうには、強力な傭兵団を雇える錬丹師がいる。
一方こちらは、裏切り者の一件で人手を大きく失ったばかりだ。
今、攻めに出るのは――自殺行為に等しい。
「傭兵団の規模は? 人数はどれほどだ?」
父がそう問いかけた。
「先日倒した五人を除けば、傭兵はおよそ五十人ほどでしょう」
呉桃華がそう答えた。
「我が呉家の族人は現在およそ二百名。巨石家と明家は、それぞれ七十名ほど……つまり、両家を合わせれば百九十名ほどになるわね」
母は顎に指を当て、しばらく考え込んだ。
「数だけ見れば、ほぼ互角。でも……個々の戦力はどうなの?」
「戦力は、おそらく……」
大人たちの会話を追おうとした、その時だった。
視界が急に滲み、頭ががくりと下がった。
強烈な眠気が、容赦なく押し寄せてくる。
俺は一度、頭を振って意識をはっきりさせようとしたが、まるで効果がなかった。
「建、話を聞いているのか?」
父の声が、厳しく、低く響いた。
「……き、聞いています」
そう答えたものの、自分でも驚くほど声に力がなかった。
母が慌てて俺のそばに駆け寄り、額に手を当てた。
次の瞬間、彼女は小さく息を呑んで手を引いた。
顔を上げて母の表情を見ようとしたが、視界がぼやけていて、何もはっきりとは見えない。
「……熱がひどいわ。どうして熱があるって言わなかったの?」
母の声には、明らかな焦りが滲んでいた。
「熱……? 俺が……?」
そう口にした瞬間、身体がぐらりと揺れた。
しゃがんだ姿勢だったせいか、前のめりに倒れそうになる。
――だが、地面に倒れることはなかった。
母が俺を抱き留め、胸元に引き寄せてくれたからだ。
不思議と、彼女の身体はいつもより冷たく感じられた。
了解しました。Part 5 を日本語に翻訳し、呉建の一人称視点で、体調不良による朦朧さや弱さが伝わる文調に整えます。
「……ひどい高熱よ」
母はそう呻くように言うと、父と呉桃華の方を振り返った。
「詳しく診る必要があるけれど……煎熱病の可能性が高いわ」
煎熱病――?
その時の俺は、その病気が何なのかまったく分からなかった。
母は後で説明してくれた。
煎熱病とは、飢餓境界に突破する前の者にだけ発症する、非常に稀な病で、しかも潜在能力の高い者にしか起こらないらしい。
未だ完全に目覚めていない丹田が、強い負荷を受けたことで半端に活性化し、それが原因で身体の均衡が崩れる――そんな説明だったと思う。
極度の精神的・肉体的圧迫を受けた時、身体が弱り、この病に付け込まれるのだという。
……ずいぶん条件の厳しい病気だな、と思ったのを覚えている。
それ以降のことは、正直あまり覚えていない。
周囲の景色は霧がかかったようにぼやけていて、途中で眠ってしまったのかもしれない。
やがて、世界は完全に暗転した。
次に目を開けた時、俺は自分の寝台の上にいた。
額には、ひんやりと湿ったものが当てられている。
何度か瞬きをし、起き上がろうとしたが――無理だった。
身体にまったく力が入らない。
心も、体も、底の底まで疲弊していた。
全身が軋むように痛い。
「建! やっと目を覚ましたのね!」
視界の上に、呉梅英の顔が現れた。
安堵と心配が入り混じった表情だった。
「……なにが……起きてる?」
自分でも分かるほど、声が掠れて弱々しい。
「煎熱病よ」
梅英は淡々と告げた。
「阿姨が薬を作って、あなたを寝かせたの。煎熱病の治療法はね、とにかく休んで、汗をかくことしかないんですって」
「……そうか……」
やっぱり、本当に病気だったらしい。
それは……正直、最悪だ。
こんな状態じゃ、鍛錬なんてできるわけがない。
「大丈夫?」
別の声が聞こえた。
首を動かせなかった俺は、目だけを動かす。
梅英の隣には、侯静淑がいた。
彼女は、はっきりと不安の浮かんだ目で俺を見つめている。
「大丈夫だよ。ただの病気だ」
二人を安心させようと、そう言った。
俺は生まれてこの方、一度も病気になった覚えがない。
だが――もし病気というものがこんなにも辛いものなら、もう二度とかかりたくない。
身体は鉛のように重く、筋肉は軋み、喉は痛み、
熱いのか寒いのかも分からず、吐き気までこみ上げてくる。
……病気って、最悪だ。
「とにかく、寝なさい」
梅英が、濡れた手拭いを額に当ててくれた。
焼けつくように熱い肌に、その冷たさが心地よかった。
「静淑と私で看病するから。今は休むの」
いつもなら「大丈夫だ」と反論していたかもしれない。
でも、この怠さでは、そんな気力すら湧かない。
それに――梅英にそう言われたら、最初から逆らえなかっただろう。
「……うん……わかった……ありが……とう……」
まぶたが、どうしても開いていられない。
ひどく、ひどく眠い。
小さく息を吐き、俺はそのまま目を閉じ――
深い眠りへと、再び沈んでいった。




