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初めての血

梅英は――本当に見事だった。

相手の攻撃を、まるで先読みしているかのようにかわし続け、隙を見つけては素早い拳を胴体へ叩き込む。

一発一発は致命傷には見えない。だが、男は剣を振り回しながらも、次第に動きが鈍くなっていった。

理由は、はっきりしている。

梅英の攻撃は、すべて同じ場所を狙っていた。

一撃では大したことがなくても、同じ箇所に何度も打ち込まれれば話は別だ。

――蟻に一度噛まれても痛くはない。

だが、百回噛まれたら?

千回噛まれたら?

それが、積み重なるダメージというものだ。

いわゆる「千刀刻み」。静かで、だが確実に命を削る戦い方。

男の剣筋は次第に重く、遅くなっていく。

最後の一撃を横にかわした梅英は、伸びきった相手の腕を掴み、その体重を利用して地面へと投げ飛ばした。

男が息を荒くし、もがいた瞬間――

ドンッ。

側頭部への鋭い蹴り。

男は一言も発せず、そのまま意識を失った。

(……さすがだな)

一方で、静淑の方は少し苦戦しているように見えた。

だが、それでも十分に善戦している。

俺や梅英とは違い、彼女は双短剣――蝶刃を使っていた。

その扱いは驚くほど洗練されている。

相手は槍使いで、間合いでは完全に不利だ。

だが、突きが来るたびに、静淑は体をわずかに傾け、片方の刃で槍先を弾き、軌道を逸らしていた。

(……うまい)

力で押す戦いじゃない。

冷静で、理性的で、無駄のない動き。

――二人とも、確実に強くなっている。

そう実感しながら、俺は次に起こる一瞬に備えて、呼吸を整えた。

火花が散った。

蝶刃と槍がぶつかるたび、乾いた金属音が森に響く。

男は明らかに苛立っていた。顔は赤くなり、呼吸も荒い。

「このクソアマッ! なんで死なねぇんだ!!」

静淑は何も言わなかった。

ただ、必死に相手の攻撃を受け流し続けている。

近づけない。

男がそれを許さない。

だから彼女は守りに徹し、相手が自滅するのを待っていた。

無理に攻めず、焦らず、ただ――機を待つ。

そして、その瞬間は訪れた。

男は踏み込みすぎた。

前に出過ぎ、体勢を崩し、よろめく。

「はあああっ!」

静淑が声を上げ、拳を突き出した。

だが――タイミングが、ほんのわずかにずれた。

拳は肩の横を空振りし、

その代わり、手に持っていた蝶刃が――

喉を裂いた。

「……あ……」

小さく、信じられないような声が静淑の口から漏れた。

男は何も言えず、そのまま前のめりに倒れ、地面に伏した。

静淑は後ずさりし、何度も瞬きをする。

大きく見開かれた目。

そこに映っていたのは――自分がやってしまったことへの、純粋な恐怖だった。

俺と梅英は、すぐに彼女の元へ駆け寄った。

「……静淑?」

声をかけると、彼女は必死に言葉を探す。

「わ、私……違うの……その……狙ったわけじゃ……彼が、勝手に……その……」

言葉にならない。

心が、完全に追いついていない。

――当然だ。

事故とはいえ、人を殺してしまったんだ。

しかも、おそらく初めて。

俺は何も言わず、彼女を引き寄せた。

そして、そのまま――

強く、抱きしめた。

「大丈夫だ。あいつは俺たちの命を狙っていた。静淑は、守るために必要なことをしただけだ。……何も悪くない」

そう言うと、静淑は手にしていた蝶刃を取り落とし、そのまま俺にしがみついてきた。

泣いてはいなかったが、小さな嗚咽が、胸に顔を埋めたまま漏れてくる。

――今さら気づいたが、

静淑がこんなふうに俺に抱きついてきたのは、これが初めてだった。

本当なら、この瞬間を大切にしたかった。

だが――そんな余裕はなかった。

遠くから、怒号と罵声が響いてくる。

呉桃華と李狼の戦いは、まだ終わっていない。

視線を向けると、二人の激突がはっきりと見えた。

李狼は火属性の使い手だった。

頭上で斧を振り上げると、刃が一瞬で炎に包まれる。

「――炎斧爆砕フレイム・アックス・バースト!!」

斧を叩き下ろした瞬間、

刃から噴き出した炎が奔流となり、一本の木へと襲いかかった。

桃華は炎が届く寸前で木から跳び退き、空中から数本の針を投げ放つ。

針は李狼の体に突き刺さり、彼は顔を歪めながらそれを引き抜いて地面へ捨てた。

再び、両手で斧を握りしめる。

振るわれた刃から、またも炎が奔り、桃華を焼き尽くそうとする。

だが彼女は木々を盾にしながら、紙一重でその攻撃をかわした。

――これが、本物の修行者同士の戦い。

飢餓境に到達した呉飛との戦いとは、まるで違う。

あいつは突破したばかりで、境地も安定していなかった。

この光景は――

父上が、斑点雪獅子と戦ったときのことを思い出させた。

圧倒的で、

恐ろしくて、

それでいて――目を奪われるほど、壮絶だった。

「はぁ……はぁ……クソ女……ちょろちょろ……逃げ回ってないで……正面から……戦いやがれ……」

李狼の声は掠れ、肩が激しく上下していた。

「ふん。これが私の戦い方よ。気に入らないなら、諦めなさい」

桃華が冷たく言い放つ。

怒りに満ちた唸り声を上げ、李狼は斧を頭上に掲げて振り下ろそうとした――が、その瞬間、前のめりによろめいた。

斧が手から滑り落ちる。

喉元から血が噴き出し、地面に滴り落ちる。

彼は両膝と両手を地につき、苦しそうに喘いだ。額、首、腕の血管が異様に浮き上がっている。

「……こ、これは……毒か!? いつの間に――あの針か!!」

「気づくのが遅すぎるわ。でも、分かっただけでも上出来ね。さあ、大人しく死になさい。二度と私たちの前に現れないように」

「クソ女……俺は……こんな……終わり方……認めねぇぇぇぇっ!!」

最後の力を振り絞り、李狼は立ち上がって桃華へ突進した。

だが、彼女は冷え切った瞳でそれを見据えるだけだった。

片腕しか使えないにもかかわらず、まったく慌てる様子はない。

十分に引きつけ――左へ身をかわす。

同時に、鞘から蝶刃を抜き放ち、男の喉元へと滑らせた。

さらに血が噴き出し、李狼の胸元を赤く染める。

喉から掠れた音を漏らしながら、男は前のめりに倒れた。

身体が数度、びくりと痙攣し――やがて完全に動かなくなる。

その目から、生命の光が消えていった。

桃華は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、こちらへ振り向いた。

「あなたたち三人も、相手を倒したようね。……殺したの?」

「一人はね」

梅英がそう答え、静淑のほうをちらりと見やる。

「他の二人は気絶してるだけよ」

――俺は、その光景を見つめながら、胸の奥がひりつくのを感じていた。

静淑はその言葉を思い出したのか、びくりと身体を震わせ、俺の服をぎゅっと強く掴んだ。

俺は彼女の頭を胸に押し当て、深呼吸するのを感じながら抱きしめる。彼女はひどく震えていた。

「なら、やりなさい」

桃華の冷たい声が響く。

「生かしておくわけにはいかない。今が、人の命を奪う重さを理解するには一番いい機会よ」

静淑は俺の胸の中で小さく身を竦めた。

梅英は桃華を睨んでいたが……俺は分かっていた。彼女の言っていることは、正しい。

今が、唯一安全に“最初の一線”を越えられる時なのだ。

気は進まなかったが、後になって命のやり取りの最中に恐怖で動けなくなるよりは、ずっといい。

俺は静淑をそっと離し、梅英に預けると、彼女が落とした蝶刃の一本を拾った。

倒れている男の元へ歩み寄り、仰向けに転がす。

膝をつき――心臓の位置へ、迷いなく刃を突き立てた。

一瞬だった。

男の目が見開かれ、次の瞬間、身体から力が抜ける。

……俺は……殺した。

人を殺した。

こんなにも、あっけないものなのか……?

胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われたが、吐くことはなかった。

俺は黙って刃を拭い、皆の元へ戻り、再び静淑を腕の中に抱き寄せる。

その間に、梅英が自分の相手に向かった。

静淑の髪に顔を埋める。

汗の匂いがしたが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、その匂いが俺を落ち着かせてくれる。

――必要だった。分かってる。

こいつらは脅威だった。きっと今までにも、何人も殺してきたはずだ。

梅英と静淑を殺し、俺を攫うつもりだった。

だから、これでよかった……はずだ。

だが、どれだけ理由を並べても、胸の奥の重さは消えなかった。

この感覚が、いつか薄れてくれることを願うしかない。

気分の悪さを押し殺し、俺は腕の中の静淑に意識を向け続けた。

人を殺す日が来ることは分かっていた。父からも、覚悟しておけと言われていた。

山賊や悪党は時折この街に現れ、その対処もまた、呉家の役目なのだと。

思っていたより早く訪れただけだ。

梅英が相手の前に立つのを見ながら、これが本当に正しいのかと一瞬だけ考え――

それでも、答えは最初から分かっていた。

力がすべてを支配し、慈悲が弱さとされるこの世界では、

敵を完全に排除することこそが、唯一の合理的な選択なのだ。

俺は、いつか人を殺すことに慣れてしまうのだろうか。

……そして、慣れたいと思う日は来るのだろうか。

血に染まった森の上で、星々が静かに、冷たく輝いていた。


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