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紅に染まる夕暮れ

「……悪くないわね、ここ」

梅英が小さくそう呟いた。

「でも、ちょっと狭すぎない?」

静淑が不満そうにぼそりと言う。

「その分、建に近づける理由ができたじゃない。嬉しいでしょ?」

「そ、そんなわけないでしょ!」

「自分に正直にならなくていいの?」

「なってるわよ!」

二人のやり取りに小さく息を吐き、俺は声を落とした。

「二人とも、冗談はそこまでだ。音を立てすぎるのはよくない。

この辺りを、あの傭兵たちが偶然通らないとも限らない。静かにしていたほうがいい」

梅英も静淑も素直に頷き、それ以上は何も言わなくなった。

俺は目を閉じ、呼吸に意識を集中させる。

……とはいえ、無理だった。

左右にいる梅英と静淑の存在を、嫌でも意識してしまう。

汗の匂いが微かに鼻に残り、体温がじかに伝わってくる。

身体が触れ合っている感覚が、やけにはっきりしていた。

自覚はしている。

今は危険な状況だ。集中しなければならない。

それでも――思春期に差しかかったばかりの俺にとって、

隣にいる二人の少女は、どうしても意識せずにはいられなかった。

どれくらい時間が経ったのか分からない。

静寂の中で、やがて梅英の呼吸がゆっくりと規則正しくなった。

眠ったらしい。

彼女は俺の肩に頭を預け、腕を胸に抱き込むようにしている。

傭兵に追われている最中だというのに、

この女は本当に肝が据わっている。

一方で、静淑は眠れないようだった。

洞穴の外をじっと見つめ、

今にも誰かが現れるのではないかと警戒している様子だ。

「……桃華さん、捕まったりしてないよね?」

小さく、震える声だった。

俺は少し体勢を変えた。

そのせいで、梅英がさらに俺に寄り添ってくる。

首元にかかる彼女の吐息に、一瞬だけ思考が乱れたが、

気づかれないように服の中を整え、静淑に答えた。

「可能性がゼロとは言わない。けど……桃華さんは熟練の暗殺者だ。

隠密技術も一流だし、本気で姿を消すつもりなら、

あんな荒くれの傭兵たちに見つかるとは思えない」

そう言いながら、俺は洞穴の外――

木々の隙間から見える、赤く染まり始めた空を思い浮かべていた。

まるで血に染まったような、紅い夕焼けだった。

桃華さんのことも、暗殺者としての腕前も、正直まだ全部を知っているわけじゃない。

でも、ここ最近でその一端は見た。

速く、音もなく、まるで周囲に溶け込むみたいに動く人だ。

「……そうだね。でも、やっぱり心配だよ。もう何時間も経ってる。ほら、太陽も沈み始めてる」

静淑の言う通りだった。

山を下りた時はまだ昼だったのに、今はもう夕暮れ。

空は赤や紫、桃色が入り混じった鮮やかな色に染まり、

間もなく気温も下がってくるだろう。

冬じゃないのは不幸中の幸いだ。

もし今が冬だったら、夜を迎える頃には凍え死んでいたかもしれない。

桃華さんのことが心配じゃないと言えば嘘になる。

それでも――俺は彼女の実力を信じていた。

それよりも、ずっと気になっていたことがある。

「……なあ。あの煙玉、どこから出てきたんだ?」

そう聞くと、肩に頭を預けていた梅英が、突然口を開いた。

「阿姨が用意してくれたの」

「起きてたのか」

俺は首を回して彼女を見る。

「さっき起きたの」

伸びをしようとして、洞穴が狭すぎることに気づいたのか、

梅英はそのまま俺の肩に頭を戻した。

「阿姨がね、救急箱の中に入れてくれてたの。

備えあれば憂いなし、って思ったんじゃないかな」

「母さんの用心深さには助けられたよ」

俺は素直にそう言った。

「あれがなかったら、さっきの状況から逃げ切るのは相当きつかった」

「同感です」

静淑も頷く。

「あなたのお母様、準備が本当に行き届いていますね」

俺は静淑の方を見た。

「そういえば……静淑。

君のお母さんの話、前に聞いたことなかった気がするんだけど」

「話せるなら、喜んで話したいんだけどね」

静淑は、どこか悲しげで、同時に少し無理をしているような笑みを浮かべた。

「私の母は……私が本当に小さい頃に亡くなったの。

だから、ほとんど覚えていないのよ」

「……そうか。ごめん」

俺は思わず視線を落とした。

「大丈夫よ」

静淑は首を横に振った。

「もうずいぶん昔のことだし、記憶もほとんどないから、悲しくて仕方ない……ってわけでもないの。

ただ……強いて言えば、“恋しさ”みたいなものはあるかな」

彼女はズボンの裾をぎゅっと握りしめ、生地にしわを作りながら、

夕焼けに染まる空を遠く見つめた。

「周りの子には、みんなお母さんがいたでしょう?

私はいつも、それを見て……羨ましいなって思ってた。

転んだときにキズに口づけしてくれるお母さんとか、

悪いことをしたらちゃんと叱ってくれるお母さんとか、

悪夢を見た夜に、黙って抱きしめてくれるお母さんとか……

そういう存在が、ずっと欲しかった」

侯淑は、侯君皇帝の唯一の娘だ。

とびきり大切にされ、同時に過剰なほど守られて育った。

父親は、彼女が欲しがるものはほとんど何でも与えた。

その溺愛こそが、彼女をこんな辺境にまで送り出した理由でもある。

息子たちが繰り広げる政治闘争の“駒”にされないように、だ。

確かに、あれほど大切にされるのは幸せなことかもしれない。

でも――

俺には分かる気がした。

きっと静淑は、

間違えたときに叱ってくれる存在、

無条件で甘やかすだけじゃない“母親”を、どこかで求めていたんだ。

他の子たちは、彼女を「恵まれている」と言うかもしれない。

けれど俺は、ただ胸が痛くなった。

母親のいないまま育つのは、きっと想像以上に寂しい。

「……同じじゃないかもしれないけどさ」

俺はそう言って、そっと彼女の膝に手を置いた。

「俺たち、結婚するんだろ?

だったら……俺の母さんのこと、君の母さんだと思ってくれていい」

静淑は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに目尻が潤み、柔らかな笑みを浮かべた。

「……ありがとう、建」

俺も小さく笑い返した。

それから少し時間が経ち――

やがて、岩壁の上から気配がした。

呉桃華が崖を登りきり、洞窟の前に片膝をついて姿を現した。

その瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が一気に抜けたのをはっきりと感じた。

「いい隠れ場所だったわ。正直、私でも見つけるのに時間がかかった」

彼女はそう言ってから、表情を引き締めた。

「出てきて。痕跡は一応消したけど、いずれ見つかる。次の手を考えないと」

俺たちは洞窟の外へ出――

そして、同時に息を呑んだ。

呉桃華の体は、傷だらけだった。

左腕からは血が流れ、即席の布で胴に固定されている。

右目は腫れ上がり、紫色に変色している。

明らかに、強烈な一撃を受けた痕だ。

「な……何があったんだ?!」

俺は思わず声を上げた。

呉桃華は顔をしかめた。

「痕跡を消している最中に、傭兵の一人と鉢合わせた。風属性の使い手よ。

半歩、修羅境に足を踏み入れていたわ。

正直、あそこまで強いとは思っていなかった……不意を突かれて、少しやられた」

「……“少し”って言い方じゃないだろ、それ」

「でも、始末はつけた」

「始末って……」

「死んだ、という意味よ」

「……そうか」

俺は小さく頷いた。

命を狙われた以上、相手を殺すのは当然だ。

それは理屈では分かっている。

それでも――

胸の奥が、ぞわりと震えた。

ここは、俺がまだ完全には慣れていない世界だ。

「まずは傷を治さないと。そんな状態じゃ、まともに動けないよ」

梅英が医療箱を抱えてこちらへ来ると、地面に置いて中を探り始めた。

しばらくして、いくつかの薬膏と包帯を取り出す。

「感謝するわ」

呉桃華は小さく息を吐き、あぐらをかいて座ると、素直に梅英の手当てを受け入れた。

「一人始末できたってことは……残りは四人ね」

静淑は親指を噛みながら考え込む。

「隙を突いて、やり過ごすことはできないかしら?」

呉桃華は少し考え込んだ。

「風使いがいなくなった今なら、可能性はある。

ただし、家に辿り着く前に見つかる可能性も高い。

背中を敵に晒したまま撤退するのは、正直おすすめできないわ」

「……つまり、倒すしかないってことか」

俺は小さく呟いた。

「残りの傭兵たちは、どれくらい強い? 分かってるのか?」

「ええ。痕跡を消しながら偵察もしていたから」

そう言ってから、彼女は腫れた目を閉じた。ちょうどその時、梅英が薬膏を塗り始める。

だが、呉桃華は一切声を上げなかった。

処置が終わり、梅英が一歩下がると、彼女は続きを語った。

「敵のリーダーは、私とほぼ同じ修為ね。

勝敗は技量と戦術次第になる。

他の連中は……飢餓境にすら達していないわ」

「じゃあ、修行者ですらないんだな」

俺は頷いた。

修行者は珍しい存在じゃないが、決して多くもない。

百人に一人いるかどうか――そんな世界だ。

仮に商国に二百五十万人の人口がいるとすれば、修行者はせいぜい二万五千人前後。

それが現実だ。

つまり――

あの傭兵たちの大半は、ただの“力のある一般人”に過ぎない。

それでも、油断はできない。

命のやり取りに、弱者も強者もないのだから。

修行者がこれほど希少な存在である以上、才能を持つ者を国が積極的に育成しようとするのは当然のことだ。

ただし、国の資源にも限りがある。

才能に乏しい修行者は、容赦なく切り捨てられる。

傭兵になった修行者というのは、大抵が宗門や皇立学院に入れなかった連中だ。

理由は様々だが――要するに、主流から外れた存在。

つまり、小物だ。

……もちろん、その小物である李狼でさえ、今の俺が正面から相手にできるような相手じゃない。

「一般の傭兵三人なら、俺たち三人で倒せると思う」

顎に手を当てながら、俺は言った。

「若いとはいえ、俺たちはしっかり鍛えてきたし、かなり強い。

ただし、問題はリーダーだ。あいつを他の三人から引き離す必要がある」

俺と梅英、そして静淑は、同時に呉桃華を見た。

彼女が李狼に勝てなければ、他の三人を倒せたところで意味がない。

数瞬の沈黙の後、呉桃華はゆっくりと一度だけ頷いた。

「不意を突ければ……勝てると思うわ」

「なら決まりだな。しっかり作戦を練って、それから奴らを叩く」

俺は立ち上がった。

こんな状況でも前向きでいられるのは、たぶん梅英くらいだろう。

彼女はにっと笑った。

「やっと、私がどれだけ強くなったか見せる時ね」

「私も戦うわ」

静淑は強い光を宿した目で言った。

「もう足手まといじゃない。二人と同じくらい、私だって戦えるって証明する」

呉桃華は俺たち三人を見渡し、それから静かに微笑んで立ち上がった。

「分かったわ。奴らの拠点の場所は把握している。森の外れよ。

向かいながら、作戦を詰めましょう」

こうして俺たちは、赤く染まる夕焼けの下、再び森の中を歩き始めた。


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