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聖蓮花(せいれんか)

「……なんて綺麗なんだろう」

梅英が頬に手を当て、うっとりとした声で呟いた。

「本当に……まるで幻想の世界みたい」

静淑も同意するように、湖を見つめる。

「――あ、あれは……聖蓮花よ!」

桃華が息を呑んで叫んだ。

桃華が言う聖蓮花というのは、百合に似た大きな花だった。ただし、普通の百合とは明らかに違う。

花弁は最低でも十二枚、多いものでは二十枚以上ある。

さらに奥には、俺がこれまで見たこともないほど巨大な花が浮かんでいた。

あれは……百枚はあるだろう。いや、もっとあるかもしれない。この距離からでは正確にはわからなかった。

「聖蓮花なんて、聞いたことないわ。どんな花なの?」

静淑が首を傾げて尋ねる。

「聖蓮花は非常に希少な霊花よ。一輪を服用するだけで、修為を丸ごと一境界引き上げる効果があるわ」

桃華は真剣な表情で説明を続けた。

「この花は十年に一枚、花弁を増やすの。花弁の数が多いほど効果も強くなる。あそこにある一番大きなもの……少なくとも千年以上は生きているはずよ。私の目には、百枚以上あるように見える」

――とんでもない代物だ。

話を聞いただけで、喉が鳴る。

正直、できることなら今すぐ全部持ち帰って、自分の修行に使いたい衝動に駆られた。

だが、俺はまだ若すぎる。今の俺には使えない。

それに――もっと重要な目的がある。

「……じゃあ、これは周莉花への贈り物として、申し分ないんじゃないか?」

俺はそう問いかけた。

「ええ。これ以上ないほど素晴らしい贈り物ね」

桃華は認めつつも、すぐに表情を引き締めた。

「ただし、軽率に動くべきではないわ。天然の霊宝には、必ず守護する魔獣がいる。人間と違って、五階位に達していない魔獣や、契約主を持たない魔獣は、こうした霊宝に頼って力を増すしかないの」

桃華は湖面を鋭く見据えた。

「……この水の中に、何かがいるはずよ。

あなたたちは下がって。ここは私が対処するわ」

空気が、わずかに張り詰めた。

桃華姐が一歩前に出ると、俺たち三人は反射的にトンネルの方へ下がった。

彼女は両手で印を結んだ――どの印かは俺には見えなかった――その瞬間、彼女の姿が目の前から消えた。

俺は思わず瞬きを何度も繰り返し、静淑が小さく驚きの声を上げる。

桃華姐が技を使うのを見るのはこれが初めてじゃない。それでも、毎回のように圧倒される。

(速すぎる……! 一体どれだけ速く動けるんだ……?)

彼女の姿は見えなかったが、湖の水面がわずかに揺れ、ちょうど十枚の花弁を持つ聖蓮花が、ゆっくりと水面から持ち上がってくるのが見えた。

波紋はほとんど立っていない。

――このまま、何事もなく手に入る。

少なくとも、その時まではそう思った。

次の瞬間、洞窟全体を震わせるような甲高い鳴き声が響き渡り、水中から触手が一斉に飛び出した。

黒く、うねる肉の塊。一本一本が俺の胴体より太く、表面には無数の吸盤がびっしりと並んでいる。

「きゃあっ!!」

俺と静淑は同時に悲鳴を上げ、思わず湖から距離を取るように後ずさった。

次の瞬間、桃華姐が姿を現した。

その手には、しっかりと聖蓮花が握られている。

「動いて! 早く! 来た道へ戻るわ!」

言われるまでもなかった。

俺たちは全力で踵を返し、来た道を走り出す。

背後では、あの触手が追ってきていた。

――しかも、思っていたよりずっと長い。

(どこまで伸びるんだ……!?)

少なく見積もっても、何百丈もありそうだった。

一本の触手が、あと少しで桃華姐を掴みそうになる。

だが彼女は一瞬で剣を抜き放った。

俺の目が追いつく前に、蝶剣が閃き、触手を鋭く弾き飛ばす。

――速い。

速すぎる。

俺はただ、必死に足を動かしながら、背後で起きている光景を信じられずにいた。

触手は、俺が想像していたように切断されたわけではなかった。

**ガンッ!**という、まるで金属同士がぶつかったような鈍い音が響き、触手が弾き返される。

だが、それで終わりじゃない。

触手はすぐに再び彼女へと伸びてきた。桃華姐は、そのたびに蝶剣を振るい、掴まれそうになるのを防ぐ。

ガン、ガン、ガン――

剣と触手がぶつかる音が、洞窟の中に反響していた。

やがて俺たちは湖まで辿り着き、迷うことなく水へ飛び込んだ。

腕と脚を必死に動かし、全力で泳ぐ。

(追ってくるか……!?)

そう思ったが、泉の水面から抜け出しても、何も追ってはこなかった。

どうやら、あの触手には伸びられる限界があったらしい。

俺たちは全員、水面に顔を出し、岸まで泳いで這い上がると、その場に座り込んで荒い息をついた。

「……こ、怖すぎる……」

静淑が息も絶え絶えに呟く。

「ほ、ほんとそれ……。もう二度とやりたくない……」

梅英も肩で息をしながらそう言った。

「……あれ、何だったんだ?」

俺が尋ねると、桃華姐は少し考え込むような表情になった。

「おそらく淡水タコね。こんな場所にいるなんて驚きだけど、普通はもっと大きな湖に棲む魔獣よ」

淡水……タコ?

「もし推測するなら、かなり年老いた個体ね。地下水脈を通って、ここまで流れ着いたのかもしれない。……この泉がある理由も、それで説明がつくわ」

「でも……なんで追ってこなかったんだ?」

俺の問いに、桃華姐は静かに頷いた。

「いい質問ね。タコは狭い場所を通り抜けるのが得意だし、あれだけ巨大でも、無理をすればこのトンネルを通れたはずよ」

それでも来なかった。

「おそらく、聖蓮花を無人にしたくなかったのね。魔獣は、自分の手に入れた宝を異常なほど大切にする。目を離した隙に奪われるのを、何よりも嫌うのよ」

……なるほど。

「私たちが持ち去ったのは一本だけ。それ以上追いかける価値はない、と判断したんでしょう」

そう言って、桃華姐は立ち上がった。

「目的のものは手に入ったわ。……帰りましょう」

俺は深く息を吸い込み、まだ高鳴る心臓を落ち着かせながら、静かに頷いた。

桃華姐は立ち上がると、自分の衣服のところへ行き、聖蓮花を慎重に箱へ収めてから着替え始めた。

その箱は決して大きくはない。

だが、表面には俺には読めない紋様がびっしりと刻まれており、ただの箱には見えなかった。俺に分かるのは、それらが封印陣だということだけだ。中身の鮮度を保つためのものらしい。

自然の秘宝は、きちんと保存しなければすぐに力を失ってしまうと聞いたことがある。

俺と梅英、そして静淑も服を着直したが、二人とも盛大に文句を言い始めた。

「水のせいで、服が体に張り付くんだけど……」

「ほんと、それ。気持ち悪い……」

二人の不満を聞きながら、俺は思わず苦笑してしまう。

自分から付いてきたんだろ、とは口に出さなかったが、どうやら顔にははっきり出ていたらしい。

「ちょっと、笑わないでくれる?」

静淑が睨んでくる。

「笑ってないぞ? 今、笑い声聞こえたか?」

俺がそう返すと、梅英がすかさず口を挟んだ。

「心の中では笑ってるでしょ」

「何のことやら」

そう言いながら、俺たちは山をゆっくりと下り始めた。

慎重に、一定のペースを保ちながら進み、やがて麓へ辿り着く。

視界いっぱいに森が広がっている。

桃華姐は一度立ち止まり、周囲を見回して位置を確認すると、呉家の屋敷へ向かう道を示して歩き出した。

……その時だった。

木々の間から、数人の人影が現れ、俺たちを取り囲んだ。

見覚えのある顔は一人もいない。

全員が荒んだ雰囲気を纏い、泥にまみれ、ボロボロに傷ついた鎧を身に着けている。手にしている武器も統一感がなく、どれも古く、錆びついていた。

――嫌な予感しかしない。

俺は無意識のうちに、息を詰め、周囲の動きに意識を集中させた。

――傭兵か?

父上が、最近斬市ザン・シティ近辺で傭兵が目撃されていると言っていたのを思い出す。

だが、なぜこんな森の中に……?

その中の一人が一歩前に出て、歯を剥き出しにした下品な笑みを浮かべた。

大柄な男だった。

筋肉の塊みたいな体は鎧に収まりきっておらず、今にもはち切れそうだ。長い髪は後ろで一つに束ねられ、右頬には十字型の傷跡が刻まれている。顔には脂汚れがこびりつき、鼻は明らかに何度も折られてきた形をしていた。

鎧のない腕がむき出しになっていて、そのごつい腕が嫌でも目に入る。

「おやおや、誰かと思えば……お前が呉桃華だな?」

男はそう言ってから、顎で俺の方を指した。

「それに……そこのガキとも、ちょっと用があってな」

――やっぱり、俺が狙いか。

無意識に歯を食いしばり、体の奥で気を巡らせる。

背後に立つ梅英と静淑の気配を感じながら、俺は一歩も退かず、男を真っ直ぐに睨み返した。


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