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捕食者が獲物になる時

衝撃から立ち直る間もなく、その女は体をひねり、両足を天林の胸へと叩き込んだ。

鈍く、しかしはっきりとした破砕音が室内に響き、天林の体は宙へと浮かされる。

「ぐあっ……!」

背中が壁に叩きつけられ、壁面がへこむ。

天林はどうにか足から着地したものの、膝が笑い、体が思うように動かない。今の一撃で肋骨がほぼ砕けていた。直前に咄嗟で気を巡らせて身体を強化していなければ、確実に死んでいただろう。

「く、くそっ……!」

この女がここにいる時点で、誘拐計画は完全に失敗している。

どうやって自分の動きを察知されたのかは分からないが、もはややるべきことは一つしかなかった――逃げる。

だが、窓へ向かおうとした瞬間、呉桃花が跳びかかってきた。

彼女は一瞬で進路を塞ぎ、出口との間に立ちはだかる。

天林は歯を食いしばった。

彼女が投げ放った数本の鋭い針を、身体をくねらせてかわす。だが一歩下がった瞬間、足元の地面に突き刺さった一本が目に入った。

――毒付きの千本。

「なるほどな……お前も俺と同じ、暗殺者か」

天林の言葉に、呉桃花は答えない。

代わりに、さらに数本の針を投げつけてきた。彼はすべて回避したが、その直後、彼女の手が奇妙な形を取った。

印――手印だ。

手印は天の十二支を基にした古い気の運用法で、十二種すべてが組み合わさることで多様な技を生み出す。

発動までに時間がかかり、知っている者には次の技を読まれやすいため、今では使い手も少ない。だが、その代わり、気の制御精度は飛躍的に高まる。

彼女が組んだのは――申の印。

「ちっ……!」

天林が悪態をついた瞬間、彼女が投げたすべての千本が宙に浮かび、彼を中心に収束し始めた。

彼は急いで気をかき集め、身体の周囲に薄い防御膜を形成する。

そして――

防御を固めたまま、呉桃花へと正面から突進した。

もはや暗殺者の隠密ではない。

そこにあったのは、ただの――

力と力の衝突だった。

多くの千本は外れたが、何本かは確かに天林の体に突き刺さった。

チクリとした鋭い痛みに顔を歪めるが、彼はそれを意志の力でねじ伏せ、そのまま突進を続ける。

呉桃花は直撃を避けるため、やむなく跳び退いた。

その隙を逃さず、天林は窓を突き破る。壁は爆ぜ、木片が四方に飛び散った。彼はそのまま地面に着地し、全力で走り出す。

本気でやり合えば、あの女に勝てたかもしれない。

だが、それには時間がかかる。そして、ここに長く留まれば留まるほど、敵は増える。

背後から、地面を打つ足音が響く。

追ってきている――そう理解した瞬間だった。

――警鐘が鳴り響いた。

屋敷中に警報が広がり、侵入者の存在を告げる。

天林は内心で激しく毒づいた。

(クソ……クソクソクソッ! 一体何が起きた?!

どうして俺があのガキを攫いに来ると分かった!?

痕跡はすべて消したはずだ……誰にも気づかれるはずがない!)

本来なら、楽勝の任務だった。

皇都の名門のような重警備も、気を感知する哨戒も、この呉一族には存在しない。子ども一人を攫うなど、赤子の手をひねるようなもの――そう思っていた。

それがどうだ。

捕まりかけ、追われ、しかも体が重くなり始めている。

(あの千本の毒……鎮静剤か)

顔を醜く歪めながら、天林は走り続けると同時に、体内に気を巡らせて毒を血流から押し流そうとする。

そして、誰にも阻まれることなく塀へと辿り着き、跳躍した――

――が、そこで足が止まった。

塀の向こうには、数十人の呉一族の者たちが待ち構えていた。

まるで、ここへ逃げてくると分かっていたかのように。

その先頭に立っていたのは、呉一族の当主を名乗った男だった。

腕を組み、表情は冷酷そのもの。

彼から放たれる殺気に、天林は思わず身震いした。

天林は背後を振り返り、塀の屋根に立つ呉桃花の姿を捉えた。

彼女の指の間には、投擲用の短刀が何本も整然と挟まれている。いつでも投げられる構えだ。

「ここは呉一族の敷地だ。貴様は侵入し、なおかつ後継者の誘拐を企てた。その傲慢さ、底が知れんな。この罪で死を招いた。――遺言はあるか?」

低く、冷え切った声でそう告げたのは呉曜石だった。

天林は鼻で笑う。

「死を招いた、だと? ……くだらん茶番だ。遺言ならあるぜ。“また会おう”だ」

誰かが動くより早く、天林は懐から複数の球体を取り出し、地面へと叩きつけた。

次の瞬間、爆ぜるように煙が広がる。

「なっ――!?」

攻撃態勢に入っていた呉一族の者たちが、突然の濃煙に驚きの声を上げる。

天林はその隙に姿を消そうとした。

――だが、できなかった。

横合いから人影が現れ、鋭い殺気が走る。

彼は辛うじて左眼を狙った一撃を躱したが、腹部に突き立った一本の針までは避けられなかった。

喉までせり上がった悲鳴を噛み殺し、よろめきながら振り向く。

そこに立っていたのは――呉桃花ではなかった。

拳を引き絞り、燦然とした気を纏う呉曜石が、無言で立っていた。

――ああ……クソ……

時間が引き延ばされたかのように、拳が迫る。

もう抗う力は残っていない。鎮静剤が全身に回り、気の操作すらままならなかった。

まさに――案山子同然。

拳が叩き込まれた瞬間、肋骨が砕ける感覚すら曖昧だった。

痛みを感じる前に、身体は宙へと持ち上げられる。

意識が遠のく、その刹那。

天林の脳裏に、妙に澄んだ理解が浮かんだ。

……井の中の蛙は……

俺の方だったってわけか……クソ……

◆◆◆

警報が鳴り響く音で、俺は目を覚ました。

音は一族の屋敷全体に広がっているようだったが、ここからだと少し距離があるらしく、起きたのは俺だけのようだ。両脇で眠っている二人は、まだ夢の中にいる。

俺はベッドの上で身体を起こし、左右を確認した。

呉美影はほとんど寝相が変わっておらず、相変わらずコアラのように俺の腰にしがみついている。一方で、侯景淑は動いていた。さっきまでは少し距離を取って寝ていたはずなのに、今はすぐ隣で、俺の腕をぎゅっと掴んだまま眠っている。

――コン、コン、コン。

廊下へ続く扉が強く叩かれ、大きな音が部屋に響いた。

その音に、侯景淑がびくっと身体を跳ねさせて目を覚ます。

「なに……? なにが起きてるの……? この音……?」

瞬きを繰り返しながら、上体を起こして目をこする。

「誰かが扉を叩いてる。どうぞ、入ってください」

俺はそう声をかけた。

「えっ!? 呉剣!? な、なんで私、あなたのベッドに――!?」

驚いた様子で叫ぶ侯景淑。どうやら完全には状況を把握できていないらしい。

俺は苦笑しながら彼女を見る。

「忘れたのか? ここは君の部屋じゃなくて、美影の部屋だ。それに――俺が攫われるっていう彼女の予知があったから、三人で一緒に寝てただろ」

「……あ、そ、そうだったわ。今、思い出した……」

侯景淑は気まずそうにそう言い、顔を赤く染めながらそっぽを向いた。だが次の瞬間、自分がどれほど俺に近づいていたかを自覚したのか、小さく悲鳴を上げて、慌てて距離を取った。

そのタイミングで、扉が静かに開く。

中へ入ってきたのは、呉桃花、父上、そして母上だった。三人とも表情は硬く、緊張感が漂っている。呉桃花と父上は戦闘の装いで、桃花は夜に溶け込むような黒装束、父上は淡く気を放つ鎧を身にまとっていた。

「その様子を見る限り……やっぱり天林は、本当に俺を攫おうとしたんですね?」

俺がそう尋ねると、父上は短く頷いた。

「ああ。つい先ほど、お前の部屋に忍び込んだ。気絶させて屋敷の外へ連れ出すつもりだったようだ。もちろん返り討ちにした。今はもう……地の下だ。しかし、お前を攫おうなどという不埒な輩が現れたこと自体、看過できん」

本来なら生け捕りにして事情を聞くつもりだったらしいが、奴は逃走を図った。そのため、止むを得ず討ち取ったとのことだった。生かして禍根を残すより、ここで完全に脅威を断つ方がいい――それが父上の判断だ。

そのとき、美影がようやく目を覚ました。

彼女はゆっくりと上体を起こし、大きく欠伸をしながら、ぺちぺちと唇を鳴らす。お世辞にもお淑やかとは言えない仕草だったが……正直、かなり可愛かった。呉桃花と父上は微妙な顔をしていたが、母上だけはにこやかに微笑んでいる。

「んん……なに、こんなに騒がしいの?」

眠そうにそう言う美影に、俺は答えた。

「父上が来たんだ。どうやら、天林が本当に俺を攫おうとしたらしい。……君が言ってた通りだったよ」

「ああ……それで……この騒ぎ、なの……?」

美影は大きな欠伸の合間に、そう呟いた。何度か瞬きをしたかと思うと、俺の方へ身を寄せ、肩に頭を預けて腕に抱きついてくる。

「じゃあ、もう大丈夫なら……もう少し寝るね。いい枕になって、動かないで」

そう言い終える頃には、彼女の呼吸はすでに規則正しくなっていた。

「……あの子、本当にマイペースよね」

美影の寝息を聞きながら、侯景淑が呆れたように言った。

「うん。ほんとにそうだよ」

俺は苦笑しつつ、どこか愛おしさを込めて答えた。

「あの子なら、それでこそだな。はぁ……いずれにせよ、お前に直接及ぶ最大の脅威は排除された。しかし、状況が万全になったわけではない。天豪と、彼女が雇った傭兵たちの件を早急に片付ける必要がある」

父上はそう言い、腕を組む。

「我々は周氏一族の力を借りるつもりだ。天豪と天林の情報を提供したのも彼らだ。今回も協力してくれる可能性は高い」

「……それを俺に話してるってことは、俺の助けが必要なんですよね?」

俺がそう尋ねると、父上はわずかに目を細めた。

「察しがいいな。その通りだ。周氏に協力を仰ぐため、お前に一役買ってもらいたい」

父上は静かに続ける。

「ちょうど都合のいいことに、周麗華の十八歳の誕生日が近い。お前はすでに招待を受けているな。次の任務は、呉氏を代表して贈り物を携え、彼女の誕生日の席へ赴くことだ。そして――我らの要請を、彼女の父に取り次いでもらえ」


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