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第12話 父がくれた期待

この国では、「名誉」と「敬意」が何よりも重んじられていた。


それこそが、社会の礎――つまり、この世界の“生きる形”だった。


敬意を得るには、まず家族に名誉をもたらさねばならない。


そしてその最も確かな方法は――強くなること。


強さこそが家族の誇りとなり、名誉を築く。


名誉は敬意を生み、敬意が立場を高める。


……俺はいま、弱い。


だけど、もし強くなれたなら――きっと。


「はい、そこまで。今は“治す”のが先決でしょ」


メイインの声が、思考の渦を切り裂いた。


「わかってる。でも……治ったら、すぐ鍛錬を再開するんだよね?

なにか、もっと効率的に鍛える方法ってないのかな」


俺がそう言うと、メイインは少し首を傾げ、唇に指を当てた。


「うーん……もしかしたら、あるかもしれないわね。

ウー・イエイェに聞いてみましょう。何か書物があるかも」


二人で図書館へ向かう。


木造の階段を上がると、いつもの静寂が迎えてくれた。


本棚の奥で書物を整理していたウー・イエイェに事情を話すと、返ってきた言葉は残念なものだった。


「申し訳ないが、今のお前たちの段階では、強くなるための近道などほとんど存在せん」


落胆の色を隠せない俺たちに、ウー・イエイェは優しく続けた。


「以前渡した修練の巻物、読んだだろう? ……うむ。

今、お前たちは鍛体境にいる。

これは“境界”というよりも、境界に至る前段階だ。


この段階では、経脈がまだ形成されておらず、丹田も活性化していない。

つまり――体の中に気を蓄えることができんのだ」


「じゃあ、飢餓境に入るには……?」


「肉体を鍛え、気を受け入れる器を作ることだ。

器が強ければ強いほど、多くの気を蓄え、自在に操れるようになる。

強い器は壊れにくい――それが理だ。

つまり今できることは、鍛錬あるのみ」


「……つまり、普通に鍛えるしかないってことですね」


落胆のあまり、思わずため息が漏れた。


ウー・イエイェは、その名にふさわしい柔らかな笑みを浮かべてうなずいた。


「その通りじゃ。もちろん、若者の体を鍛え上げ、気を受け止める器を作る助けとなる薬草や丹薬も存在する。


だが――この辺りには、そんな薬草はほとんど自生しておらん。

ザン市で出回っている丹薬も、数えるほどしかない」


「じゃあ、どこなら見つかるの?」

メイインが尋ねる。


「双牙山と、その周囲の森だな」


ウー・イエイェの表情が、少しだけ険しくなった。


「だが、わしが言うまでもないが……あそこは危険じゃ。

魔獣が多く棲みついておる。命を落とす者も少なくない」


双牙山――それはザン市とウー一族の屋敷の近くにそびえる、二つの巨大な山だ。


その名の通り、大地から突き出した二本の牙のように見えることから、そう呼ばれている。


父上も母上も、俺に何度も言い聞かせていた。


「あの山には決して近づくな。恐ろしい魔獣がいる」と。


つまり――


天然の霊薬を探しに行くことは不可能。


錬丹師もいない今、丹薬に頼る望みもほとんどないということだ。


「叔父上は……息子に使わせる丹薬をお持ちじゃないんですか?」


メイインが口を挟んだ。


その瞬間、ウー・イエイェの笑みが消え、声音が厳しくなる。


「お嬢さん、それは口にすべきことではないぞ。

確かにウー一族には、わずかに丹薬の備えがある。

だが、それは“気まぐれに使っていいもの”ではない。

ましてや、兄弟喧嘩のようなくだらん理由で使うなど――もってのほかじゃ」


俺が思わず眉をひそめると、ウー・イエイェはくすりと笑った。


「なんだ、その顔は。知らぬと思ったのか?

お前が半兄のウー・ヨンに“力量試験での決闘”を申し込んだ話――もう一族中に広まっておるわい」


……やっぱり、もう噂になってたのか。


顔の熱を、どうにかして抑えることができなかった。


口を開きかけて、俺は慌てて閉じた。


ウー・ヨンとの一件は、いずれ一族中に広まるだろうとは思っていた。


だが――まさか、こんなに早く噂になっているとは。


結局、ウー・イエイェからは特別な助言も得られず、俺とメイインは肩を落としながら自分の棟へ戻ることにした。


……が、部屋の前まで来たところで、足が止まった。


そこに――誰かが立っていた。


「……っ」


思わず喉が鳴る。


赤と黒の漢服をまとい、金の龍を刺繍した布地が威圧的に光る。


腕を組んだその大柄な姿。


――父上。


武悠士。


俺の父であり、ウー一族の族長。


険しい表情で俺たちを見下ろし、何も言わずにしばし沈黙する。


その手には何かを持っていたが、俺はただその圧に押され、目を向けることすらできなかった。


「叔父上、お目にかかれて光栄です」


メイインが一歩前に出て、右手の拳を左の掌に当てて礼をする。


「どのようなご用件で、こちらに?」


父上は片眉をわずかに上げたが、メイインの小悪魔のような笑みを見ると、「ふん」と鼻を鳴らして視線を俺に戻した。


「……聞いたぞ」


その声は、低く、重く、胸の奥まで響く。


「お前が六ヶ月後の力量試験で、ウー・ヨンに決闘を申し込んだそうだな」


――質問ではなかった。


確認ですらなく、断定。


その一言で、背筋が凍る。


何を言えばいいのか分からなかった。


「……はい」と認めるべきか、それとも誤魔化すべきか。


父上が怒っているのかどうかも分からない。


喉がひどく乾いて、息を飲み込むたびに痛い。


けれど――嘘をつくのは、もっと悪い。


それだけは、ウー・ヨンに散々叩き込まれていた。


「……はい。挑みました。ウー・ヨンに……決闘を」


「ふむ」


父上は鼻を鳴らすと、ゆっくりとうなずいた。


「そうか。ならば安心だ」


「……え?」


思わず間抜けな声が出た。


“安心”――? 今、なんて言った?


父上はわずかに口元を動かした。


ほんの少し――本当に少しだけ笑ったように見えた。


それは不自然で、ぎこちない笑みだった。


たぶん、他の誰が見ても「顔が引きつっている」としか思わないだろう。


けれど、俺には分かった。


何度もこの人の表情を見てきたからこそ、それが“笑み”だと気づけた。


「今まで、お前はウー・ヨンにいくら侮辱されても、一度も立ち向かおうとはしなかった。

正直、男としての骨が一本も入っていないのではと心配していたが……

どうやら間違っていたようだな」


「……父上?」


「動機はどうであれ、自分で拳を上げた。それでいい。

男とはそういうものだ」


俺もメイインも、言葉を失っていた。


父上が“褒める”なんて、人生で初めて聞いた気がする。


「……ごほん。それと――これを持っていけ」


そう言って、父上は俺の手に何かを押し付けた。


掌の上で、小さな丸い玉が数個、光を受けてきらめく。


「これは口にするものではない。

今夜、風呂に一つ入れろ。

それから毎朝、鍛錬を終えた後にも一つずつ。

体の回復を助けるはずだ」


それだけ言うと、父上は背を向けた。


去り際に、ふと振り返って一言だけ。


「……お前の鍛錬の成果、楽しみにしている」


その背中が遠ざかっていく。


胸の奥が熱くなり、何かを言おうとして――


結局、声にならなかった。


俺とメイインは、しばらくその場で固まっていた。


沈黙のあと、目を見合わせる。


次の瞬間――


「急げ!」


「うん!」


二人して一族の棟に駆け戻り、俺の部屋の戸を閉める。


鍵をかけ、窓の雨戸もしっかり閉めた。


部屋が闇に沈む。


息を整えながら、枕元の小さなランプに火を灯すと、薄明かりの中に“箱”が浮かび上がった。


天色の木箱――


雲が渦を巻くような模様が描かれ、木目の流れと重なって、まるで空を閉じ込めたようだった。


「……中、何が入ってるんだろう」


「開けてみなきゃ分からないわ」


「だよな。開けてみよう」


指が震える。


紐を解くのにも時間がかかった。


慎重に蓋を持ち上げる。


――ぶわっと、薬草の香りが鼻を刺した。


強烈な匂いに、思わずむせ返る。


中には、深い緑色の丸い丹薬が、ふかふかの布の上に整然と並べられていた。


全部で十二粒。


淡く真珠のような光沢を帯びて、まるで息づいているようだった。


「……これって、錬丹の丹薬じゃないか?」


自分の目を疑いながら言う。


「そうね。間違いないわ」

メイインがうなずいた。


「でも……ウー・イエイェが言ってたじゃないか。

父上は“兄弟喧嘩のために丹薬を使うような真似はしない”って」


「言ってたわね」


メイインはくすりと笑いながら肩をすくめた。


「でも、もしかしたら――叔父上は、誰よりもあなたを気にかけてるのかもよ」


「……父上が?」


再び箱を見下ろす。


胸の奥が、熱くなった。


ずっと、父上は俺を失望していると思っていた。


いつも無表情で、叱るばかりで、目を合わせることさえ滅多になかった。


だけど――この丹薬は、確かに“俺にくれた”ものだ。


俺を見て、俺のために。


それだけで、心がふわりと浮かぶように温かくなった。


「……そうだと、いいな」


小さく呟いた声は、自分でも驚くほど優しい響きを帯びていた。

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