井の中の蛙
俺は、その場で完全に固まった。
――今の、聞き間違いじゃないよな?
意味を確認しようと口を開きかけたが、すぐに閉じた。
適切な言葉が、まったく思い浮かばなかったからだ。
(……誰だ、この女)
「おい! 聞こえなかったの? 耳が聞こえないのかしら?」
女は苛立った声を上げた。「来いと言ったでしょう」
痺れを切らしたのか、彼女は俺に手を伸ばしてきた。
――だが、その手が俺に触れることはなかった。
二人の影が、俺の前に立ちはだかったからだ。
蛇のような鋭い視線で女を睨みつけながら、美影と景珠が俺と女の間に割って入る。
「失礼ですが、あなたが誰であろうと、私の剣に触れることは許しません」
美影は嘲るように鼻で笑った。
「玩具にする? 冗談も大概にしてください」
「たとえあなたが錬丹師でも、何をしてもいいわけではありません」
景珠も一歩も引かずに続ける。
「法は存在します。尚王国の民を力ずくで連れ去る行為は犯罪です。再考することをおすすめします」
女の顔が、怒りで歪んだ。
作り物めいた美貌は、醜い形相によって台無しになっている。
「……あんたたち、何様のつもり?」
吐き捨てるような声だった。
「この私に向かって、そんな口を利くとはいい度胸ね。
井の中の蛙――小さな井戸の底から空を見上げて、それが世界のすべてだと思っている愚か者ども」
女は鼻で笑った。
「あなたたちは、自分たちの視野がどれほど狭いかも分かっていない。
……ふん。まあいいわ。私も寛大だから、今回だけは無礼を許してあげる」
そして、俺を見た。
「――その代わり、その坊やが私について来るなら、ね」
三人とも、どうすればいいのか分からず、完全に行き詰まっていた。
美影も景珠も、この女に俺を渡す気など微塵もない。
そして当然、俺自身にも、彼女についていく意思など欠片もなかった。
だが――相手は錬丹師であり、同時に修行者でもある。
錬丹師が修行者でないなどあり得ない。
丹薬を精製するには、気(Qi)が必要なのだから。
たとえ彼女が**飢餓境(Hunger Realm)**に過ぎなかったとしても、
それでも俺たちとは桁違いの強さだ。
――それが、境界の差というものだった。
どう動くべきか必死に考えていた、その時。
「……随分と無分別だな。
錬丹師だからといって、何をしても許されると思っているのか?」
別の声が、広場に響いた。
群衆が、まるで海を切り裂く修行者のように、左右へと割れていく。
その中央を進んできたのは――
黒い漢服に、銀色の龍が織り込まれた装い。
厳しく、一切の妥協を許さない表情。
――父上だった。
その両脇には、二人の妻が並んでいる。
桃花母は、無言のまま、俺を攫おうとした女を鋭く睨みつけていた。
そして母上は――今にも怒鳴りつけそうなほど、怒気を滲ませている。
(……母上が、ここまで怒っているのを見たのは初めてだ。
正直……ちょっと、怖い)
錬丹師の女は、顔を真っ赤にして唸り声を上げた。
「いったい、あんたたち何様のつもりよ?!
この私が誰か分からないの?!」
彼女は胸を張り、声を張り上げる。
「私は天皓!
大華城から、わざわざこの惨めな田舎町に来てやった錬丹師よ!」
「この偉大な私が、あんたたちの無礼を我慢すると思わないことね!」
父上は鼻で笑い、腕を組んだ。
「貴様が何者であろうと関係ない。
――私の息子を渡すつもりは一切ない」
父上、桃花母、そして母上の三人が、俺とその女の間に立ちはだかった。
それを見て、美影と景珠もすぐさま俺のそばへ移動し、左右から俺の腕を強く掴む。
完全な睨み合いだった。
さすがの女も、ようやく事態の異常さを理解したのか、表情に焦りが浮かび始める。
額から一筋の汗が流れ落ち、彼女は無意識のうちに一歩後ずさった。
その時だった。
先ほどまで丹薬を売っていた若い男が、こちらへ歩み寄ってきた。
もはや誰も買い物などしていない。
全員が、この対峙から目を離せずにいた。
男は女の隣に立つと、にこやかな笑みを浮かべ、父上に向かって頭を下げた。
――当然ながら、父上はその笑顔を、鉄すら溶かしそうな眼光で迎え撃ったが。
「失礼をお詫びいたします、旦那様。
我々に悪意はございません」
男は柔らかな声で続ける。
「ただ、あなた様のご子息が、私の姉の興味を引いただけのこと。
名高い錬丹師に気に入られるなど、普通であれば名誉なことです」
……その話し方は、典型的なごますりだった。
へりくだり、媚びへつらい、相手の機嫌を取ることだけに長けた口調。
正直、聞いているだけで腹が立つ。
父上も同じだったらしい。
その視線は、今や完全に冷え切っており、男を真っ向から射抜いていた。
――にもかかわらず。
妙なことに、その男はまったく怯んでいなかった。
父上はこの街で最も高い修為を持つ存在だ。
間違いなく、この二人よりも強い。
それなのに男は、まるで――
虎に吠え立てる小犬を、面白がって眺めているかのような態度だった。
……嫌な予感が、胸の奥で静かに広がっていくのを感じていた。
「お前たちは明家の下で働くためにここへ来たのだろう?」
父上は冷ややかに言い放った。
「確かに、多くの者にとっては光栄な話かもしれん。だが我が呉家は、敵と同じ寝床に入るつもりはない。
――姉上には、別の遊び相手を探すよう勧めておけ」
「ああ、なるほど。名高き呉家の方でしたか。それでは仕方ありませんね」
若い男はあっさりと頷いた。
「行きましょう、姉上。丹薬の販売に戻りましょう」
天皓は、弟があまりにも簡単に引き下がったことに愕然とした表情を浮かべた。
「で、でも……弟――」
それ以上言葉を紡ぐ前に、若い男が彼女の耳元へ顔を寄せ、何かを囁いた。
俺にはその内容は聞こえなかった。
だが、その一言で十分だったらしい。
女は目に見えて落ち着きを取り戻し、大人しく弟に導かれるまま、その場を離れていった。
……あまりにも、あっけない。
正直、もっと揉めるものだと思っていた。
俺が考えすぎているだけなのか?
それとも――。
屋台へ戻る直前、ふと視線を感じた。
若い弟が、美影と景珠をじっと見つめていた……ような気がした。
瞬きをした次の瞬間には、もうこちらを見ていない。
あまりに一瞬のことだったため、
俺はそれが本当に見た光景だったのか、それとも自分の疑念が生んだ幻だったのか、判断できずにいた。




