卑劣な錬丹師(ひれつな れんたんし)
北市場へ向かう途中、美影は自分が視た未来について説明してくれた。
俺たちは全員一致で、実際に状況を確かめに行くことを決めていた。
人混みを縫うように進む。北市場に近づくにつれ、通りは異様なほど混み合っていった。
まるで、街中の人間がここに集結しているかのようだった。
「……視えたのは、呉家の滅亡よ」
その言葉に、俺の背筋が凍りつく。
「大軍が屋敷に押し寄せて、男たちは皆殺し。女たちは攫われたわ。
混成部隊だった。明家、巨石家、それから……私にも分からない第三の勢力」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
何もしなければ――これは起きる。そう直感した。
美影の未来視について、俺は一つだけ学んだことがある。
規模が大きい未来ほど、変えやすいということだ。理由は分からない。美影自身も分かっていない。
だが、呉家全体が関わる未来なら――変えられる可能性は高い。
「……どうする?」
景淑が不安そうに尋ねた。
「大人・容士様に伝えるべき?」
「視えたことは、もちろん伝えるわ」
美影はそう言ってから、少し考え込む。
「でも、これは今すぐ起こる未来じゃない。遠くはないけど、差し迫ってはいないわ」
ちょうどその時、鬼ごっこをしている子供たちが俺たちの横を駆け抜けていった。
「まずは、明家の錬丹薬を調べるべきね」
美影は続ける。
「本物なのか、それとも出来のいい偽物なのか……それが気になる」
「美影の視た未来と、その錬丹薬が無関係とは思えない」
俺はそう口にした。
「明家が錬丹薬を売り始めた直後に、呉家滅亡の未来を見るなんて……偶然にしては出来すぎてる」
「同感だわ」
景淑も頷く。
「さすがに都合が良すぎる」
「……着いたわ」
美影が前方を見て言った。
「ここが北市場よ」
俺は人の波の向こうに視線を向ける。
胸の奥に渦巻く嫌な予感は、ますます強くなっていた。
――卑劣な錬丹師。
どうやら、厄介な相手になりそうだ。
北市場と呼ばれるこの場所は、その名の通り、ザーン市の北区に位置している。
広々とした石畳の広場で、中央には噴水が設けられていた。市内で唯一の噴水だが、特別豪華というわけではなく、花を模した装飾といくつかの水口があるだけの小さなものだ。
子供たちが噴水に硬貨を投げ入れ、願い事をしている。
その周囲のベンチでは、年配の人々が卓を囲み、麻雀や囲碁といった遊びに興じていた。
北市場は普段から賑わっている場所だ。
だが――今日は明らかに異常だった。
人、人、人。
肩と肩が触れ合うどころか、身動きが取れないほどの人だかりが、ある一つの屋台を中心に形成されている。
……正直に言うと、俺の身長では何が起きているのかまったく見えなかった。
俺は美影と景淑の手を取り、小柄な体を活かして人混みの隙間を縫うように進んだ。
押され、揉まれ、それでも何とか前へ前へ。
そして――ようやく最前列に辿り着く。
そこには、若い男女が二人、屋台の前に立っていた。
どちらも黒髪黒眼、青白い肌に整った顔立ち。明らかに血縁関係があると分かるほど似ている。
女の方は男より少し年上に見えたが、目尻に刻まれた薄い皺が逆に気になった。
化粧か、あるいは錬丹の力で若さを保っているのだろう。
二人とも、俺や呉家の誰にも到底手の出ないような、豪奢な漢服を身にまとっている。
屋台の上には、大きな看板が掲げられていた。
――「明家 錬丹薬」
嫌な予感が、胸の奥で蠢く。
「いらっしゃいませ! いらっしゃいませ!」
男の方が声を張り上げる。
「まもなく《治癒丹》の販売を開始いたします! どうか列をお作りください! 押さない、走らない!
無作法にも割り込みなどした者は、何も買えずに帰っていただきます!」
ざわついていた人々が、言われるまま整列し始める。
「はい、結構。結構です。では――
《治癒丹》の販売を開始いたします!」
その瞬間、周囲の熱気が一段と跳ね上がった。
……間違いない。
ここから、何かが始まる。
人だかりを作っていた連中は、あっという間に一本の列を成した。
あまりにも統率が取れていて、正直、俺は呆然とするしかなかった。
気づけば俺と美影、景淑は人波に押し出され、少し離れた場所から様子を眺める形になっていた。
販売はすべて、あの若い男が一人で仕切っている。
……正直、手際がいい。
列を乱す者は一人もいないし、誰が相手でも、あの眩しいほどの笑顔を向けながら、小さな箱を手渡している。
箱の大きさからして、中に入っているのはせいぜい二、三粒といったところだろう。
だが――この街において、丹薬一粒はそれだけで宝だ。
それを、まるで飴玉でも売るかのように平民へと売っている光景に、俺は言葉を失った。
「……二人はどう思う?」
俺がそう尋ねると、景淑は即答した。
「あの女の方が錬丹師よ」
横目で彼女を見る。
「どうして分かるんだ?」
「見れば分かるでしょう?」
景淑は鼻で笑った。
「あの余裕ぶった態度。ああいう尊大な雰囲気は、三流錬丹師によくあるものよ。
基礎を少し覚えただけで、急に自分が特別な存在になったと勘違いするタイプ」
彼女は腕を組み、少し不機嫌そうに続ける。
「錬丹師は数が少ないから、たとえ三流でも優遇される。
だからこそ、ああいう人間はすぐに天狗になるのよ。……本当に、嫌になるわ」
その愚痴を聞きながら、俺は思わず苦笑してしまった。
……まあ、そうなるか。
景淑はこの国唯一の王女だ。
立場だけで言えば、いくら錬丹師とはいえ、彼女の方が遥かに上。
ああいう連中を快く思わないのも、無理はないだろう。
それに――俺自身も、あの屋台から漂ってくる違和感を、はっきりと感じ始めていた。
王宮にも専属の錬丹師がいる。
景淑からすれば、ここで売られている丹薬など、感心するような代物ではないのだろう。俺とは違って。
「そういえば……錬丹師にも等級制度があるんじゃなかったか?」
俺がそう尋ねると、景淑は一度だけ頷いてから、自分の知っている範囲で説明してくれた。
「あるわよ。錬丹師は精製できる丹薬の種類によって等級分けされているの。
全部で十段階。インジウム、シルバー、レニウム、パラジウム、オスミウム、イリジウム、ルテニウム、ゴールド、プラチナ、ロジウム」
……随分と多いな。
「私自身、錬丹について詳しいわけじゃないけど、次の等級に上がるには錬丹師協会の試験を受けなければならないってことは知っているわ。
それと、大会も定期的に開かれていて、そこで優勝した有望な若手は、実力次第で試験免除になることもあるらしいわ」
俺はその説明に、思わず聞き入っていた。
美影は相変わらず黙ったままだったが、ふと彼女を見ると、あの屋台を睨みつけるように見ていた。
……嫌悪感、に近い。
理由は気になったが、今は景淑の話の方が重要だ。
「じゃあ……あの女は、どの等級だと思う?」
「インジウムよ」
即答だった。
「丹薬を見なさい。表面に凹凸があるでしょう?
本当に腕のある錬丹師なら、丹薬は完全に滑らかになる。
それに治癒丹は、錬丹師が最初に覚える基本中の基本。
あの出来からして、実力はかなり低いと思うわ」
景淑は少し間を置き、眉をひそめた。
「それに、シルバー級以上の錬丹師が、わざわざこんな場所に来るはずがないもの。
……まあ、例外があるとすれば、犯罪者ね」
「犯罪者?」
「ええ。数は少ないけど、重大な罪を犯して錬丹師協会から破門された者がいる。
そういう連中なら、身を隠すために辺境へ流れてくることもあるわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が走った。
……嫌な予感が、少しずつ形を持ち始めていた。
「どうして錬丹師が罪を犯すのは“珍しい”って言われるんだ?」
俺がそう尋ねると、景淑は少し困ったような、どこか悲しげな笑みを浮かべた。
「私、珍しいなんて言ったかしら?」
俺が意味を理解できずに黙っていると、彼女は静かに続けた。
「錬丹師はね、それほどまでに王国にとって必要不可欠な存在なの。だから……たとえインジウム級の錬丹師であっても、普通の人間なら投獄されるようなことを“見逃してもらえる”場合があるのよ」
なるほどな……。
「つまり、才能のある者は、そうでない者には与えられない特権を与えられる、ってことね」
美影がようやく屋台から視線を逸らし、腕を組んで鼻を鳴らした。その表情には、隠しようもない嫌悪感が浮かんでいる。
「本当に、ありがちな話だわ」
「仕方ない部分もあるのよ」
景淑は肩をすくめながら説明を続けた。
「錬丹師を育てるのは簡単じゃない。そもそも錬丹師になれるのは、火と木、両方の属性適性を持つ修煉者だけなの。そんな人、どれくらいいると思う? この商国全体でも、せいぜい五百人いるかどうかよ」
……五百人。思った以上に少ない。
「だから、その適性を持つ人が見つかるたびに、家族には多額の報酬が支払われて、錬丹師協会へ送られるの。そこで、最大限の手間と資源をかけて育てられるわ」
景淑はあくまで淡々と、当然のことのように語っていた。
だが、俺は見逃さなかった。
彼女の両手が、いつの間にか強く握り締められていたことを。
……景淑も、この状況を良しとしているわけじゃない。
ただ、商国の皇女として、それが“必要な犠牲”だと理解しているだけだ。
美影と同じく、納得はしていない。
けれど、それでも受け入れなければならない現実。
その事実が、俺の胸を重く押し沈めていた。
小国――それが現実だった。
経済こそ発展しているが、国際的な影響力は乏しく、しかも二方を遥かに強大な国家に挟まれている。いつ攻め込まれてもおかしくない状況だ。
そんな国が、たとえ人格に問題があろうとも、錬丹師を拒む余裕などあるはずがない。
俺はもう一度、あの屋台へと視線を向けた。
自分はどんな属性適性を持っているのだろうか。もし火と木、両方の適性を持っていたなら、錬丹師になることは可能なのだろうか。
もし俺が錬丹師になれたなら――それは間違いなく呉一族にとって大きな助けになる。
俺が想像したのは、錬丹術という力を得た呉一族が、どこまで高みに登れるのかという未来だった。
「ここで見るべきものは、もう十分ね」
美影が静かに言った。
「行きましょう」
「ああ。父上も、この錬丹の屋台についてはもう把握しているだろう。でも……お前の“視えたもの”については、必ず伝えないといけない」
俺はそう答えた。
俺たちは北市場を後にしようと、踵を返した――
「待ちなさい、そこの三人! 黒い漢服の少年に、両脇に女の子を連れているあなたたちよ! 止まりなさい!」
――しかし、十歩も進まないうちに、尊大さを隠しもしない声が背後から飛んできた。
反射的に足が止まる。
どう考えても、声を掛けられたのは俺たちだ。
黒い漢服を着た少年が、左右に少女を連れている――そんな目立つ組み合わせが、この場に何組もいるはずがない。
三人で振り返ると、屋台の奥で悠然と構えていた女が、こちらへ歩いてくるところだった。
近くで見て、はっきり分かった。
――やはり、作られた美しさだ。
厚化粧と丹薬で整えられた容姿は、どこか不自然で、作り物めいている。
美影や景淑のように、何も施さずとも最上級の美玉よりも美しい――そんな“本物”とは、比べるべくもなかった。
女の漢服は空色で、裾には金の縁取りが施され、上下二つに分かれた仕立てだった。
上衣はゆったりとした長袖で、袖口は大きく広がり、襟は高く立っている。袖と胴の部分には金色の枝葉の意匠があしらわれていた。
下は青の裙で、上衣の下へと隠れるにつれて、徐々に淡い青へと色が移ろっていく。右手には折り畳み扇子を持っている。
「……何かご用でしょうか?」
俺はそう問いかけた。声の調子も表情も、できる限り平静を保ったつもりだ。
だが横を見ると、美影がまるで“踏み潰すべき虫”でも見るかのような目で、その女を睨みつけている。
女は美影を完全に無視し、俺の正面に立つと、値踏みするような視線でじろじろと観察し始めた。
正直、かなり居心地が悪い。
「ふむ……ふむふむ……」
やがて、女の唇が不意に弧を描いた。
「若すぎず、年寄りでもない。それに、なかなか良い顔をしているわね」
彼女は扇子をぱちんと閉じ、俺を指差した。
「いいわ。あなたに決めた」
……は?
「しばらく可愛がれる“若い子”を探していたのだけれど、あなたは条件にぴったりよ。さあ、私と一緒に来なさい。この若小姐に選ばれたことを、光栄に思うといいわ」




