本気で恋をしている
――またよ。
――私、少し考えすぎてる。
落ち着いて、美英。何も起こらない。
今はただ、剣が強くなるのを支えればいい。それだけでいい。それしか、私にできることはない。
自分に言い聞かせると、不安や恐れ、揺らぎはゆっくりと静まっていった。
それでも、美英は剣がここにいてくれたらいいのに、と思わずにはいられなかった。彼がそばにいれば、こうした尽きない不安は自然と消えてしまうのだから。
「……本当に、剣のことが大好きなのね」
静淑の声が、そっと割り込んできた。
呉美英は首を傾げ、隣に座る少女を見た。
「どうしたの? また不安になってるの?」
「ち、違う! ……いえ、少しだけかも」
静淑は大きく息を吐き、肩を落とした。
「最近、あなたと剣の関係、それから剣と私の関係について考えてたの。私が彼と過ごしてきた時間は、あなたよりずっと短いし……二人の間に特別な絆があることも分かってる。私はそれを否定したいわけじゃないの。ただ……だからこそ、本当に私が彼の花嫁に相応しいのか、分からなくなるの」
静淑は視線を落とし、言葉を続けた。
「私の気持ちは、あなたほど強くない気がするし……それに、剣の私への想いも、あなたへの想いと比べたら、きっと小さいんじゃないかって……」
呉美英はすぐには何も言わず、静淑の言葉を噛みしめるように考えた。
彼女は庭へと視線を向け――ただ眺めるのではなく、じっと見つめた。色とりどりの花々が、丁寧に熊手で整えられた白砂や岩の合間に配置されている。この枯山水の庭は、彼女個人の居所に付随するものだった。未来予知の能力を持つがゆえに、呉家の中でも重要な存在と見なされている彼女は、専用の住まいを与えられている。
「……気持ちは分かるわ」
やがて、美英は口を開いた。
「私と剣がいつも一緒にいる中で、自分が彼の人生のどこにいるのかを探すのは……きっと、すごく大変よね。もし立場が逆だったら、私もあなたと同じように感じていたと思う。でもね、あなたは少し見方を間違えていると思うの」
「……私が?」
静淑が不安げに問い返す。
「ええ」
呉美英は頷き、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「あなたと剣の関係は、私と剣の関係とは必ず違うものになる。それは、私たちが同じ人間じゃないから。だから、彼の想いも同じ形にはならない……でもね、それはどちらへの気持ちが弱いという意味じゃないの。ただ、少し“違う形”なだけ」
彼女は静かに続けた。
「愛は愛よ。どんな形であってもね。そして私は知ってる。剣は、あなたのことをとても大切に想ってる」
「そ、そんな……本当に?」
静淑は慌てて視線を逸らし、両手で頬を押さえた。隠そうとしても、赤く染まった頬は隠しきれず、耳元から首筋、さらには生え際にまで熱が広がっているのが、美英には一目で分かった。
呉美英は思わず微笑んだ。
静淑は本当に可愛い子だ。感情や想いについて話すと、すぐに照れてしまうくせに、そういう話題を切り出すのは大抵彼女の方だった。話したい気持ちはあるのに、いざその時になると自分に正直になれない――そんなところがある。
美英は、それが静淑の性格だと思っていた。
彼女は言葉より行動の人間なのだ。けれど、感情を“行動”で示すことさえ、考えすぎてしまって一歩踏み出せないのだろう。だからこそ、余計に照れてしまうのだ、と。
「もちろんよ。私が一番、剣のことを知ってるんだから」
呉美英は誇らしげに胸を張った。
「断言できるわ。彼はあなたのことをちゃんと愛してる」
侯静淑は指先をもじもじと絡めた。
「じゃ、じゃあ……どうして彼は、その……まだ……」
「まだ……何?」
わざと首を傾げる。
静淑が何を聞きたいのか、美英には分かっていた。分かっていたけれど――あまりにも分かりやすく照れているこの子を、少しからかいたくなってしまった。
この素直で初心な尚国の姫は、からかい甲斐がありすぎる。
ほんの、少しだけ。
「そ、その……どうして……ま、ま、まだ……キ、キ、キス……してくれないの?」
ついに静淑の羞恥心は臨界点を超えたらしい。顔全体、いや胸元にまで赤みが広がり、今にも湯気が立ちそうなほど真っ赤だ。
この瞬間の彼女を表す言葉は一つしかない。
――可愛い。
「あなたがお願いしてないからじゃない?」
呉美英は肩をすくめた。
「剣はね、あなたが求めれば、喜んでキスすると思うわ。でも逆に言えば、自分から積極的に何かをするタイプじゃないの。あれは彼の性格よ。それに最近は、彼の建物の周りに護衛もついてるでしょう? 機会自体がほとんどないのよ」
……私ですら、もうずいぶん長いことキスしてないもの。
呉美英は顔をしかめた。
彼の建物の周囲に護衛が配置されてからというもの、彼女は一度も忍び込むことができていない。たとえ未来を見ることができたとしても、護衛が四時間ごとに交代するだけなら、抜け道など存在しなかった。
それは彼女にとって、あまりにも大きな問題だった。
剣と一緒に眠れなくなってからというもの、美英の見る夢は奇妙で不安を煽るものばかりになった。しかも、目覚めると内容をまったく覚えていない。それなのに、冷や汗をびっしょりとかき、何度も理由も分からぬまま泣いて目を覚ましたことがある。
その「覚えていない」という事実――記憶にぽっかりと空いた穴こそが、彼女を最も不安にさせていた。
話題を変えようと決め、美英は口を開いた。
「ねえ、どんな修炼法を学びたいか、もう考えてる?」
「身体能力を極限まで高めるようなものを考えてるわ」
侯静淑は素直に答えた。
「軍にいる筋肉バカみたいにはなりたくないけど、近接戦で正面から戦えるほうが、私の性に合ってると思うの」
呉美英はうなずいた。
「分かるわ。呉家にも身体強化系の修炼法はいくつかあるけど……正直、帝宮で見つかるもの以上のものは、あまり期待できないと思う」
――その瞬間だった。
視界が揺らぎ、美英の意識に映像が流れ込んできた。
彼女は瞬きを繰り返す。
そこにいたのは、成長し、成熟した侯静淑だった。
彼女は一本の槍を手に、まるで龍そのものの本質を体現するかのような、独特の修炼法を修めている。衣服は裂け、腕、脚、胸元から血が滲んでいた。それでも、その表情は獰猛で、誇り高く――まるで戦場に立つ女王のようだった。
「……えい……美英……呉美英?」
「え?」
呉美英はぱちぱちと瞬きを繰り返し、我に返った。
「適した修炼法があるかどうか、父上に連絡して聞いてみたほうがいいと思う?」
侯静淑が、少し不思議そうな顔でそう言った。
美英は首を軽く振り、微笑んだ。
「その心配は要らないと思うわ。あなたに合った修炼法は、いずれ然るべき時に自然と現れるはずよ。修炼を始めるまで、まだ四年もあるんだもの。今は焦らず、待てばいいわ」
二人はまだ十四歳だった。
十八歳になって丹田を開くまでは修炼すらできないのだから、今から悩んでも仕方がない。
「どういう意味……あっ!」
侯静淑は周囲をちらりと確認すると、美英の耳元へ身を寄せ、声を潜めた。
「さっき……何か、見えた?」
「ええ」
美英も同じように囁き返す。
「未来のことは気にしないで。必要な時になれば、ちゃんとあなたに合った修炼法が手に入るわ」
「あなたがそう言うなら……信じるしかないわね」
侯静淑は小さく息を吐いた。
「はあ……本当に、未来を見通せる力が羨ましい」
――それは、あなたがその力がどれほど私を苦しめているかを知らないから。
夜も眠れず、心を縛りつけられる感覚を知っていたら、きっとそんなことは言わない。
未来を予知できる力は、多くの人にとって祝福に見えるだろう。
だが、それはこの力がもたらす苦しみを知らないからこその幻想だった。
未来が見えるからといって、未来を変えられるわけではない。
その事実が、彼女を何度も無力感に突き落とした。
かつて、美英はある一族の女性が流産する未来を見たことがある。
起こると分かっていながら、何も言えなかった。
何をしても結果は変わらないと知っていたからだ。
未来には、どうしても覆せないものがある。
――あの時は、辛かった。
混乱する剣の胸に顔を埋め、声を殺して泣いたことを、今でもはっきり覚えている。
それは、数ある出来事のひとつに過ぎなかった。
知っていながら変えられない未来。
変えようとして、失敗し、さらに深い無力感に襲われることもあった。
それでも――
未来視の力は、彼女自身の一部だった。
腕や脚と同じように、切り離すことのできない存在。
「暑くなってきたわね。食堂で冷たいものでも飲まない?」
美英が声をかける。
「うん。言われてみれば、すごく汗かいてきた」
侯静淑は服を引っ張り、肌に張りつくのを嫌そうに剥がした。
「この暑さでの修炼は、正直つらそう……」
美英は何も言わず、ただ小さくくすりと笑った。
そうして二人は並んで立ち上がり、食堂へと向かって歩き出した。




