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謎めいた少女の夢

夜の帳が降りる頃、俺はようやく呉家へと戻ってきた。

墨を流したような夜空の下、月明かりが古い建物や静かな中庭を包み込み、屋敷全体にどこか神秘的な雰囲気を与えている。

屋敷の入り口付近で父と別れ、俺は月光に照らされた中庭を一人で歩いた。

淡い銀色の光が敷石に刻まれた模様を浮かび上がらせ、足元を静かに導いてくれる。呉家の紋章が刻まれた石灯籠が、揺らめく光を放ちながら道を照らしていた。

中庭を見下ろすように立つ大木に目をやると、夜風に揺れる葉が、まるで秘密を囁いているかのように音を立てている。

……いや、考えすぎだ。寝不足のせいで、頭が少しおかしくなっているだけだろう。

夜の屋敷は、昼間とはまるで別の顔を見せる。

普段は人の気配で満ちている場所が、今は月明かりの下で威厳ある静寂を湛えていた。

やがて自分の居所へと辿り着いた俺は、思わず足を止めた。

入口の前に、二人の警護が立っている。そしてその間に、もう一人――座り込むようにしている少女の姿があった。

二人の警護は、どこか困惑した表情でその少女を見下ろしている。

厚手の外套を羽織ってはいるが、その下から夜着が覗いていた。

長い黒髪は夜の闇に溶け込み、鮮やかな蒼い瞳を伏せて、地面をじっと見つめている。

俺は思わず声をかけた。

「……メイ?」

美英が顔を上げた。

地面とにらめっこしていたときには死んだようだったその瞳が、俺を見つけた瞬間、灯火のように輝きを取り戻す。彼女は立ち上がり、服についた埃を払った。俺はそのまま彼女の前まで歩み寄る。

「……おかえりなさい」

その声は、どこか無理をして絞り出したようだった。

俺はすぐには何も言わず、美英の赤く腫れた目元と、少し乱れた髪を見つめ、それからそっと彼女の頬に手を伸ばした。

美英は目を閉じ、俺の手に頬を預ける。さらに自分の手を重ね、まるで俺の体温を逃がさないように包み込んだ。

「……泣いてたな」

そう告げると、美英の唇がかすかに震えた。

「やっぱり、剣には隠せないね。……今夜も、悪い夢を見たの」

俺は警護の二人に視線を向ける。彼らは困ったように首を横に振った。

――やっぱり、どんな理由があっても中には入れなかったらしい。仕方ないし、予想通りでもある。

「……散歩しよう」

そう言うと、美英は小さく頷いた。

俺は彼女の手を取り、二人並んで呉家の屋敷を歩き始める。

昼間は威圧感に満ちた守護像――獰猛な龍たちの像の前を通り過ぎる。だが今は、淡い月光を浴びて、静かに見守る存在のように見えた。

夜空には無数の星が瞬き、その光が大地をやさしく照らしている。星座たちは、かつての英雄や天上の存在の物語を語りかけてくるかのようだ。

俺は、美英が口を開くのを待ちながら、昔彼女と一緒に覚えた星座を、一つ一つ目で追っていた。

「……また、私たちの夢だったの。

 今よりも、もっと大人になった私たち」

美英は静かに語り始めた。

「私たちは、どこかの一族に属しているわけでもなくて……ただの普通の人だった。何の後ろ盾も、特別な立場もない、ごく普通の人」

俺は、美英の“夢”について、これまでにもいくつか共通点に気づいていた。

彼女の見る夢は、いつも俺と彼女が中心で、しかも一つとして同じものがない。まるで――“あり得たかもしれない別の世界”を覗いているかのようだった。

もしかすると、彼女の力は可能性の未来を視ているのかもしれない。

だが、俺たちはまだ彼女の力について何も分かっていなかった。

「その夢の中でね……剣と私は幼なじみだった。でも、十八歳になった日に、私だけが修行者になって……剣は、ならなかった」

胸が、ぎゅっと締め付けられる。

「それから……剣は、私と話してくれなくなったの。

 どれだけ一緒にいてほしいって頼んでも……何度お願いしても、無視された……」

俺は鼻からゆっくりと息を吸った。

それが夢だろうと、可能性の一つだろう

「……話したくなければ、無理に話さなくていい。

 その夢が、とても酷いものだったってことくらい、分かるから」

そう言うと、美英は小さく息を吐いた。

「ありがとう……でも、知ってほしいの。あなたにだけは、何も隠したくないから」

少し間を置いて、彼女は続けた。

「それに……ただの夢、だもの」

「……そうだな」

再び静寂が訪れたが、俺は気にしなかった。

美英は、話す準備ができた時に、必ず言葉を紡ぐ。

「ある時、その国が私の存在を知って……私は軍に徴用されたの。拒否権なんてなかった」

彼女の声が、わずかに震える。

「一緒に来てほしいって、何度もお願いした。でも……あなたは、顔すら見せてくれなかった。だから……行くしかなかった」

美英は俺の胸元に顔を埋め、鼻先で擦り寄せてきた。

「それからの日々は、ずっと退屈で……毎日、あなたのことばかり考えてた。一瞬たりとも、頭から離れなかったの。だから……やり直したくて、少しでも時間ができたら、すぐに戻ってきた」

彼女の言葉が、途中で詰まる。

「……俺は?」

「……あなたは……」

次の瞬間、美英は嗚咽を必死に堪えた。

「……私が戻った時には、もう……死んでいたの」

声が、崩れる。

「村の人たちの話では、私が出て行った直後に襲撃があって……あなたも、あなたの家族も、皆殺しにされたって……」

彼女の身体が、小さく震えた。

「ちゃんと……謝ることもできなかった……

 お別れも……葬式に出ることすら……できなかった……」

涙が堰を切ったように溢れ出し、俺は迷わず美英を抱き上げ、自分の膝の上に引き寄せた。

腕を回し、しっかりと抱き締める。

高価な俺の漢服が、彼女の涙で濡れていくのも構わず、俺は彼女の髪を撫で続け、耳元で何度も、何度も囁いた。

「大丈夫だ……

 俺は、ここにいる。

 今も、これからも……ずっと一緒だ」

美英は俺の胸に顔を埋めたまま、声を殺して泣き続けた。

時々、こういう瞬間があるからこそ、俺は思い知らされる。

どれだけ大人びて見えても、呉美英は――俺と同じ年の、まだ幼い少女なのだと。

「もし、本当にそんなことが起きていたとしても……君が謝る必要なんて、どこにもない。

 あれは全部、君のせいじゃない」

「で、でも……」

「あの夢の中の俺――呉剣は、自分の劣等感に負けただけだ。

 君が修行者になって、自分はなれなかった。それで嫉妬したんだ。

 それは、あいつ自身の問題であって、君の問題じゃない」

「……そ、そうかもしれないけど……それでも……すごく、辛くて……」

「きっと、あいつも同じ気持ちだった」

「……本当に?」

「うん」

俺は美英の髪にそっと鼻先を埋めた。

漆黒の髪からは、春先に咲いたばかりの桜を思わせる、淡くて優しい香りが漂ってくる。

その柔らかな花の香りが、ぬくもりのある抱擁のように俺を包み込み、胸の奥が静かに落ち着いていく。

俺は何度か深く息を吸った。

「喧嘩のあと、あいつは相当後悔してたはずだ。

 きっと、君に償いたかった。でも……罪悪感が強すぎて、顔を合わせられなかったんだと思う」

もちろん、俺が語れるのは俺自身のことだけだ。

それでも、美英の夢に出てきた“呉剣”も、同じだったと心から思えた。

だって――技術的には、同一人物なのだから。

「……そうだと、いいな……」

「そうだよ。

 それで……そのあと、どうなった?」

「……特に、何も。

 私は自殺して……目が覚めたの」

「“特に何も”って言いながら、夢の自分が自殺したって告白するのはどうかと思うんだけど……」

「だって……あなたのいない世界なんて、生きる意味がないもの」

少し間を置いて、彼女は付け加えた。

「それに……ねえ、あなた、すごくいい匂いがする」

美英がくんくんと俺の匂いを嗅ぎ始める。

首元に彼女の鼻先が触れた瞬間、思わず身体が震えた。

背筋がぴんと伸びる。

――まずい。

下半身に違和感を覚えた瞬間、俺は悟った。

夢の中では何度も経験していたが、起きている状態でこうなるのは初めてだ。

俺は必死に悟られないよう、さりげなく体勢を直した。

「……それは、香水をつけてるからだ」

「そうなの? もっとつけたほうがいいわ。いい匂いだもの」

「……考えておく」

「ところで、それってズボンの中に古刀でも隠して――」

「……それ以上、言うな」

俺は即座に遮った。


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