周家からの招待
呉飛が俺の命を狙ってから、数日が過ぎた。
怪我の回復は順調で、すでに普段通りの鍛錬に戻っている。もっとも、静淑が以前にも増して俺のそばを離れなくなったけど。
彼女は美英みたいに露骨に心配を口にすることはない。
それでも、俺が見ていないと思っている時でも、視線だけはいつも俺を追っているのに気づいていた。
一方の美英はというと、相変わらずだ。
体調はどうか、痛むところはないかと何度も聞いてきては、隙あらば俺の懐に入り込んでくる。前から距離感が近いとは思っていたけど、今はそれがさらに加速している気がする。
正直に言えば……怪我を口実に触ってきているんじゃないか、と疑いたくなるほどだった。
実際、今でも胸や肩、背中、太ももに残る“感触”を思い出してしまう。
あの時の美英は、いつも以上に手が早かった。
その日も、いつも通りの朝だった。
筋力鍛錬と軽い組手を終え、汗を流してから朝食を取ろうと食堂へ向かっていた、その途中だった。
「失礼します」
目的地に着く前、俺たちの前に一人の青年が立ち塞がった。
背は高く、黒髪に黒い瞳。名前までは知らないが、分家の人間なのは一目でわかる。
呉家は大きく分けて二つの系統に分かれている。
俺や呉勇、長老の血縁者といった“本家”と、それ以外の“分家”だ。
分家の人間は、本家とは血のつながりが薄い。
多くは外から嫁いできた者の血を引いていて、立場も本家とははっきりと区別されている。
……だからこそ、分家の人間がわざわざ俺たちを呼び止めるのは、少し珍しいことだった。
余談だが、もし父上が呉家の族長でなければ、俺も呉勇も分家の人間になっていたはずだ。
母上は外から嫁いできた人で、その点では分家の血筋と大差ないからだ。
もっとも、この世界では血筋よりも実力の方が重要視される。
本家の人間だからといって、それだけで大した意味があるわけではない。力さえあれば、誰でも族長の座を奪うことができる。
ただし、本家の人間の方が修行に割り当てられる資源が多く、結果として力を得やすいのも事実だ。分家で同じ待遇を受けられるのは、自らの実力を証明した者だけだった。
「大人・耀司様が、お前をお呼びだ」
そう告げた分家の青年に、俺は少し首を傾げた。
「俺だけ、ですか?」
青年はうなずく。
「はい。お呼びなのは、あなただけです」
俺は一瞬唇を引き結んだが、すぐに美英と静淑へ向き直り、笑みを浮かべた。
「ごめん。父上が俺に用事みたいだ」
「わかりました」
静淑がうなずく。
「行ってきなよ、伯父上のところでしょ? 戻ってきたらまた会おうね」
美英もそう言ってくれた。
「ありがとう」
俺は二人に手を振り、その場を後にした。
父上は自分の居館の中――応接の間にいた。
扉に背を向け、両手を背後で組み、壁に掛けられた大きな壁画をじっと見つめている。母上も桃花姉も、その場にはいない。
俺は室内に入ると膝をつき、頭を下げた。
「お呼びでしょうか、父上?」
呉耀司――俺の父は、背が高く、威圧感のある男だ。
その厳しい顔立ちは、彼の一切妥協しない世界観をそのまま表している。広い肩幅にがっしりとした腕。黒髪はきちんと結い上げられ、剣のように鋭い眉が印象的だった。尖った顎鬚が、その表情をさらに険しく見せている。
着ている漢服は黒を基調としており、帯は金色。長い袖には、金色の龍鱗模様があしらわれていた。
「そうだ」
父上はそう言って、ようやくこちらを振り返った。
「お前も知っている通り、三族大会で優勝した褒賞の一つに、周家からの優遇措置がある。今朝、その周家から書状が届いた。差出人は周祖――内容は、彼と食事を共にしたいという招待だ。二日後に開かれる。その席に、お前も同席させたいとのことだった」
「……俺だけ、ですか? 父上」
「お前だけだ」
正直、眉をひそめて言いたかった。
美英や静淑を置いて、どこにも行きたくない――と。
だが、それはあまりにも子供じみている。
俺はもうすぐ十三になる。昔なら許されたかもしれないが、今はもう違う。これからは、より多くの“大人の責任”を背負っていく立場なのだ。
――それに、分かっている。
美英も静淑も、いつまでも俺の隣にいられるわけじゃない。
離れて過ごす時間だって、必ず訪れる。
その考えが、どうしようもなく嫌だった。
正直に言えば、胸の奥がむかつくほど不快になる。
だが、どれだけ嫌でも現実は変わらない。
ならば、受け入れるしかない。
そして、それに慣れるしかない。
今が、その“練習”にちょうどいいのかもしれない。
二人と離れて過ごすという感覚に、少しずつ慣れるための。
修行者にとって、精神と感情の在り方は、肉体の強さと同じくらい重要なのだから。
「分かりました、父上」
「だがな」
父上は厳しい声で続けた。
「今のお前の服装のまま、周家と会うわけにはいかん。周家は我が呉家よりもはるかに格式が高い。一国である尚王国の内外を問わず、ほぼすべての都市に分家を持つほどの名門だ。これは周家に良い印象を与える絶好の機会――ならば、身なりにも万全を期さねばならん」
正直、父上の言葉をその場では完全に理解できなかった。
だが次の瞬間には、父上に半ば強引に応接間から連れ出され、屋敷を抜け、敷地内を横切り、そのまま正門へと向かっていた。
門を出ると、そこにはすでに馬車が待っていた。
黒く艶やかな体毛を持つ二頭の馬が、黒塗りの馬車に繋がれている。琥珀色の瞳には知性が宿り、体躯もがっしりとしていた。その馬車には、呉家の紋章――桜の花を巻き付く龍が誇らしげに描かれている。
気づけば、俺と父上は並んで馬車の中に座っていた。
御者が手綱を鳴らすと、馬たちはいななき、ゆっくりと街へ向かって歩き出す。
俺は横目で父上を窺った。
……が、気づかれていないことを確認すると、すぐに視線を逸らす。
居心地が悪くて、思わず座り直してしまった。
この沈黙が、やけに重い。
だが、下手に口を開いて父上の機嫌を損ねるのも怖くて、何も言えなかった。
父上もまた、一言も発しない。
背筋を伸ばし、目を閉じ、腕を組んだまま、微動だにしない。
……この沈黙、息が詰まらないのだろうか?
それとも、俺のほうが変なのか。
考えてみれば、俺はこういう静けさに慣れていない。
いつも誰かがそばにいて、話し声があった。
大抵は美英か静淑だ。二人とも、よく喋るから。
ほどなくして、俺たちは斬市へと到着した。
街が見えるよりも先に、まず音が耳に届く。朝だというのに、市内はすでに活気に満ちていた。
俺は馬車の窓から外を覗き、向かっている先を確認する。
やがて馬車は、簡素な二階建ての建物の前で停止した。門柱の上に湾曲した屋根が載せられており、その軒先は外壁よりも一尺ほど張り出している。建物の前に掲げられた看板には、衣の絵柄が描かれていた。
――服屋、か。
「ここだ。来い、剣」
父上がそう言った。
「はい、父上」
父上に続いて馬車を降り、店の中へと足を踏み入れる。
呉家には専属の仕立て屋がいる。それなのに、わざわざここまで来る必要があるのかと不思議に思った――が、その疑問はすぐに消えた。
店内は広々としており、あらゆる種類の布地や仕立て済みの衣が所狭しと並んでいる。左を見れば、精緻な模様が施された反物がいくつも巻かれ、購入されるのを待っていた。
……明らかに、呉家の仕立て屋とは格が違う。
「いらっしゃいませ、尊きお客様」
店の奥から声がした。机の向こうに立っていた男が、こちらを見て頭を下げる。
「いかがなご用件でしょうか?」
「ここにいる息子のための漢服が必要だ」
父上は俺の肩に手を置き、前へと押し出した。
「呉家次期当主にふさわしい、最高の布と仕立てで頼む」
「ご、呉家……!? も、もちろんでございます! 尊きお客様! 必ずや、最高級の布地と最先端の裁ち方で、ご子息様にふさわしい一着をご用意いたします!」
男は声を裏返らせながら答えた。
だが俺には分かる。
――その目、完全に金の匂いを嗅ぎ取っている。
……これ、本当に大丈夫なのか?
この人、呉家から搾り取れるだけ搾り取る気じゃないか。




