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不埒な真似はするな

母上は、治療用の薬膏を塗った包帯を俺の胴体に巻き始めていた。

一番酷くやられたのがそこだったからだ。

左の脇腹から胸、背中にかけて、大きな火傷の痕が広がっている。

薬膏を塗られると、最初はむず痒い感覚が皮膚を這い回り、

その後、ひんやりとした冷たさが広がって、痛みを鈍らせていった。

「呉明を探すため、捜索隊を編成すべきだと思います」

桃花が静かに言った。

父上は即座に頷く。

「その通りだ。

 呉斐の共犯者を逃がすわけにはいかん。必ず見つけ出し、処断する」

「私が指揮を執ります」

桃花はそう言って父上に一礼し、母上と俺に軽く頷くと、そのまま部屋を出ていった。

木の床を踏み鳴らす靴音が、次第に遠ざかり、やがて完全に消える。

「巡回についても調べたほうがいいわね」

少し間を置いて、母上が言った。

「これほど長い間、あの区画に誰もいなかったなんて不自然だもの」

「呉斐が守衛を買収したか……あるいは殺したか、だな」

父上は低く唸った。

「桃花がすでに裏切り者を処理している以上、

 俺は後者だと見ている」

拳を握りしめ、怒気を含んだ声で続ける。

「この件は、三長老・錦蘇に調べさせる。

 もし買収されていたと判明した場合――

 鞭打ち、丹田の破壊、そして追放だ」

……本気だ。

父上の表情は、俺が今まで見たこともないほど険しかった。

今夜の出来事が、どれほど彼を動揺させたかが、嫌というほど伝わってくる。

当然だ。

守衛が賄賂を受け取り、裏切り者に道を開き、

その結果、一族の後継者が命を狙われた。

それは重大な背信行為だ。

追放だけで済むのは、むしろ温情と言える。

……普通なら、殺されても文句は言えない。

そう思いながら、

俺は静かに包帯を巻かれる感触を受け入れていた。

「剣。今夜はこの医務棟に泊まれ。

 扉の前には衛兵を配置する。誰にも近づかせん」

父上がそう言った。

「分かりました、父上。今夜はここに残ります」

俺が頷くと、間髪入れずに声が上がった。

「……私も一緒にいる」

美英だった。

「美英……」

父上は警告するような声音を出したが、美英は一歩も引かなかった。

年相応とは思えないほど強い意志を宿した眼差しで、父上を真っ直ぐに見据える。

「剣のそばにいる。離れたくない」

その様子に、静淑が頬を赤らめながら小さく手を上げた。

「わ、私も……呉剣と一緒に、ここにいたいです……」

父上の顔に、どう判断すべきか迷う色が浮かぶ。

その横で、母上がくすりと笑い、立ち上がって父上のもとへ歩み寄った。

「良人。あなたが礼節を大切にするのは分かっているけれど、

 今夜くらいは、この子たちを剣のそばに置いてあげたら?」

そう言って、母上は父上の腕にそっと手を添える。

「今夜のこと、二人とも相当怖かったはずよ。

 そばにいることで、安心できるなら、それでいいじゃない」

その仕草と言葉に、父上の肩から力が抜けるのが分かった。

「……はあ。分かった」

父上は深く息を吐き、頷いた。

「今夜だけだ。二人とも、剣と一緒にここに残ることを許す」

美英と静淑が喜びの声を上げる前に、父上は鋭い視線を向ける。

「――だが、妙な真似はするな。

 お前たちも分かっているだろうが、その年頃になれば……

 異性に対して、色々と感情が芽生えるものだ」

俺は思わず視線を逸らした。

「だがな。それは、婚姻前に何をしてもいい理由にはならん。

 肝に銘じておけ」

……

その言葉に、医務棟の空気が一瞬だけ、妙に張り詰めた。

父上は昔から、伝統を重んじる人だった。

結納――花婿側から花嫁側へ贈られる婚約の品や、嫁入りの際に持参される持参金といった古い慣習を大切にしていて、それらは婚姻における最重要事項の一つとされている。

同様に、婚前交渉など論外、という考えの持ち主でもある。

だからこそ、父上は美英が俺と同衾することを固く禁じていたのだ。

その父上が、静淑との婚姻に関しては結納も持参金も免除すると決めた――

それが、父上にとって皇帝陛下という存在がどれほど重要かを、雄弁に物語っていた。

商国において、婚姻や縁談は一大事業だ。

おそらく、この世界のどこであっても同じだろう。

決して偶然や運命に任せていいものではない。

強い修行者同士が結ばれれば、さらに大きな可能性を秘めた子が生まれる――

それは周知の事実だった。

婚姻を巡る数々の慣習は、強大な修行者たちが富と地位を誇示し、贅沢な暮らしを送ってきた歴史の中で生まれたものだ。

結果として、どの家もより強い修行者を生み出そうと躍起になり、子のために最良の縁談を整えようとする。

――より強い子を生ませるために。

それが、この世界の現実だと、かつて美英が教えてくれた。

その時の彼女の顔には、はっきりとした怒りと悲しみが浮かんでいたのを、俺は今でも覚えている。

「ご心配なさるようなことはしません、父上。

 父上の名を汚すような真似は、絶対にしないと約束します」

俺がそう言うと、父上は鼻を鳴らした。

「ふん。ならば、肝に銘じておけ」

それだけ言い残し、父上は踵を返した。

ほどなくして、父上、母上、桃花、そして医師の四人は医務棟を後にした。

扉の外から、父上が衛兵に指示を出す声が聞こえてくる。

「呉剣以外、誰もこの部屋に入れるな」

……一拍置いてから、さらに低い声が続いた。

「それと――あの三人が、不埒なことをしないよう、しっかり見張っておけ」

「はい、旦那様」

「はぁ……なんで父上はああなんだ……」

俺が小さく呟くと、静淑の顔が一瞬で真っ赤になった。

美英はくすくすと笑う。

「昔からああいう人だよ。伯父様――要志伯父は、ずっと堅物なんだから」

「それを本人の前で言ったら、間違いなく怒られるぞ」

俺は苦笑しつつ、ため息をついた。

「それで……これからどうする?」

「……たぶん、休んだほうがいいと思います」

静淑は耳まで赤くしながら視線を逸らす。

「呉剣は……まだ怪我をしているんですし。ちゃんと休養を取らないと」

「それは……その通りだな」

俺は素直に頷いた。

傷は処置され、体内の異質な気も排出されたが、今になって一気に疲労が押し寄せてきていた。

先ほどまで身体を支配していた昂揚感が嘘のように消え、全身が鉛のように重い。

「状況は深刻だけどね……でも、正直言うと、呉飛がやってくれたことにはちょっと感謝してるんだよね」

俺と静淑が同時に美英を見ると、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「だって、何ヶ月ぶり? 一緒に寝られるの。楽しみにしないほうがおかしいでしょ?」

俺は思わず笑ってしまい、静淑はむっとした表情を浮かべたが、結局何も言わなかった。

俺は布団にもぐり込み、枕に頭を預ける。

すぐに美英も潜り込んできて、当然のように俺の肩を枕代わりにした。

――だが、もう一人は動かなかった。

俺は首を巡らせ、まだ立ったままの静淑を見る。

「……入らないのか?」

静淑は下唇を噛み、視線を逸らした。

下を見て、天井を見て――俺のほうだけは、どうしても見ようとしなかった。

どうしたんだ? 一緒にいるって言ってたのに、今さら怖気づいたのか?

「え、えっと……わ、私は別のベッドを使おうかなって……」

静淑は小さく、恥ずかしそうな声で言った。

「だって……三つありますし……」

「は?」

美英が、まるでとんでもなく的外れなことを聞いたかのように眉を吊り上げる。

「それ、何の意味があるの? 剣と一緒に過ごすために残ったんでしょ。別のベッドで寝るなら、自分の部屋で寝るのと変わらないじゃない」

「で、でも……未婚の男女が同じベッドで寝るなんて……」

「私たち、結婚するんだから問題ないでしょ。ほら、早く入りなよ」

「うぅ……」

静淑が今にも折れそうなのが分かった。

だから俺は布団を少し持ち上げ、隣の空いた場所を軽く叩く。

「ほら、こっち」

「……も、もう……剣がそう言うなら……」

静淑はおずおずとベッドに上がり、俺の反対側に横になった。

美英がぴったりとくっついてくるのとは違い、彼女はきちんと距離を保っている。

別に気にはならなかった。

こういうところは、父上に似てるんだよな。やたらと律儀で、すぐ照れる。

病室に静寂が戻る。

外からは夜の音が聞こえてきた。

病棟の外でフクロウが鳴き、コオロギの声が響く。

遠くで、何かが鳴いた――カラス、だろうか。

「ねえ……」

沈黙の中、美英がぽつりと呟いた。

「今回ばかりは、本当に心配したんだからね」

「そうだったのか?」俺が尋ねる。

「うん……すごく、ね」

美英は俺の素肌に頬をすり寄せ、胸にそっと手を置いた。

「今夜、冷や汗をかいて目が覚めたの。視えたのは……剣が地面に倒れて、胸に穴が空いていて、そこから血が溢れてる光景で……。あんなに怖い“視え方”は、今までなかった」

実際、俺は文字通り死ぬ寸前だった。

桃花が間に合わなければ、今こうしてここにいることはなかっただろう。

立場が逆だったら、俺だって同じように取り乱していたはずだ。

俺は手を伸ばし、美英の髪に指を通した。

少し乱れているけど、それでも――これまで触れた中で、一番柔らかい。

艶やかで、一本一本が夜空を思わせる深い光を帯びている。

指先がすべる感触が、どうしようもなく好きだった。

「……私は無理だと思う」

突然、静淑が口を開いた。

「そんな“視え方”をずっと抱えて生きるなんて……私だったら、きっと壊れてしまう」

「生まれた時から、ずっとだったから」

美英は静かに告白する。

「赤ちゃんの頃は、悪夢ばかりで……たくさん苦しんだ。でも、そのたびに剣がそばにいてくれたの。私が泣くと、ベッドに潜り込んできて、ぎゅって抱きしめてくれて……それだけで落ち着けた」

「……そんなこと、初めて聞いたぞ」俺は思わず言った。

「言ってなかったんだもん。ばかだなあ」

美英は小さく笑う。

「でも、もういいの。全部、昔の話だよ」

「……そっか」

俺はそれ以上、何も言わなかった。

俺は、美英とのこれまでを思い返していた。

幼い頃、彼女はよく夜驚症にうなされていた。

成長するにつれて、いつの間にかそれはなくなったけど……もしかしたら、それは俺と一緒に眠るようになったからなのかもしれない。

そう考えるのは、少し自惚れが過ぎるだろうか。

それでも俺は、美英が悪夢を見なくなった理由の一つに、自分がそばにいたからだと思いたかった。

「……そろそろ、寝ましょうか」

少ししてから、静淑が言った。

「そうだな」俺も同意する。

俺は目を閉じた。

美英が、さらに体を寄せてくる。

紙一枚すら挟めないほど近い距離だったけど、不思議と嫌じゃない。

むしろ、その温もりが心地よかった。

「……ねえ、剣?」

美英が、囁くように声をかけてくる。

「ん?」俺も同じくらい小さな声で返す。

「私、剣のことが本当に大好き。……ずっと、こうして一緒にいられたらいいな」

俺は、自然と笑みを浮かべていた。

「俺もだよ」


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