取り乱す美英
「剣!! 無事でよかった……っ!!」
「ひ、ひぃっ……! め、メイ、そこ……ちょっと痛い……」
「っ!? ご、ごめん! 怪我してるのに……!」
正直に言って――
ここまで取り乱している美英を見るのは、かなり珍しい。
彼女は、寝る直前まで着ていたであろう黒い寝間着のままで、
髪はあちこち跳ね、目の下にははっきりとした隈。
それに、唇が少し腫れている。
……噛んだな。
美英は、よほど追い詰められた時じゃないと、ああいう癖は出ない。
「大丈夫だから。……ただ、もう少し優しくしてくれると助かるかな?」
俺がそう言って微笑むと、美英は何度も何度も頷いた。
だが、その場にいたのは彼女だけじゃない。
少し後ろには、静淑が立っていた。
美英ほどひどい状態ではないが、
こちらも明らかに寝起きだ。
状況を完全には把握できていない顔をしている。
……たぶん、美英が何も説明せずに叩き起こしたんだろうな。
(やっぱり……何か“見た”んだろう)
そうでなければ、桃花さんがあのタイミングで俺を探しに来るはずがない。
「さあ、急ぎましょう」
桃花さんが、きっぱりとした声で言った。
「怪我の治療が先よ。それに、体内に入り込んだ異質な気も排除しないと。
長く残れば、経脈や丹田に後遺症が残る可能性があるわ」
……後遺症。
「将来有望な一族の後継が、廃人になるなんて冗談じゃないもの」
その言葉に、俺はごくりと喉を鳴らし、
大人しく桃花さんの後を追った。
医館へ入ると、
鼻を突く消毒薬の匂いが広がる。
何度来ても慣れない。
木の床を踏むたび、
小さな軋み音が鳴る。
まるで、足元に蟋蟀でも潜んでいるみたいだ。
――生きてる。
今は、それだけで十分だ。
そう自分に言い聞かせながら、
俺は治療室へと向かった。
桃花さんの少し後ろを、美英と静淑が続いていた。
医館の中には、すでに呉少林先生と――そして、母上の姿があった。
俺が戸口に姿を見せた瞬間、母上は椅子から跳ね起き、
ものすごい勢いでこちらに駆け寄ってくる。
「剣児!? 大丈夫なの? どこか酷く怪我してない!?
ほら、早く服を脱いで! お母さんに見せなさい!
こう見えてもね、お母さん、怪我の手当てには慣れてるのよ。
あなたのお父さん、鍛錬や遠征でしょっちゅう怪我するでしょう?
包帯の巻き方も消毒も――」
「呉剣には、複数の外傷と軽度の気中毒があります」
桃花さんが割って入らなければ、
母上がいつまで話し続けていたか分からない。
「まずは毒の処置が先。その後で外傷の治療をします」
……気中毒。
それは、体内の気の流れが乱れ、
あるいは汚染されてしまう、非常に危険な状態だ。
悪意ある気に晒されたり、
強力な技を直接受けたり、
あるいは――丹田を開く前に無理な修行をした場合にも起こる。
俺の場合は、完全に二つ目だった。
呉飛の技を受け、
自分の気を持たない俺は、それを防ぐ術がなかった。
これは、特に子供にとって致命的だ。
まだ丹田が開いていない状態では、
体内の気を制御することができない。
丹田は、気海に存在する極めて重要な中枢で、
そこから気を経脈へと巡らせる役割を担っている。
もし、このまま異質な気が体内に残り続ければ――
丹田そのものが傷つき、
成人しても餓鬼境へ進めなくなる可能性がある。
……それはつまり、
修行者としての道が、完全に断たれるということだ。
俺は、知らず拳を握り締めていた。
「……なるほど。言われてみれば確かに。
今、彼の体内にある邪気を感じ取れます」
母上はそう呟き、顎に指を当てた。
「うん……この症状に効く薬、確かあったはず。
ちょっと探してくるわね……」
「こちらへ来なさい、呉剣」
呉少林先生に促され、俺は素直に寝台へ向かった。
腰掛けると、足が床に届かず、宙にぶら下がる。
その横に、美英がすぐさま腰を下ろし、
ぎゅっと俺の手を握ってきた。
……まるで、触れていないと不安で仕方がないみたいだ。
静淑はというと、俺たちのそばには座らず、
少し離れた場所に立ったまま、状況が飲み込めていない様子だった。
「……正直、何が起きたのか全然分からないの。
誰か、説明してくれない?」
その言葉に応えるように、
低く重たい声が入口から響いた。
「――俺も、詳しく聞きたいところだな」
全員が振り返ると、
そこには眉間に深い皺を刻んだ父上の姿があった。
呉少林先生はすぐに礼を取ったが、
父上は軽く手を振ってそれを制し、
「治療を始めてくれ」
とだけ告げた。
……だが、その視線は終始俺から離れない。
今夜、何が起きたのか――
その答えを求めて、ここへ来たのは明らかだった。
「美影が、酷く取り乱した様子で駆け込んできた。
だが、詳しいことは何も言わなかった」
父上は俺を見据え、低く命じる。
「呉剣。何があったのか、説明しろ」
「……少し長くなりますが」
俺は一度、深く息を吸った。
「順を追って話します」
そうして俺は、
宴の後、自分の住まいへ戻ったこと、
そこで呉飛に襲われたこと、
呉明、そして呉嵐が共に潜んでいたことを語った。
さらに――
元長老が造っていた“秘密の通路”についても、
包み隠さず父上に伝えた。
まだ他にも存在する可能性がある。
今後のためにも、屋敷全体を徹底的に調べるべきだ。
そう思ったからだ。
話している間、
美英は一度も俺の手を離さなかった。
その指先には、微かな震えがある。
一方で、静淑の顔色はみるみるうちに青ざめ、
血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
……俺の話は、
それほどまでに重かったのだ
母上と呉少林先生は、俺が飲むべき薬の準備に取り掛かった。
数種類の薬草をすり潰し、水と混ぜ合わせていく。
……正直、嫌な予感しかしない。
「はい、飲みなさい」
差し出されたそれを一気に口に含んだ瞬間――
「っ……!!」
鼻を突き抜ける悪臭。
味は……何ヶ月も洗っていない靴下を煮出したような感じだ。
匂いだけで吐きそうになり、必死にえずくのを堪えた。
だが、不思議なことに――
しばらくすると、体の奥からじんわりと熱が広がり、
重かった体が少しずつ軽くなっていくのを感じた。
その直後だった。
「なっ……なんだこれ!?」
自分の皮膚から、
黒い靄が噴き出した。
それは煙のように濃く、
鼻を刺すような刺激臭を放っている。
「心配しなくていいわ」
母上が落ち着いた声で言った。
「それは体内に入り込んだ外来の気が、
毛穴から排出されているだけよ。
すべて出切れば、その黒い靄も消えるわ」
母上の言葉通り、
しばらくすると黒い靄は自然と薄れ、
やがて完全に消え去った。
……そして俺は気づく。
体が、驚くほど楽になっていることに。
その後、俺は部屋にいる全員に、
今夜起きた出来事を最後まで語り終えた。
話を聞き終えた父上は、
低く唸り声を上げる。
「……あの小僧め」
右拳を左の掌に叩きつけ、
ぎり、と拳を食い込ませる。
「桃花から、粛清の場に姿がなかったと聞いてから、
我々も奴を探していた。
だが痕跡すら見つからず、
すでに逃げたものと判断していたのだ」
父上の目に、怒りと悔しさが滲む。
「まさか、まだ潜んでいて……
お前を狙う機会を待っていたとはな」
そして、俺を真っ直ぐに見て言った。
「……桃花が間に合って、本当によかった。
よく生き延びたな、呉剣」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ解けた気がした。




