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土壇場の救い

彼女の武器を確認する間もなく、背後に気配を感じた。

空気が――揺れた。

俺は反射的に身を低くし、頭部へ叩き込まれるはずだった気を纏った拳をかわす。

外したことに対する苛立ちを込めた唸り声が背後から響いた。

呉飛だ。

これ以上攻撃を受けないよう、俺はすぐさま距離を取ろうと跳び退いた。

だが、その判断は最悪の結果を招いた。

――呉蘭にぶつかったのだ。

呉蘭という女に、俺は見覚えがなかった。

呉家は大きい。全ての族人の顔や名を把握していないのは当然だ。

だから、彼女が俺の知らない人物であること自体は不自然ではない。

だが――

彼女の投擲術と短剣の扱いは、明らかに異常だった。

一撃一撃が欺瞞に満ち、しかし正確。

速く、鋭く、そして――明確な殺意を伴っている。

これほどの腕を持つ者なら、噂に聞いていてもおかしくないはずだ。

それなのに、俺は一度も彼女の名を耳にしたことがない。

――やはり。

この女は、元大長老の“切り札”だったのだろう。

元大長老が何か秘密の戦力を抱えている、という噂は以前からあった。

誰から聞いたのかは思い出せない。

美英だったか、それとも元大長老を嫌っていた誰かだったか。

そんなことを考えている余裕はなかった。

俺は一振り目の短剣を屈んでかわす。

だが次の瞬間――

「っ!?」

女の外套の内側から、もう一本の短剣が飛び出した。

驚きに声が漏れ、俺は後方へ倒れ込む。

そのまま受け身を取り、転がり、即座に立ち上がった。

――だが、状況は何一つ好転していない。

呉蘭はぴったりと距離を詰め、

計算し尽くされた軌道で、恐ろしい速さの連撃を放ってくる。

避ける。

それだけで、精一杯だった。

背後で空気が揺れた。

本能が警鐘を鳴らす。

俺は反射的に身を低く沈めた。

直後、気を纏った拳が、さっきまで俺の後頭部があった空間を叩き抜ける。

「チッ……!」

外したことに苛立ったように、唸り声が聞こえた。

間違いない。

呉飛ウー・フェイだ。

俺は距離を取ろうと後方へ跳び退いたが、それが裏目に出た。

逃げ込んだ先にいたのは――呉蘭ウー・ラン

この女は、見覚えがない。

だがそれも無理はない。呉家は大きい。俺がすべての族人を把握しているわけじゃない。

それでも――

彼女の技量は、明らかに異常だった。

投擲、近接、間合い管理。

どれを取っても洗練されすぎている。

一切の無駄がない。

すべてが「殺す」ための動きだ。

――こんな使い手、噂にすら聞いたことがない。

……いや。

ふと、思い当たる。

先代大長老が“切り札”を隠している、という噂。

誰から聞いた話だったかは思い出せない。美影か、それとも長老を嫌っていた誰かだったか。

俺は一本目の短剣を潜り抜けた――

次の瞬間、外套の内側から、もう一本が飛び出す。

「っ!?」

俺は声にならない声を漏らし、後方へ倒れ込む。

そのまま転がり、反動を使って立ち上がった。

だが、それでも状況は好転しない。

呉蘭は距離を詰め続け、

俺は避けることで精一杯だった。

彼女の攻撃は、巧妙で、速く、そして容赦がない。

考える余裕など、どこにもない。

このままじゃ――

――馬鹿な考えだ、とは思ったが。

それでも、あの「俺がお前の父だ」という言葉が、ひどく間抜けに聞こえた。

あれは“年長者こそが上位存在である”という価値観に基づいた侮辱だ。

子供にとって父親とは、人生における絶対的な権威者。だからこそ「俺がお前の父だ」と名乗ることで、自分は相手より上だと言いたいのだろう。

だが――

それが通用するのは、所詮、凡俗の世界の話だ。

修行者の世界では、序列を決めるのは年齢でも血縁でもない。

力だ。

……くそ。

さっきの一撃で、頭がぐらぐらする。まともに考えられない。

俺は立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。

腕も脚も、胴も首も、鉛の重りを巻きつけられたかのように重い。

間違いない。

呉飛ウー・フェイの気が、俺の内側を滅茶苦茶にしている。

気を扱えない俺には、こんなものを防ぐ術などない。

一歩。

また一歩。

呉飛が近づくたび、まるで死の鐘が鳴らされているかのように感じた。

心臓が肋骨を叩き、耳鳴りがする。

――怖い。

どうしようもなく、恐ろしかった。

血の気が引き、身体が風に揺れる葉のように震える。

それでも……俺は、惨めに命乞いをして死にたくはなかった。

だから俺は、目の前で立ち止まった呉飛を、まっすぐに見上げた。

「遺言はあるか?」

呉飛が、嘲るようにそう言った。

「――ある」

背後から、低い声が響いた。

「死ね」

呉飛ができたのは、目を見開くことだけだった。

次の瞬間――

誰かの手が彼の口を塞ぎ、もう一方の手に握られた刃が、喉を横一文字に引き裂いた。

熱い血が噴き出す。

呉飛の喉から漏れた悲鳴は、もはや叫びではなく、濁った嗚咽だった。

手足が痙攣する。

……長く感じた。

だが、実際にはほんの数瞬だったのだろう。

時間が引き延ばされたかのような感覚の中、

俺はただ、呆然と見つめていた。

血が男の胸元を伝い落ち、

その瞳から、光がゆっくりと消えていくのを。

数秒後、

呉飛ウー・フェイの死体が脇へと蹴り飛ばされ、鈍い音を立てて地面に転がった。

そして――

俺の前に、呉桃花ウー・タオホアが現れた。

「ご無事ですか、公子剣ゴン・ズー・ジエン

そう言って、彼女は静かに手を差し伸べてくる。

俺は唇を噛みしめ、込み上げてきた涙を必死に押し戻しながら、その手を取った。

この出来事でどれほど動揺しているかなんて、彼女にも、誰にも見せたくなかった。

「……はい。大丈夫です。ありがとうございます」

そう答えると、桃花が俺を引き起こしてくれた。

美影メイインが来てくれて、本当に良かったわ」

桃花はそう言った。

「もう少し遅れていたら……間に合わなかったかもしれない」

美英メイが……?」

俺が聞き返すと、桃花は小さく頷いた。

「ええ。あなたの命が狙われているって、泣きながら叫んでね。すぐに助けに行かなければならないって。

……相手が彼女でなければ、信じなかったでしょうけど。あなたが一番よく知っているでしょう? あの子の、不思議な力を」

俺はぼんやりと頷いた。

視線を巡らせ、まず目に入ったのは呉飛の亡骸だった。

だが、あまりの血の量に吐き気を覚え、すぐに目を逸らす。

血溜まりができるほど流れている。

次に、少し離れた場所に倒れている呉蘭ウー・ランが見えた。

彼女は、もう微動だにしていない。

俺の視線に気づいた桃花は、静かに首を横に振った。

「可哀想な子……。元は、元長老・呉偉ウー・ウェイの従者だったそうよ。

引き取ったと言っていたけれど……舌を切られ、幼い頃から暗殺者として育てられていたみたい」

俺は、ほとんど話を聞いていなかった。

死体のことを考えないようにして、周囲を見渡す。

すると――一人、足りないことに気づいた。

「……呉明ウー・ミンは? 彼も、ここにいました」

「ふむ……」

桃花は周囲を見回し、肩をすくめた。

「私が来た時にはいなかったわ。逃げたのでしょうね。

捜索隊は出すけれど……今は、あなたを医館へ連れていくのが最優先よ」

彼女は俺の身体を一瞥した。

「怪我をしている。

それに、あの女は毒を使っていた。体内に回っていないか、必ず調べないと」

「……はい」

俺は抵抗しなかった。

桃花に連れられ、森を後にする。

今夜起きたことを――

できることなら、すべて忘れてしまいたかった。


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