表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/160

刃の上を行く

「本気で逃げ切れると思っているのか?!」

歯を食いしばった瞬間、口の中に鉄の味が広がった。

俺は木々の間を全力で駆け抜け、張り出した根を飛び越え、低い枝を潜り抜けていく。

走るたびに衣が引っかかり、とうの昔に鬱陶しくなって脱ぎ捨てていた。今の俺は下着姿だ。

夜気の冷たさなんて、ほとんど感じない。

血が――燃えている。

胸が、脚が、焼けつくように熱い。

「戻れぇぇ!! 逃がすと思うな、呉剣!

殺してやる! 聞いているのか!!」

背後から、呉飛の怒声が森に反響する。

あいつは、すぐ後ろまで迫っている。

俺がまだ先を走れているのは、ただ一つ――

この森を、俺のほうが知り尽くしているからだ。

ここは、何年も前から俺と美英が訓練に使ってきた場所。

呉一族の中で、この一帯を俺以上に把握している者はいない。

俺たちの訓練の一つに、《戦闘かくれんぼ》があった。

一人が隠れ、もう一人が探す。

見つかった瞬間、隠れていた側は全力で逃げ、あらゆる手段で追跡者を撒く。

美英は言っていた。

――これは、気配を消す訓練であり、隠れた敵を見抜く訓練であり、

不利な地形で戦うための訓練でもある、と。

……どうやら、その訓練が今になって役に立っているらしい。

だが。

いつまでも、こうして逃げ続けるわけにはいかない。

このままでは――勝てない。

呉一族の屋敷地は、多くの者が想像する以上に広大だった。

数十平方里にも及ぶ敷地の中に、数百もの建物が建ち並んでおり、その中には森林地帯も含まれている。

それは最初から計画されていたわけではない。

ただ屋敷を拡張し続けた結果、いつの間にか森と接するようになっていただけだ。

その森林は、数尺先も見通せないほど木々が密集していた。

地面からは太い根がむき出しになっており、低木や茂みに隠れているものも多い。

注意していなければ、簡単につまずいてしまうだろう。

足元から鋭い痛みが走り、俺は思わず顔を歪めた。

突き出た岩に足を引っかけてしまったのだ。皮膚が裂け、血が滲み出す。

……これじゃ、血の跡が残るな。

だが、今さら気にしても仕方がない。

どうせ、追っ手を撒くことはできない。

すでにこの森で何度も振り切ろうと試みたが、すべて無駄に終わっていた。

“影”と呼ばれる呉蘭――あの女が、あまりにも巧妙に俺を森の奥へ追い戻してくるのだ。

出口に近づくたび、あの投擲刃が進路を貫き、回避を強いられる。

――俺を殺せないから、外へ出させないつもりか。

実際、俺は彼女の攻撃をかなりの確率で避けられていた。

あの女は殺気を完全に抑えきれない。

だからこそ、攻撃の数瞬前に気配を察知できる。

俺は木々の間を縫うように走り、毒を塗られた刃を幹に叩き込ませる。

だが、警戒すべき相手は呉蘭だけじゃない。

「RRRAAAAAAGGGHHH!!!」

背後から獣じみた咆哮が響いた瞬間、俺の全身にアドレナリンが駆け巡った。

俺は即座に後方へ跳び、連続した後方転回で距離を取る。

直後、呉明の振り下ろした斧が地面に叩きつけられ、大地を深く抉った。

……あと一瞬でも遅れていたら。

頭が熟れた西瓜みたいに割られていたかもしれない。

そう思うと、背筋がぞっと冷えた。

呉明は、もはや人というより激昂した怪物のようだった。

顔には火傷の痕が広がり、赤く爛れて水疱が浮かんでいる。

その目は完全に正気を失った獣のそれで、狂気に呑み込まれていた。

――怒りの矛先が違うだろ。

あいつをその術で撃ったのは呉飛だ。

俺のせいじゃない。

それでも呉明は、樽いっぱいの梅酒でも満たせそうなほどの悪意を俺に向けて睨みつけてくる。

その視線だけで、背筋が凍りついた。

……このままじゃ、持たない。

俺には分かっていた。

俺は地形を利用して何とか距離を保っているが、奴らは俺をこの小さな森林地帯から出させないようにしている。

普段なら巡回しているはずの護衛も、まったく姿を見せない。

買収されたか……それとも、もう殺されたか。

このまま長引けば、いずれ体力が尽きる。

――一人ずつ、仕留めるしかない。

俺は今まで、誰かを殺したことはない。

誰かの死を願ったこともなかった。

だから、どうしてここまで強い憎しみを向けられるのか、正直分からない。

だが――感情や血縁に引きずられている余裕はなかった。

生き延びるためには、情け容赦なく、徹底的にやるしかない。

……呉明が、一番の弱点だ。

まずは、あいつから。

俺は再び木々の端へと走り出し、逃げる素振りを見せた。

予想通り、呉蘭が投擲刃を放ってくる。

俺は左へと身を翻し、刃が目標だった木に突き刺さるのを見届ける。

そのまま木の裏へ回り込み、反対側へ抜ける瞬間――

突き刺さった刃を、俺は掴み取った。

予想通り、そこにいたのは呉明だった。

やはり連携して、俺を外へ出させないようにしている。

年上で体格も勝る呉明が、手にした斧を振り下ろしてくる。

またしても、上からの一撃だ。

俺は一歩横へずれ、刃が柔らかな土に深く食い込むのを待つ。

そして――

手にした短剣を、前へ突き出した。

「――――ああああああっ!!」

短剣が腕の柔らかな肉を貫いた瞬間、悲鳴が夜気を切り裂いた。

血が噴き出し、呉明は斧を取り落とす。

鈍い音を立てて地面に落ちたが、そんなものを気にしている余裕はない。

俺は一気に踏み込み、掌底を男の胸骨へ叩き込んだ。

「ぐっ――!」

肺から空気が一気に吐き出される音と同時に、呉明の身体が地面へ叩きつけられる。

「くそっ! 何をしている、呉明!! 立て!!」

呉飛の怒号が響く。

ここまで、俺は機転と回避で呉飛との正面衝突を避けてきた。

一番危険というわけではないが、間違いなく最も強い。

飢餓境ハンガー・レルムに到達した相手を、真正面から倒せるはずがない。

奇襲か、常軌を逸した幸運でもなければ無理だ。

距離を詰めさせないだけで、俺は全力を使っている。

「くそっ! 呉蘭! あのガキを追い詰めろ! 三人で仕留めるぞ!」

呉蘭は何も言わなかった。

だが次の瞬間、彼女は木の上から音もなく落下し、影のように地面へ着地すると、そのまま俺へ跳びかかってきた。

避けるので精一杯だった。

左手が振るわれ、素肌を風が掠める。

――間一髪。

攻撃は外れた。

だが、その瞬間になって俺は気づく。

彼女の両手には短剣が握られていた。

どちらも――粘ついた毒で覆われている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ