深夜の奇襲
俺は眉をひそめたまま、足を進め続けた。
やがて自分の部屋の前に辿り着き、そこで足を止める。
嫌な予感が――むしろ、さっきよりも強くなっていた。
胸の奥にまとわりつくような違和感。もはや無視できない。
本能が、警鐘を鳴らしている。
――何かがおかしい。
俺は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
気配を探る。足音、呼吸、衣擦れの音――どんな些細なものでもいい。
だが、聞こえてくるのは――
荒くなった、自分自身の呼吸音だけだった。
ゆっくりと目を開く。
一歩、後退する。
さらにもう一歩。
静かに入口へ戻ろうとした、その時だった。
目の前に、人影が立ちはだかる。
「どこへ行くつもりだ?」
全身の血が、一瞬で冷えた。
闇の中から現れたのは――呉斐だった。
まるで最初からそこにいたかのように、建物の影から姿を現す。
長く真っ直ぐな黒髪は夜の触手のように垂れ下がり、
茶色の瞳には、冷え切った光が宿っている。
そこにあるのは、底知れぬ野心と、復讐への飢え。
青白い肌は月光を受けて大理石のように浮かび上がり、
灰色を基調に血のような赤を差した衣装が、
彼の立ち位置――闇への帰属を静かに語っていた。
「……やっぱり、気のせいじゃなかったか」
俺は低く呟く。
「どうやら、お前はまだ屋敷を出ていなかったようだな」
「その通りだ」
呉斐は不気味な笑みを浮かべながら、一歩前に出た。
「呉桃花が、祖父――爺爺の仲間たちを無差別に粛清し始めた時、俺と他に二人だけは逃げることができた。
爺爺が、計画が失敗した場合に備えて用意していた秘密の通路に身を隠したんだ……まさか、本当に使うことになるとは思っていなかったがな」
「それで……復讐を果たすために、ここへ来たってわけか?」
俺は問いかけた。
呉斐は肩をすくめる。
「まあ、そんなところだ」
「逃げるべきだった。お前の祖父はまだ生きている。父上が殺そうとした時に逃げ延びたと聞いている。
俺なら、計画が失敗したと分かった瞬間に、真っ先に彼のもとへ向かった」
「その考えも浮かんださ。だがな――」
呉斐の口元が歪む。
「せめて一度は、呉養志の鼻血を拝まなければ、俺は自分を許せない」
――まずい。
呉斐は少し前に十八になり、すでに飢餓境へと突破している。
速度、膂力、そして気の扱い――どれを取っても、今の俺では分が悪い。
戦いになれば、勝ち目は薄い。
「なるほど……父上の“鎧の隙間”――俺を狙うことで、出立前に一矢報いようというわけか」
そう口にした瞬間、
背後から微かな足音が聞こえ、俺の耳がぴくりと動いた。
できるだけ音を殺そうとしているのは分かる。
だが――俺は美英と何度も忍び鬼ごっこをしてきた。
隠密相手の訓練なら、誰よりも積んでいる。
「その通りだ。だから――」
呉斐は冷たく言い放つ。
「いい子にして、死んでくれ」
その瞬間――
耳元で、空気を切り裂くゴォッという音が響いた。
俺は反射的に跳び上がる。
直後、斧が出現し、壁に深く突き刺さった。
もし一瞬でも遅れていたら、今頃――
着地と同時に、俺はその斧の柄を踏み台にし、身体をひねる。
回転しながら、黒装束の人物の顔面へ拳を叩き込んだ。
「ぐっ――!」
相手はよろめき、後退する。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
――呉明。
危険がまだ消えていないと感じた俺は、驚いている暇などなかった。
呉明を飛び越え、そのまま廊下を全力で駆け抜ける。
目指すのは、部屋の反対側にある縁側だった。
そこへ滑り込むように飛び出した瞬間――もう一人、姿を現した。
俺より背が高く、全身を黒で包んだ人物。
輪郭からして女性だと分かる体つきだった。
誰なのかは分からない。
だが、姿を現した瞬間、彼女は即座にこちらを向いた。
俺は誰にも止められないまま縁側へ飛び出し、そのまま庭へと着地する。
砂地が足元で大きく乱れたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
背後で、何かが砕ける音が響く。
振り返ると、呉飛、呉明、そしてあの謎の女が庭へとなだれ込んできていた。
砕けたのは――俺の扉だ。
……人の家を壊しやがって!
こんな状況で考えることじゃないと分かっているのに、思わずそんなことが頭をよぎる。
思考がぐちゃぐちゃだった。
頭の中が、目まぐるしく回転している。
次の行動を考える間もなく、再び直感が危険を告げた。
俺は反射的に進路を変える。
ヒュッ――と、空を裂く音。
月明かりを反射する、細い針が数本、地面に突き刺さった。
先端には、紫色の毒がべったりと付着している。
……あれが当たっていたら。
くそっ……本気で俺を殺しに来てやがる!
俺は臆病者じゃない――少なくとも、もう昔の俺じゃない。
だが、それでも恐怖を感じないわけじゃない。
心臓が胸を打ち破りそうなほど激しく鼓動し、
死への恐怖が思考を塗り潰していく。
吐き気が込み上げ、今にも泣き出しそうになる。
それでも――
歯を食いしばり、必死に堪えた。
泣いている場合じゃない。
ここで止まれば、本当に死ぬ。
俺は地面を転がった。
直前まで立っていた場所に、何かが叩きつけられる。
土と砂利が弾け飛び、視界が一瞬白くなる。
すぐに跳ね起き、暗闇の中から飛んでくる針を避けるため、左へと身を翻した。
本当なら、父や母、そして桃花のいる――族長の屋敷へ向かいたかった。
だが、呉飛はそれを読んでいたらしい。
俺がそちらへ向かおうとするたび、あの謎の女の飛び道具が、逃げ道を塞いでくる。
動けば動くほど、針を避けるのが難しくなっていった。
その絶え間ない牽制が――
呉明に、距離を詰める隙を与えた。
歯を食いしばった瞬間、
頭上から、斧が振り下ろされる。
俺は左へ動き、刃が通り過ぎるのを見極めてから、拳で叩きつけた。
――ガンッ!
金属音が夜に響き、斧は大きく弾かれる。
呉明は踏ん張りきれず、前のめりになった。
その一瞬を、俺は逃さない。
身体を沈め、喉元へ――兎打ち。
「ぐっ……!」
呉飛はすでに鍛体境へ到達しているが、呉明は違う。
十八になっても、何一つ成し遂げられなかった男だ。
父が失脚したことで、彼は分家の一員に落とされている。
単独なら、脅威ではない。
だが――
あの女と組まれれば、話は別だった。
気づけば、俺は屋敷の中心から、かなり離れた場所まで追い込まれていた。
片側には木々が立ち並び、
もう一方には、小さな池。
呉明、呉飛、そして謎の女が、
俺を囲むように立ち、これ以上奥へ進ませない陣形を取っている。
……まずい。
完全に、包囲されていた。
「呉明……本当に、そこまでするつもりか?」
俺は、見慣れた顔をした少年を見据えながら言った。
呉明は、昔――俺がまだ弱かった頃、呉飛と同じように俺を虐めていた一人だ。
ここ数年は、ほとんど関わりもなかったが。
「呉飛と違って、お前にはまだ引き返す時間がある。
お前の祖父は、裏切り者なんかじゃなかった」
そう告げると、呉明は一瞬だけ視線を揺らした。
「……正直に言えば、やりたくはない」
呉明はそう言いながら、拳を握り締める。
「だが、俺は呉飛に忠誠を誓っている」
かつて、呉明と呉飛は、呉勇の後をついて回る腰巾着のような存在だった。
だが今にして思えば――呉勇は、元大長老の操り人形に過ぎなかったのだろう。
呉飛は、元大長老の意向に沿って、呉勇に近づき、
友情という形で、巧妙に感情を操っていたに違いない。
「……そうか」
俺は短く息を吐き、視線を黒装束の女へ向けた。
「じゃあ、次はお前だ。
お前は何者だ?」
「無駄なことを聞くな」
呉飛が、鼻で笑う。
「そいつは答えない。
呉蘭――俺の“影”だ。口を利かないように仕込まれている」
……暗殺者、か。
背筋に、冷たいものが走る。
俺は、自分がかなり追い込まれていることを理解していた。
一対一なら、勝算はある。
たとえ相手が飢餓境の第一小境であっても、だ。
呉飛は、つい最近その境地に達したばかりだ。
修為はまだ安定していないはずだし、
気を使って身体を強化する程度が関の山。
技も、そう多くは習得していないだろう。
――だが、それは“一人”ならの話だ。
三人同時となれば、話はまったく別になる。
特に――
あの女は、危険だ。
岳との戦い以降、俺は相手の強さを見極める感覚が、少しだけ鋭くなっていた。
だからこそ分かる。
――ここにいる中で、一番強いのは、あの女だ。
彼女は飢餓境には達していない。
だが、その動きは呉飛よりもはるかに洗練され、無駄がない。
どこか、桃花の動きに似ている部分すらあった。
……勝てるはずがない。
「そろそろ死んでもらうぞ、呉剣。
お前は最初から最後まで、害虫だったな」
呉飛が、勝ち誇ったように宣告する。
――瞬時に判断した。
今できる、最善の行動を。
呉明が突っ込んでくるのを見て、俺は地面を蹴り上げ、土塊を飛ばした。
それが呉明の目に直撃する。
「ぐっ――!」
その隙に懐へ潜り込み、拳を叩き込む。
一発、二発、三発――
拳が当たるたび、小さな衝撃波が生じ、男の身体が不自然に歪んだ。
そして――
最後に蹴りを叩き込み、呉明を宙へと打ち上げる。
そのまま、呉飛のほうへ。
呉飛はそれを避けた。
だが、その一瞬――
俺を見失った。
その一秒で、俺は振り返り、全力で走り出す。
俺は、昔みたいな臆病者じゃない。
だが、馬鹿でもない。
勝ち目のない戦いを続けるより、
誰かに知らせ、援軍を呼ぶべきだ。
「呉蘭!」
だが、呉飛の声が響いた。
女が跳躍し、俺に向かって複数の短剣を投げ放つ。
前に転がれば避けられる――
だが、刃の間隔は巧妙で、前に出れば必ずどれかに当たる。
仕方なく、俺は開けた場所へと後退する。
――その瞬間。
目を真っ赤にした呉明が立っていた。
土で痛めつけられた目を滲ませながら、
頭上から斧を振り下ろしてくる。
……くそっ。
――くそっ!
俺は身を低く沈め、頭上を唸りを上げて通過する斧をかわした。
刃は俺の髪を数本切り裂きながら通り過ぎる。
地面に両手をつき、そのまま脚を振り抜く。
俺の足が呉明の膝に叩き込まれた。
残念ながら、膝頭を砕くには至らなかった。
だが、呉明はよろめきながら後退する。
……助かった。
これが呉飛ではなく、呉明だったのは不幸中の幸いだ。
呉明も十分に力はあるが、純粋な力比べなら俺のほうが上だ。
一対一なら、確実に勝てていた。
――だが、相手は一人じゃない。
背後から、再び投擲音。
俺は跳び退き、柔らかな土に突き刺さる投げナイフをやり過ごす。
あの女は飢餓境ではない。
だが、それが何だというのか。
狙いは正確無比。
刃はすべて毒付きだ。
どんな毒かは分からない。
だが――当たれば終わりだ。
思考をフル回転させながら、俺は動く。
呉明の周囲を回り込み、地面を転がって刃を避け、そのまま――呉飛へ一直線に突っ込んだ。
「この俺に向かって来るとはな!
実力差が分かっていないのか!?
度胸だけは認めてやるが、その傲慢さの代償を払わせてやる!」
呉飛が叫び、拳を振るう。
拳を包むように、赤橙色の光が揺らめいた。
――気だ。
おそらく火属性。
……どうでもいい。
俺の目的は、正面から戦うことじゃない。
俺は走りながら、常に自分と呉飛の間に呉明を挟むように位置取りしていた。
そして――
呉飛の攻撃が放たれた直後。
俺は地面へと滑り込む。
草は湿っていて、膝をついたままでも容易に滑ることができた。
炎を帯びた拳は、俺を外し――
呉明に直撃した。
「ぎゃああああっ!!」
驚愕と激痛の叫び。
仲間を撃ったことに気を取られた呉飛の意識が、一瞬だけ逸れる。
――見逃すわけがない。
俺は呉飛の下を潜り抜け、一気に立ち上がり、
そのまま膝裏へ蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ――!」
呉飛は情けない声を上げ、背中から地面へと倒れる。
鈍い衝撃音。
追撃――
そう思った瞬間。
呉蘭が、こちらへ迫ってきているのが見えた。
――判断は一瞬。
俺は踵を返し、森の中へと駆け込む。
木々の間へ滑り込み、そのまま姿を消した。




