第10話 挑戦
ウー・ヨンの言葉に、その場にいた女子たちは一斉に睨みつけた。
だが、俺はそんな視線を気にしている余裕なんてなかった。
どうせあいつは「指導」と称して、俺を殴りたいだけだ。
相手をしてやるだけ無駄だ――そう思い、断るつもりだった。
だが――
「ウー・ヨンの言うことにも一理あるな」
ラン叔父上の低い声が、場の空気を一変させた。
腕を組み、こちらを見下ろしながら淡々と続ける。
「性別は関係ない。メイインはお前に遠慮して手加減している。
本気の打撃を受けて覚えるのが、受け身の訓練というものだ」
……もう何も言えなかった。
先生がそう言う以上、従うしかない。
「……分かりました」
俺は右手を拳にして左の掌に重ね、武礼を取った。
「どうかご指導よろしくお願いします、兄上」
「ふっ、任せとけ。お前の兄貴に全部任せればいい」
ウー・ヨンの口元に浮かぶ笑みは、優しさよりも毒のほうが強かった。
その笑顔を見て、背筋が自然と冷たくなる。
メイインは別の女子と組むことになった。
相手の子は、いたずら好きの男子と離れられたことで、ほっとした表情を浮かべていた。
一方、俺とウー・ヨンは互いに距離を取り、向かい合う。
空気が重い。
喉がひどく乾いているのに、唾が飲み込めない。
「準備はいいか、弟よ?」
「……はい、兄上。準備できてます」
声は出た。
だが、呼吸の荒さまでは隠せなかった。
「なら――行くぞ」
ウー・ヨンが二歩前へ踏み込み、前蹴りを放った。
鋭い風切り音。
俺は腹筋を固め、衝撃を受け流そうとした。
しかし――
「ぐっ……っ!」
拳のような蹴りが腹にめり込む。
息が詰まり、肺の空気が一気に押し出された。
痛みに顔をしかめ、後ろに数歩よろめく。
なんとか倒れずに踏ん張ったが、腹に手を当てたまま、息を吸うことすらつらい。
「どうした、弟よ? こんな弱い蹴り一つ受け止められなくて、どうやって強くなるつもりだ?」
ウー・ヨンが笑いながら言う。
その声が、胸の奥に突き刺さった。
悔しさと恐怖で、歯を食いしばる。
目の奥が熱くなって、涙がにじむ。
逃げたい――怖い――痛いのは嫌だ。
心臓が早鐘を打ち、体が震える。
けれど、その時、メイインの言葉が頭に浮かんだ。
――「強くなりたいなら、まず変わらなきゃ」
俺はもう、弱いままでいたくなかった。
メイインの隣に立ち続けられるように。
誰にも引き離されないように。
そして、父上に胸を張って見てもらえるように。
……強くならなきゃ。
どんな痛みがあっても。
「もう一度お願いします、兄上」
深く息を吸い、腹の底から声を出す。
震える体を無理やり抑え込み、視線をまっすぐ向けた。
ウー・ヨンの笑みが消える。
「ほう、まだやる気か。……いいだろう。なら、これを受けてみろ」
今度は拳だった。
一直線に、俺の顔を目がけて飛んでくる。
正しい受け方は、額で衝撃を受け流すように前へ出ること――そう教わっていた。
でも、頭では分かっていても、体が言うことを聞かない。
恐怖が先に来た。
思わず体を引いてしまう。
その瞬間――
「ぐっ!」
拳が鼻に直撃した。
鈍い衝撃とともに、視界が白く弾け、熱い痛みが顔全体に広がった。
「うわっ――!」
床に叩きつけられ、視界がぐるりと回る。
鼻の奥に焼けつくような痛み。
手を当てると、ぬるりとした感触が指先を汚した。
見下ろすと、掌に赤い――血。
「……っ」
喉が詰まり、息が乱れる。
胸の奥で鼓動が暴れ出し、呼吸がうまくできない。
「ウー・ヨン! やりすぎよ!」
メイインの怒鳴り声が響いた。
「やりすぎ? 何を言ってるんだ?」
ウー・ヨンは肩をすくめ、わざとらしく笑った。
「これは“打撃の受け方”の訓練だぞ? 全力で殴らなきゃ意味がないだろう?」
「それはそうかもしれないけど――鼻を狙うのは禁止されてるでしょ!」
訓練の中で顔面を打つのは原則禁止だ。
とくに鼻は衝撃が集中し、痛みだけでなく視界や呼吸まで奪われる。
ラン叔父上も、そこだけは何度も注意していた。
「そんなつもりはなかったさ」
ウー・ヨンは涼しい顔で言い返す。
「拳に目はないんだ。胸を狙ったけど、あいつが勝手に引いたんだよ。
だから当たっただけだ」
その口ぶり――明らかにわざとだ。
メイインの顔が怒りでこわばる。
だが、ウー・ヨンは逆に口の端を上げて、俺を見下ろした。
「悪かったな、弟よ。痛かったか?」
その笑みが、ぞっとするほどいやらしかった。
俺は震える手で鼻を押さえながら、ゆっくり立ち上がった。
唇を噛む。
……いつもなら、このまま黙ってやり過ごしていた。
兄上は年上で、強くて、乱暴だ。
逆らえば、もっと痛い目を見る。
だから今までは――耐えるしかなかった。
けれど、もう違う。
弱くて、怯えて、泣いてばかりの自分のままではいたくない。
もう、逃げたくない。
――強くならなきゃ。
父上に胸を張ってもらえるように。
メイインの隣に、堂々と立てるように。
何より、自分自身を誇れるように。
……もう、弱いままじゃいられない。
「だ、大丈夫……」
鼻から垂れた血をすすり上げながら、なんとか言葉を絞り出す。
「つ、続けましょう」
「は? まだやる気か? 鼻はどうした」
ウー・ヨンが目を瞬かせる。
「平気です。兄上が言ってましたよね。鍛えるには我慢が必要だって」
「……ふん」
ウー・ヨンの瞳が一瞬で冷たくなった。
「いいだろう。そんなに強がりたいなら、どれだけ持つか試してやる」
次の瞬間、前触れもなく拳が飛んできた。
速い――あまりに速くて、見えなかった。
咄嗟に腕を上げて防いだものの、衝撃で腕ごと弾き飛ばされる。
「ぐっ……!」
体が床を転がり、息が詰まる。
それでも、歯を食いしばって立ち上がった。
足が震えても、膝が笑っても、構えを取る。
「……もう一度」
その言葉が、怒りに火をつけた。
ウー・ヨンの顔が真っ赤に染まり、次の瞬間、全力の蹴りが横腹に突き刺さった。
「――っああああっ!」
腹斜筋で受け流そうとしたが、到底受けきれない。
年上で、鍛錬量も桁違いの相手だ。
骨がきしみ、鋭い痛みが走る。
鈍い音がした――嫌な、割れるような音。
息が漏れ、体がくの字に折れた。
「――もうやめろッ!」
ウー・ランの怒鳴り声が響いた。
次の瞬間、彼が俺とウー・ヨンの間に割って入る。
「やめろと言っている! 行きすぎだ!」
「行きすぎ? 何を言ってるんですか、先生」
ウー・ヨンは腕を組み、わざとらしく眉をひそめた。
「ジエンが“続けたい”と言ったんですよ。俺はそれに応えただけです」
「そんな言い訳が通じると思うな!」
ウー・ランの目が鋭く光る。
「お前が故意に力を使いすぎたのは見れば分かる!
確かに訓練では事故もあるが、これは“事故”じゃない。
後で処罰を受けてもらう」
その言葉に、ウー・ヨンの顔が歪んだが、反論はしなかった。
俺は地面に転がったまま、必死に息を吸おうとした。
肺が痛い。空気が入らない。
体を丸めてうずくまっていると、誰かの手が肩に触れた。
「ジエン! 大丈夫!?」
メイインだ。
いつもの白い顔が、血の気を失って真っ青になっている。
彼女の声が震えていた。
「……っ、メイ……」
口を開こうとしたけれど、声にならなかった。
――嫌だ。
この無力な自分が、心底嫌だった。
痛みよりも、悔しさで涙がこぼれそうになる。
どうして俺は、こんなにも弱いんだ。
どうして、守られることしかできないんだ。
どうして、メイインを守れないんだ。
俺は――
俺は、彼女を守る盾になりたい。
そのためなら、どんな痛みでも耐えてみせる。
もっと強く……もっと勇敢に……もっと誇れる自分に。
――メイのために。
そして、自分自身のために。
「だ……だいじょうぶ……だ」
喉の奥にたまっていた血を咳き込みながら、なんとか言葉を出す。
「メイ……手を……貸してくれ」
メイインは最初、止めようとした。
けれど、俺の目を見て、何かを感じ取ったのだろう。
無言で頷き、俺の腕を肩に回して支えてくれた。
立ち上がった瞬間、世界がぐらりと傾く。
足が震え、膝が笑う。
それでも――倒れなかった。
頬の内側を噛み、痛みで意識を保つ。
視界の端では、ウー・ヨンとウー・ランの口論が続いている。
「どうして俺が罰を受けなきゃいけないんですか!? 先生がやれと言ったんですよ! 俺のせいじゃない、ウー・ジエンが弱すぎるのが悪いんです!」
「お前が強すぎることを自覚しているなら、力を加減しろ!
族長の息子だからといって、何をしてもいいわけじゃない!」
二人の言い争いの声を聞きながら、胸の奥に熱がこみ上げた。
「……先生」
俺は血に濡れた唇を開いた。
声は掠れていたが、それでも二人の耳に届いた。
「ウー・ヨンの言う通りです。
これは……俺が弱いせいです」
「ジエン!?」
ウー・ランもメイインも驚いた顔をした。
「でも――」
再び血を吐きながら、必死に顔を上げる。
胸が焼けるように痛い。
それでも、言葉を止めたくなかった。
「俺は、このままじゃ終わりません。
ウー・ヨン――!」
血で赤く染まった手で、兄をまっすぐに指さす。
「六ヶ月後。次の一族の力量試験で……俺と戦え。
その時に、本当に俺が“弱い”かどうか――確かめてやる」
ウー・ヨンの目が一瞬だけ見開かれる。
だが、すぐに口の端が吊り上がり、あのいやらしい笑みを浮かべた。
「俺に挑戦だと?」
ウー・ヨンの唇が、ゆっくりと歪んだ。
その目には、あからさまな嘲りの光。
「お前、目が節穴になったか? 木と葉の区別もつかないとはな」
低く笑いながら、一歩前に出る。
「いいだろう。
本当の“男”ってものを教えてやる。
――その時までに、せいぜい後悔しない覚悟だけはしておけ」
その言葉は、まるで刃のように冷たく、
空気を切り裂いて俺の耳に突き刺さった。




