第1話 臆病者と呼ばれた少年
「よくも……」
彼女は冷たく、力の抜けたその身体を腕に抱きしめた。
涙が頬を伝い落ち、憎悪に満ちた視線を目の前の男に向ける。
「よくも私から奪ったわね!」
男は嘲るように笑った。
「奪っただと? お前から奪っただと? ふん、こっちはお前から奪った――いや、正確にはお前が自分で緩んだ結果だ。
あの子に惚れた時点でお前は職務を忘れた。正気に戻れ。
あの者は最初からお前に相応しくはなかったのだ。」
「そんなことをお前に決める権利があるのか!
誰が相応しいかを決められるのは私だけよ!」
「もう遅い。奴はもう死んだ。
死者を生き返らせることなど、お前にもできまい。」
彼女は抱いている死にゆく恋人の顔を見下ろした。
冷たく、赤のない唇。血の滲んだ衣服。
男の言う通り、彼を取り戻すことはできない。
時間を戻す力など、今の彼女にはないのだ。
だが、それで終わりではなかった。
まだ選択肢は残っている。
彼女は諦めてはいない。
気が彼女の周りに集まり、濃い銀色の霧のように渦を巻いた。
男の目が驚きに見開かれる。
「何をするつもりだ?!」
「奴を、私の手から放させはしない。
戻せないのなら、私が一緒に行くだけだ。」
「魂を燃やすつもりか?!
正気じゃないのか?!
たとえ転生したとしても、あいつを見つけられる保証なんて――!」
「いいえ……もう、彼と共に転生できるようにしてあるの。」
「まさか……お前、そんな……くそっ!
なんでだ! どうしてそんなことを――!」
男の叫びは狂気じみていたが、彼女はただ静かに微笑んだ。
「お前が知る必要はないわ。
私はお前に説明する義務もない。
ただ――ひとつだけ忠告しておく。
私たちの邪魔だけはするな。
もし手を出すなら、地獄の果てまで追ってやる。
お前も、お前の血筋も、十代先まで皆殺しにする。
天からお前という存在を消し去り、誰一人としてお前を覚えていられないようにしてやる。」
「やめろおおおっ!!」
「もう遅いわ。
……二度と会うことがないことを祈っている。」
男が止めようと手を伸ばしたが、彼女の放つ気はあまりにも強大で、近づくことすらできなかった。
彼女は腕の中の亡骸をさらに強く抱きしめ、その髪に顔をうずめる。
銀の雫のような涙が頬を伝い、黒髪の上に落ちて消えた。
「すぐに行くわ……待っててね。」
◆◆◆
殴られた瞬間、視界がぐるりと回った。
顔に走る衝撃と共に世界が傾き、俺は雪に覆われた地面へ叩きつけられた。
鈍い音と共に肘を打ち、思わず声が漏れる。
頬から顎へと鋭い痛みが走り、肘にも焼けるような感覚が広がった。
血が肌を伝い、白い雪の上に赤い点を落としていく。
歯を食いしばりながら、俺はなんとか上体を起こした。
頬に手を当てると、ズキリと痛みが走り、思わず指を離す。
肘にも鋭い痛みが走り、顔をしかめた。
涙がにじむ俺の姿に、目の前の連中が笑い声を上げる。
「ははは! 見ろよ、この弱虫!」
「泣いてやがるぜ!」
「こんなヒョロヒョロが一族の後継ぎだなんて、信じられるか?
先祖に顔向けできねぇだろ。
やっぱり次の族長はヨン公子が相応しいよな!」
俺の前に立っているのは三人。
みんな俺と同じ武一族の者――武勇、武明、そして武飛。
兄の武勇は俺の腹違いの兄だ。
同じ黒髪だが、瞳の色は淡い青緑。
十歳の彼は、八歳の俺よりもずっと背が高く、体も大きい。
彼は父上の第二夫人の子供。
だからこそ、年上でも俺のように第一夫人の子ではない彼は、族長の跡継ぎではなかった。
だが成人すれば、挑戦する機会はある。
実力で地位を奪えるのだ。
……だからだろうか。
彼が俺をこうして虐めるようになったのは。
以前は仲が良かった。
笑い合って、一緒に木剣で遊んだりもした。
なのに、今はまるで別人のようだ。
嫉妬しているのか?
自分より弱い俺が、ただ母の血筋だけで後継ぎに選ばれたことを?
俺には、兄の変わってしまった理由がどうしても理解できなかった。
兄貴――武勇は、いつも誰も見ていないところで俺をいじめた。
だから俺は、できるだけ人の多い場所にいるようにしていた。
けれど、今日は運が悪かった。
用を足して戻る途中で、あいつらに捕まってしまったのだ。
空から雪が静かに降り注ぐ。
俺は地面に倒れ込み、冷たい雪に頬を押しつけた。
涙が滲み、凍えるような冷気と混ざって頬にしみる。
叩かれた場所がじんじんと痛み、肘も雪の冷たさで感覚がなくなりつつあった。
それでも……冬の寒さに、少しだけ感謝すらしていた。
冷気が痛みを鈍らせてくれるからだ。
「どうした? さっさと立てよ。情けねぇな!」
「泣くなよ、弱虫!」
「恥を知れよ!
こんなのが俺たちの一族の跡継ぎだなんて、聞いて呆れるぜ!」
「顔も女みてぇだな。
せめて中身くらい男らしくしろよ!」
兄の取り巻き二人が口々に罵声を浴びせる。
その後ろで、武勇は鼻で笑いながら俺を見下ろしていた。
まるで、汚れた雪でも見るような目つきで。
胸の奥がズキリと痛む。
彼らの言葉が全部、事実だからこそ余計に苦しかった。
俺は肌が白く、髪は艶のある黒。
顔立ちも女みたいに整っているとよく言われる。
父上ですら「もう少し男らしくなれ」とため息をつくほどだ。
……そのたびに、心が小さくひび割れる音がした。
初めまして。作者の馬嵐堂 薫と申します。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
『時空の断裁者』は、私がずっと書き続けてきた大切な物語で、日本の読者の皆様にも楽しんでいただけたら嬉しいです。
しばらくの間は、読みやすいペースで更新したいと思い、
【最低 2 週間、1 日 2 話】の更新を予定しています。
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次回もお楽しみに!
作者:馬嵐堂 薫




