第三話
ガルニア帝国での日々は、まるで夢のようだった。
カイザー様――わたくしの婚約者となったカイザー・フォン・エーデルシュタイン公爵は、その『氷血公爵』という異名が冗談に思えるほど、わたくしを甘やかし、大切にしてくれた。
「ミア、寒くないか? この毛皮の膝掛けを使え」
「ミア、今日のデザートは、お前が好きだと言っていたラズベリーのムースを用意させた」
「ミア、疲れているだろう。今日はもう休め。書類仕事など俺がやっておく」
……過保護がすぎるのでは?
そう思いつつも、生まれて初めて注がれる無条件の愛情は、凍りついていたわたくしの心を、春の陽だまりのようにじんわりと溶かしていった。
そして、帝国に来て一週間が経った日。
わたくしは、運命の瞬間に立ち会うことになる。
帝国の技術の粋を集めて作られたという、巨大な魔力測定装置の前。
それは、わたくしの祖国にあった簡素な水晶玉とは比べ物にならないほど複雑で、美しい機械だった。
「準備はいいか、ミア」
隣に立つカイザー様の赤い瞳が、期待に満ちた熱を帯びてわたくしを見つめている。
こくり、と唾を飲み込み、わたくしはゆっくりと装置の中央にある台座に手を置いた。
(もし、これで何も起こらなかったら……?)
一瞬、不安が胸をよぎる。
カイザー様はわたくしの力に期待してくれている。
その期待を裏切ってしまったら……。
「心配するな」
心を読んだように、カイザー様がわたくしの肩を抱き寄せた。
「俺がお前を選んだ。その事実だけで十分だ。どんな結果が出ようと、お前が俺の唯一であることに変わりはない」
その言葉が、どれほどわたくしの心を救ってくれたことか。
わたくしは迷いを振り払うように目を閉じ、そして、ゆっくりと魔力を流すイメージをした。
――その瞬間だった。
ゴオオオオオオッ!!
地鳴りのような轟音と共に、測定装置全体がまばゆい純白の光を放った!
光は天井を突き破るほどの勢いで立ち上り、城全体を、いや、帝都全体を昼間のように明るく照らし出す。
「なっ……!?」
「計器が……振り切れる!!」
「計測不能! こんな数値、見たことがないぞ!」
研究者たちの悲鳴に似た叫び声が飛び交う。
わたくし自身、何が起きているのか分からず、ただ呆然と光の柱を見つめることしかできなかった。
やがて、光が収まった時。
そこに現れたのは、信じられない光景だった。
測定装置の周囲に置かれていた、研究用の枯れた鉢植え。
その全てから、一斉に青々とした新芽が芽吹き、可憐な花を咲かせているではないか。
「これは……まさか……」
カイザー様が、驚愕と歓喜が入り混じった声で呟く。
「瘴気を浄化し、生命に活力を与える……『聖なる力』。――お前は、聖女だったのか、ミア」
聖女。
数百年に一度、この世界に現れるという、神に祝福されし存在。
その絶大な聖なる力は、土地を蝕む瘴気を払い、魔物を鎮め、人々に癒やしと豊穣をもたらすと言われている。
(わたくしが……聖女?)
信じられなかった。
『無能』で『出来損ない』のわたくしが、そんな伝説上の存在だなんて。
「どうやら、お前のその力は、何者かによって意図的に封じられていたようだな」
カイザー様が、わたくしの手を取り、その指先をじっと見つめる。
「おそらく、強力な『魔力封じの呪い』だ。お前の魔力が大きすぎるが故に完全には封じきれず、感情が昂った時に力の片鱗が漏れ出していたのだろう。……忌々しいことを」
氷のように冷たい怒りを宿した声。
あの書斎での出来事は、やはりわたくしの力が暴走したものだったのだ。
そして、それを父は「呪われている」と断じ、地下に閉じ込めた。
もしかしたら、父は……うすうす、わたくしの力の正体に気づいていたのかもしれない。
そして、その力を恐れたか、あるいは疎んだかして、真実を隠蔽したのでは……?
「安心しろ、ミア。俺がその呪いを解いてやる」
カイダー様はそう言うと、わたくしの手を両手で包み込み、そっと目を閉じた。
彼の中から、冷たく、それでいて力強い魔力が流れ込んでくる。
それは、まるで固く閉ざされた錠前を、合い鍵でこじ開けるかのように、わたくしの内なる扉をゆっくりと、しかし確実に押し開いていった。
パリン、と。
心の中で、何かが砕け散る音がした。
次の瞬間、全身を駆け巡る、今まで感じたことのないほどの膨大なエネルギーの奔流!
「―――っ!!」
それは、わたくし自身の力。
ずっと、わたくしの奥底で眠っていた、本当のわたくし。
目を開くと、世界が今までとは全く違って見えた。
空気中に漂う魔力の流れ、人々の魂が放つ微かな光、遠くで鳴く小鳥の羽音まで、その全てが手に取るように感じられる。
これが……わたくしの、本当の力……!
◇
その頃。
わたくしが捨てた祖国、アルテミス王国は、未曾有の危機に瀕していた。
聖女であるわたくしを失ったことで、王都を長年守ってきた結界の力が急速に弱まり、国境付近から濃密な瘴気が流れ込み始めていたのだ。
瘴気は大地を枯らし、川を濁らせ、人々を病に罹わせた。
さらに、瘴気に当てられた魔物たちが凶暴化し、次々と街や村を襲い始めたのである。
「リリアナ! お前の光の魔力で、瘴気を払うことはできんのか!」
玉座の間で、エドワード王子がリリアナに苛立たしげに叫ぶ。
「む、無理ですわ、エドワード様! わたくしの魔力では、この邪悪な瘴気に触れただけで……!」
リリアナの放つ光の魔法は、濃密な瘴気の前では、まるで嵐の前の蝋燭の灯火のように、あまりにも無力だった。
彼女の魔力は、人を癒やすことはできても、国を蝕むほどの災厄を浄化する力など、持ち合わせていなかったのだ。
騎士団は連日、魔物との戦いで疲弊し、民衆の不満は日に日に高まっていく。
国中が、絶望と混乱の渦に飲み込まれていた。
「なぜだ……なぜ、こんなことに……」
エドワードは、自らの愚かさをようやく悟った。
ミアがいた頃は、こんなことは一度もなかった。
魔力がないと蔑んでいたあの女が、知らず知らずのうちに、この国を守る『楔』となっていたのだ。
彼女の存在そのものが、国を守る結界を維持するための、聖なる力だったのだ。
「ミア……そうだ、ミアを連れ戻さねば……!」
藁にもすがる思いで、エドワードはプライドも何もかも投げ捨て、ガルニア帝国行きの馬車に飛び乗った。
そして、数日後。
帝国の公爵城の謁見の間で、わたくしは変わり果てた元婚約者と再会することになる。
「ミア……! 頼む、どうか国に帰ってきてくれ! この通りだ!」
みすぼらしくやつれた姿のエドワードが、わたくしの足元に額を擦り付けて懇願する。
その後ろでは、リリアナが悔しそうに唇を噛み締めながら、わたくしを睨みつけていた。
(今さら、どの口が言うのかしら)
心の中で冷たく吐き捨てる。
わたくしは、玉座のような豪華な椅子にゆったりと腰かけたまま、氷のような視線で彼らを見下ろした。
隣では、カイザー様が面白くなさそうに腕を組んでいる。
「お言葉ですが、エドワード殿下。わたくしはもう、貴国の人間ではございません。このカイザー様の、未来の妻ですの」
「そ、そこをなんとか……! 国が、民が滅んでしまう! 君は、それでもいいのか!?」
「民、ですって?」
わたくしは、ふ、と笑みを漏らした。
「わたくしが断罪されたあの日、わたくしに同情の言葉をかけた民が一人でもおりましたか? いいえ、彼らは皆、わたくしを『悪女』と罵り、石を投げることこそすれ、誰も助けてはくれなかった。――そんな者たちのために、なぜわたくしが力を貸さねばならないのでしょう?」
「ぐっ……!」
エドワードが言葉に詰まる。
真実だったからだ。
もう、あの頃の無力なミア・フォン・アルテミスはどこにもいない。
わたくしは、自分の価値を、力を、そして愛してくれる人を知った。
けれど。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃に城下町で見た、貧しいながらも懸命に生きる人々の笑顔。
わたくしが聖女であるならば、その力は、個人の復讐のためではなく、救うべき命のために使われるべきではないのか。
「……分かりましたわ」
迷いを断ち切るように、わたくしは静かに立ち上がった。
「王国へ、参りましょう」
「おお、本当か、ミア!」
パッと顔を輝かせるエドワード。
しかし、わたくしは冷たく言い放つ。
「勘違いなさらないで。あなたのためでも、王家のためでもありません。ただ、罪なき民を救うため。……それだけです」
そして、わたくしは隣に立つカイザー様に向き直り、その手を取った。
「カイザー様。わたくしの、最後の我儘をお聞き届けいただけますか?」
「我儘などと思うな。お前の望みは、俺の望みだ」
カイザー様は、わたくしの手を力強く握り返し、その赤い瞳で、絶対的な信頼と愛情を伝えてくれる。
「――お前が聖女として立つというのなら、俺はお前をただ一人守護する、最強の騎士となろう」
この人となら、きっと大丈夫。
どんな運命も、乗り越えていける。
わたくしは、過去との決着をつけるため。
そして、救国の聖女として、本当の人生を歩み始めるために。
愛する人と共に、絶望に沈む祖国へと、今、舞い戻る。




