第二話
「では、わたくしはこれにて失礼いたしますわ」
完璧な笑みを唇に貼り付けたまま、わたくしは踵を返した。
背中に突き刺さる好奇と侮蔑の視線の槍衾。
その一つ一つが、わたくしの心を抉り、プライドをズタズタに引き裂いていく。
けれど、ここで涙を見せてはいけない。
崩れ落ちてはいけない。
彼らが望む「悲劇のヒロイン」にだけは、絶対になってやるものか。
(大丈夫。大丈夫よ、ミア)
自分に言い聞かせながら、一歩、また一歩と、舞踏会の会場を後にする。
まるで、血の海の中を歩いているみたいだった。
足が鉛のように重い。
逃げるようにしてたどり着いたのは、月の光だけが差し込む、ひっそりとしたバルコニー。
ひんやりとした大理石の手すりに体重を預け、ようやく詰めていた息を細く長く吐き出した。
「……っ」
途端に、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
こらえていた涙が、堰を切ったように頬を伝って、ぽたぽたとドレスの胸元に染みを作った。
悔しい。
悲しい。
そして、何よりも……虚しい。
結局、わたくしには何の価値もなかったのだ。
魔力のない、出来損ない。
誰からも愛されず、必要とされない、ただの置物。
今まで信じてきたもの、必死に積み上げてきた努力、その全てが、音を立てて崩れ去っていく。
(もう、どうでもいいわ……)
いっそ、このままバルコニーから身を投げてしまったら、楽になれるのだろうか。
そんな黒い考えが頭をよぎった、その時だった。
「――つまらん芝居だったな」
背後からかけられた、低く、静かで、それでいて鼓膜を震わせるような声。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは……。
「……氷血公爵様」
月光を背に負い、闇に溶け込むようにして佇む、カイザー・フォン・エーデルシュタイン公爵。
その血のように赤い瞳が、暗闇の中でらんらんと妖しい光を放っている。
いつからそこに……? 全く気配を感じなかった。
「わたくしのことなど、お構いなく。どうぞ、夜会をお楽しみくださいませ」
慌てて涙を拭い、淑女の仮面を被り直す。
今の無様な姿を、よりにもよってこの人に見られてしまったなんて。
けれど、公爵はわたくしの言葉を意にも介さず、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
カツン、カツン、と彼のブーツが大理石を鳴らす音だけが、やけに大きく響く。
逃げ場のないバルコニーで、じりじりと追い詰められていく感覚。
「芝居、と申されますと?」
「とぼけるな。あの場で、最も冷静にお前自身を、そして周囲を観察していたのは、お前自身だろう」
彼の赤い瞳が、わたくしの心の奥まで見透かすように、じっと射抜く。
「……っ!」
思わず息を呑んだ。
誰も気づかなかった。
父でさえも、母でさえも、わたくしの内面になど、興味すら示さなかったというのに。
「なぜ、反論しなかった? お前ほどの女ならば、あの程度の雑な嘘など、いくらでも論破できたはずだ」
「……意味が、ありませんから。わたくしが何を言おうと、誰も信じてはくださいませんもの」
自嘲気味に呟くと、彼は初めて、ふっと面白そうに唇の端を吊り上げた。
「ククッ……なるほどな。確かに、あの愚かな王子と子猿のような小娘に、真実を説くだけ無駄か」
子猿。
リリアナ様の愛らしい姿を思い浮かべ、その的確すぎる表現に、不謹慎にも少しだけ笑いそうになってしまった。
「それよりも、だ」
公爵は、わたくしとの距離をさらに一歩詰める。
彼の纏う冷気と、微かに香る冬の森のような匂いに、心臓が大きく跳ねた。
「お前、自分を押さえつけているだろう」
「……何のこと、ですの?」
「幼い頃、感情の昂りに任せて、無意識に力を暴走させた経験があるはずだ。違うか?」
雷に打たれたような衝撃が、全身を貫いた。
どうして、この人がそれを……?
書斎の窓ガラスが砕け散った、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
あれは、誰にも話したことのない、わたくしだけの秘密のはずなのに。
わたくしが絶句していると、公爵は確信に満ちた声で続けた。
「やはりな。お前の魔力は『無』なのではない。あまりに巨大すぎて、この国の陳腐な魔道具では計測が不可能なだけだ」
計測、不可能……?
そんなこと、ありえるの?
混乱するわたくしの心を読んだように、彼は言葉を重ねる。
「それは、例えるなら、コップで海を測ろうとするようなもの。コップには一滴の水も入らん。だが、それは水が存在しないからではない。器が小さすぎるからだ」
コップと、海。
今まで誰も思いつきもしなかった、あまりに突飛な発想。
けれど、その言葉は不思議な説得力を持って、乾ききったわたくしの心に、じんわりと染み込んでいくようだった。
「我が帝国の技術で作られた魔道具ならば、あるいはその真価を測れるかもしれんぞ」
彼は、悪魔のような笑みを浮かべて、わたくしに手を差し伸べた。
「ミア・フォン・アルテミス。俺と取引をしろ」
「……取引、ですって?」
「ああ。――俺の妻になれ」
思考が、完全に停止した。
つま、に?
今、この人、なんて言った?
「ご冗談を……。わたくしは、つい先ほど国中の前で婚約を破棄されたばかりの、傷物の令嬢ですのよ? それに、魔力のない『置物』で……」
「だから、それがどうした?」
公爵は、わたくしの言葉をあっさりと切り捨てる。
「俺が欲しいのは、公爵家の権力でも、お前の見た目でもない。お前自身だ。その魂の奥底に眠る、計り知れないほどの巨大な力。それこそが、俺が求める全てだ」
彼の赤い瞳が、飢えた獣のようにギラリと光る。
この人は、本気だった。
本気で、わたくし自身を、その力を欲しているのだ。
「俺の妻となれば、お前を虐げ、その価値を見抜けなかった愚か者どもへの、最高の復讐の舞台を用意してやる。お前を『無能』と蔑んだ連中が、やがてお前の足元に跪き、許しを乞うことになるだろう。……悪くない話だと思うが?」
復讐。
その甘美な響きに、心の奥底で凍りついていた何かが、どろりと溶け出すのを感じた。
エドワード殿下。
リリアナ様。
わたくしを嘲笑った貴族たち。
そして……わたくしを見捨てた、父と母。
彼らが、わたくしに跪く……?
(そんなの……最高じゃない!)
このまま国に残っても、わたくしを待っているのは修道院での味気ない暮らし、あるいは、どこかの好色な老人への厄介払いだろう。
未来など、どこにもない。
ならば。
この悪魔のような公爵の手に、賭けてみる価値は、あるのではないか?
何よりも、知りたい。
わたくしは、本当に『無能』なんかじゃないのかもしれない。
この人が言うように、わたくしの中に眠る、本当の力を。
「……分かりましたわ」
迷いは、もうなかった。
わたくしは顔を上げ、彼の燃えるような赤い瞳をまっすぐに見つめ返す。
「その取引、お受けいたします。わたくしを、あなたの妻にしてくださいませ、カイザー公爵殿下」
差し出された彼の手を、わたくしは固く、強く握り返した。
その手は、氷のように冷たいと想像していたのに、意外なほどに温かかった。
「話が早くて助かる」
カイザー様が満足げに頷いた、その時だった。
「ミア! こんなところにおったのか!」
けたたましい声と共に、エドワード殿下とリリアナ様がバルコニーに現れた。
その後ろには、父と母の姿も見える。
「カイザー公爵殿下、なぜこのような女と……? まさか、この女が何か失礼を働いたのでは!」
殿下は、わたくしとカイザー様が手を繋いでいるのを見て、顔を真っ赤にする。
その隣で、リリアナ様が「ミア様、殿下を困らせては駄目ですわ……」と、しおらしく涙ぐんでみせた。
(まだその茶番を続けるのね、あなたたち……)
わたくしが言い返すよりも早く、カイザー様の絶対零度の声が場を支配した。
「――黙れ、愚か者」
地を這うような低い声に、殿下の顔からサッと血の気が引く。
「彼女は、我が花嫁となる女だ。もはや、貴様らがその名を出したり、指一本触れたりすることなど、未来永劫許さん。……分かったか?」
圧倒的な威圧感。
それは、百戦錬磨の戦場を生き抜いてきた者だけが放つことのできる、純粋な『格』の違いだった。
王子という立場も、権力も、彼の前では何の意味もなさない。
「そ、そんな……馬鹿な……」
呆然と立ち尽くす殿下と、信じられないという表情でわたくしを見る両親。
その顔に浮かぶのは、驚愕、焦り、そして……後悔の色。
ああ、なんて滑稽なのかしら。
わたくしが『氷血公爵』の婚約者になった途端、手のひらを返すだなんて。
「行くぞ、ミア」
カイザー様は、もはや彼らに一瞥もくれず、わたくしの腰を抱き寄せる。
そして、誰もが息を呑んで見守る中、堂々と舞踏会の会場を横切って歩き始めた。
モーゼの十戒のように、人々が道を開けていく。
呆然とする元婚約者。
真っ青な顔でわたくしの名を呼ぼうとする父。
扇を落とし、わなわなと震える母。
ざまあみなさい。
あなたたちが捨てた石ころは、世界で一番価値のある、極上のダイヤモンドだったのよ。
そのことに気づいた時には、もう手遅れ。
公爵家の紋章が刻まれた豪華な馬車に乗り込むと、すぐに重厚な扉が閉められ、外界の喧騒が嘘のように遠ざかった。
やがて、馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外に流れていく王城の景色は、わたくしが捨てた過去の象徴。
もう、二度とここへ戻ることはないだろう。
不安が全くないわけではない。
けれど、それ以上に、胸の高鳴りが止まらなかった。
隣に座るこの冷たくて美しい人の隣でなら、わたくしは、きっと生まれ変われる。
本当の自分に。
わたくしの新しい人生が、今、静かに幕を開けた。




