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雪原の魔女  作者: R.D
9/14

幻覚

 私たちが洞窟を出た時、世界は、白と静寂に包まれていた。


 ライハは、これからの道のりについて何かを尋ねようとして、しかし、私の纏う空気に気圧されたのか、結局口をつぐんだ。


 それで、よかった。


 今の私に、言葉を交わす余裕など、ひとかけらも残されていなかったからだ。


 一歩、足を踏み出すごとに、きしりと鳴る雪の音が、骨の砕ける音に聞こえる。


 吹き付ける風の音は、兵士たちの断末魔の叫びに重なる。


 目の前に広がる真っ白な雪原は、黒い煙の立ち上る、死体だらけの戦場へと姿を変える。


 私は、この地獄の幻覚を振り払うように、ただ、前を歩くライハの足跡だけを見つめ、それを正確に踏みしめながら、無心で歩き続けた。


 それだけが、今の私を、かろうじて現実に繋ぎとめる、唯一の術だった。


「……おい、あんた」


 不意に、ライハが足を止め、声をかけてくる。


「少し、様子がおかしい。何もない場所を睨んだり、時々、何かに怯えているように見える。もしかして、毒か?」


「……なんでもない。気のせいだ」


 私は、短く答え、彼を追い越して先に進む。


 この男は、存外、鋭い。


 これ以上、悟られるわけにはいかない。


 私は、硝煙の匂いのする戦場を歩き続ける。


 どれくらい、歩いただろうか。


 目の前に、信じがたい光景が広がった。


 天を突くほどの巨大な氷柱が、まるで森のように林立している。


 氷柱は、雲間から射す太陽の光をその内部で乱反射させ、世界を、七色の淡い光で満たしていた。


 あまりにも、美しかった。


 そして、その美しさが、私の心の、一番柔らかな場所を、容赦なく抉った。


 ――ああ、この光は、あの日の光と、よく似ている。


 その瞬間、私の意識は、過去へと飛んだ。


 戦場だった。だが、そこには炎も、悲鳴もなかった。


 駐屯地の裏にある、小さな泉のほとり。戦争が始まって以来、初めてと言っていいほどの、穏やかな午後のことだった。


『ねえ、フィーネ。あんた、聖女様なんて呼ばれてるけど、本当はただの堅物だよね』


 隣で、親友の――アリアが、楽しそうに笑いかけてくる。


『堅物って、全く。失礼な』


『だって、いつも難しい顔してるじゃない。たまには、こうやって笑わないと』


 そう言って、アリアは私の頬を、むに、とつねった。


 私は、溜息をつきながら、手にしていた白樺の杖を、そっと泉の水に浸す。


『――こういうことなら、得意だけど』


 私が小さく呪文を唱えると、杖の先から、光る魔力が水面に広がり、見る間に、一体の小さな氷の鳥が形作られた。


 鳥は、命を宿したかのように軽やかに飛び立つと、アリアの周りを、きらきらと光の尾を引きながら、楽しげに舞い始めた。


『わあ! すごい! フィーネ、きれい!』


 アリアが、子供のようにはしゃいで、その光景に手を伸ばす。


 その笑顔が、太陽よりも、眩しかった。


「……フィーネ?」


 ライハの声で、私は、はっと我に返る。


 目の前には、ただ、冷たい氷柱の森が広がっているだけ。


 アリアの笑顔も、氷の鳥も、どこにもない。


 頬に、何か冷たいものが触れた。


 一筋だけ流れた涙が、瞬時に凍りつき、氷の粒となって、私の肌に張り付いていた。


 その夜の野営は、気まずい沈黙の中で始まった。


 私は、炎を見つめながら、先ほどの幻覚の残滓に、心を苛まれていた。


 そんな私に、ライハが、不意に語り掛けた。


「……俺の妹のサーシャ、笑うと、あんたの親友に、少し似てるかもしれないな」


 彼の言葉に、私は、びくりと身体を強張らせる。


「あ、いや、悪い! あんたの友達のことなんて、何も知らないのに…」


 彼は慌てて言葉を濁したが、もう遅い。


 彼は、私の心の、一番触れてほしくない場所に、触れてしまった。


 だが、彼の口から続いたのは、謝罪ではなく、妹への、愛おしさに満ちた、思い出話だった。


「サーシャは、甘いものが好きなんだ。特に、蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキが。病気になってからは、あまり食べられなくなったけど…。だから、病気が治ったら、腹いっぱい、食べさせてやりたいんだ。街一番のパンケーキを」


「俺が言いたいのは、あんたの親友も、今のあんたをみたら心配しちまうってこと、なのかもな」


 彼は、未来を語っていた。


 私が、アリアと共に、永遠に失ってしまった、未来を。


 守りたい、未来の笑顔。


 守れなかった、過去の笑顔。


 私は、何も答えない。


 ただ、燃え盛る炎の向こうで、必死に未来を紡ごうとする男の横顔を、じっと、見つめていた。


 この男の未来を、私と同じにしてはならない。


 それだけが、今の私を動かす、唯一の誓いだった。

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