猛毒
銀色の閃光が、音さえ置き去りにして奔る。
次の瞬間、巨大なトカゲの頭部が、胴体から滑り落ちていた。
どさり、と巨体が倒れ、洞窟に静寂が戻る。
荒い呼吸も、高鳴る鼓動もない。
ただ、左腕に走る、焼けるような痛みだけが、現実の感覚として残っていた。
「おい!大丈夫か!?」
背後から、必死な声が聞こえる。ライハの声だ。
私は、その声に応えることなく、ゆっくりと彼の方へと振り返った。
だが、そこにいたのは、ライハではなかった。
血塗れの軍服。頬には深い傷。
そして、その瞳には、私に対する、悲しみと、失望と、そして、かすかな憎しみが浮かんでいる。
戦場で、最後に見た、あの顔。
私が、守れなかった。
私が、殺してしまった、親友の顔。
「……誰」
声が、震えた。
なぜ。なぜ、お前がここにいるんだ。
ここは、雪原のはずだ。
あの、炎と血に染まった地獄じゃない。
それとも、私も、ようやく死んだのか?
「なにいってる!しっかりしろ、俺だ! ライハだ!」
耳元で、知らない男の声が、怒鳴るように響く。
その声に、目の前の親友の姿が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
幻影が薄れ、再び、心配そうに私を覗き込む、ライハの顔が現れる。
だが、おかしい。
彼の向こう、洞窟の壁が、燃え盛る故郷の街並みに変わっている。
足元には、無数の兵士の死体が転がっている。
耳鳴りのように、鬨の声と、剣戟の音と、助けを求める悲鳴が、頭の中で鳴り響いて、止まない。
「……なんでもない」
私は、かろうじてそれだけを絞り出し、彼から逃げるように一歩、後ずさった。
ズキリ、と左腕の傷が、脈打つように痛む。
この傷からだ。
この傷から、何かが、私の身体に流れ込んできてる。
これは、ただの毒じゃない。
私の精神を内側から蝕み、現実と過去の境界線を破壊し、私を、あの地獄に永遠に繋ぎとめるための、猛毒だ。
猛毒、と認識した瞬間、私の意識の糸は、ぷつりと切れた。
最後に見たのは、私の名前を叫びながら駆け寄ってくる、ライハの必死な顔。
それさえも、すぐに過去の亡霊たちの顔と重なり、やでて、全てが、深い、深い闇に飲み込まれていった。
次に目が覚めた時、最初に感じたのは、微かな温かさだった。
私が眠っていたはずの、冷たい石の床ではない。
誰かが、私の身体を暖炉のそばまで運び、毛皮の上に寝かせたのだろう。
私自身の外套だけでなく、ライハのものと思しき、分厚いマントまでが、身体にかけられていた。
左腕に目をやると、傷は、驚くほど丁寧に処置されていた。
血は綺麗に拭き取られ、消毒薬草を塗り込んだ布が、しっかりと巻かれている。
焼けるような痛みは、鈍い疼きに変わっていた。
「……また、生き残った…」
「……気がついたか」
すぐそばから、疲労の滲む声がした。ライハだった。
彼は、ほとんど眠っていないのか、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
それでも、私が目を覚ましたことに、心底ほっとしたような表情を見せた。
「昨夜、あんたが倒れてから、ひどい熱でうなされていた。……妹の病気のおかげで、医学や薬学は、少しだけ知ってるんだ。応急処置しかできていないが…」
彼は、そう言って、水筒を私に差し出す。
私は、黙ってそれを受け取り、乾ききった喉を潤した。
そして、改めて、彼の顔を見る。
その、心配そうに私を覗き込む、優しい顔が。
――次の瞬間、ぐにゃりと歪んだ。
ライハの顔に重なるように、私がかつて殺した、敵国の将軍の、憎しみに満ちた顔が浮かび上がる。
『人殺しめ』
幻聴が、脳に直接響く。
私は、息を呑み、瞬きをする。
幻は消え、再びライハの顔がそこにあった。
だが、安堵したのも束の間。
彼の背後にあるはずの洞窟の壁は、黒く焼け焦げ、崩れ落ちた、故郷の街の瓦礫に変わっていた。
風の唸り声は、炎が燃え盛る轟音に聞こえる。
どこを見ても、地獄だった。
昨夜の、一時的な錯乱ではない。
毒は、完全に私の精神と視界を掌握し、現実世界に、過去の亡霊を上書きし続けている。
「……大丈夫か? 顔色が、まだ悪い」
ライハが、心配そうに言う。
彼の顔が、また、泣きそうな顔で私を見つめる、親友の顔に、一瞬だけ変わった。
私は、奥歯を強く噛み締める。
この男に、この猛毒のことを知られるわけにはいかない。
これは、私が背負うべき罰だ。
私が殺した、私の罪。
私は、全ての幻覚を、心の奥底に無理やり押し込める。
そして、いつもと同じ、感情の読めない無表情を顔に貼り付けた。
痛む腕を庇いながら、ゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけてある大鎌へと歩み寄る。
「おい、まだ動けるのか!?」
「……問題、ない」
私は、彼に背を向けたまま、短く答える。
嘘だ。
一歩進むごとに、足元の岩が、骸骨の山に見える。
それでも、私は、進む。
この地獄の中を、この男を連れて、進むしかないのだ。
『月下の涙』を見つけ出す、その時まで。