フラッシュバック
ライハの言葉に、私は何も答えない。
ただ、彼の差し出した肉を、ゆっくりと、しかし、確実に胃に収めた。
生きるために、ではない。
約束を、果たすために。
その、静かな決意を嘲笑うかのように、洞窟の闇から、新たな死の気配が這い出てきた。
岩窟トカゲ。2メートルをこえる体躯で、トカゲというには間違っている気がするが、図鑑に書いてあるのだから仕方ない、そして、その牙や爪には、神経を侵す猛毒がある。
ライハが息を呑み、剣に手をかけるより早く、私は立ち上がっていた。
そして、ライハの前に立ち、彼を背に庇う。
「……下がって」
私は、そっと目を閉じる。
自らの内に眠る、途方もない魔力の奔流に、無理やり意識の堰を差し込む。
制御などできない。
ただ、その亀裂から漏れ出す力の雫を、この身に巡らせるだけだ。
――【自己強化】
目を開いた瞬間、私の周りの空気が、パリン、と凍てついたような音を立てた。
大鎌を、逆手に持ち直す。準備は、終わった。
グルルル、と威嚇の声を上げ、岩窟トカゲが動く。
巨体に見合わぬ俊敏さで、毒液を撒き散らしながら、その顎が私に襲いかかった。
私は、地を蹴らない。ただ、半歩だけ、身体を横にずらした。
それだけで、牙は私の髪を掠め、背後の岩壁を砕く。
続けざまに振り下ろされる爪撃。私は、その腕を駆け上がり、宙返りを打ちながらその頭上へと躍り出し、背中を切り裂くように大鎌を振るう。
しかし、呆気なく弾かれてしまった。
硬い…!
暴れる巨体の背から離れ、気を窺う。
首筋になら、私の鎌で断ち切れるはずだ。
隙を探りながら洞窟の中を、縦横無尽に駆ける。
壁を蹴り、天井の鍾乳石に大鎌の先端を突き立てて振り子のように軌道を変え、敵の猛攻を紙一重でかわし続ける。
それは、舞いだった。
死と戯れる、黒い外套の、孤独な舞踏。
ライハの目には、私が防戦一方に見えただろう。だが、違う。
私は、観察していた。呼吸の間隔、筋肉の収縮、鱗の向き、そして――ただ一か所だけ存在する、確実な「死」の在り処を。
しかし、その私の意図が、背後の男に伝わるはずもなかった。
「くそっ、このままじゃ…! 援護する!」
ライハが、隙を作ろうと、無謀にも剣を手に飛び出した。
「――馬鹿!」
私の静止は、間に合わない。
岩窟トカゲは、私から注意を逸らし、無防備なライハへと、その狙いを定めた。
必殺の尾撃が、槍となって彼を穿つ。
――間に合わない。
大鎌を振るうには、距離がありすぎる。
その刹那。思考の前に、魂が叫んだ。
忘れたはずの、忘れたかったはずの、かつての祈りの形が、魔力を編み上げ、魔法として顕現する!
「《聖なる氷盾》!」
ライハの目の前に、突如として、半透明の氷の壁が出現する。
それは、ただの氷の壁ではなかった。無数の雪の結晶が瞬時に集い、光を乱反射させる、ステンドグラスのような神々しい盾。
ガギン、と凄まじい衝撃音と共に、トカゲの尾が、その聖なる盾に阻まれた。
だが、代償は、あまりにも大きかった。
その、美しすぎる氷の輝きを見た瞬間、私の脳裏に、あの日の地獄が蘇る。
――砕け散る、氷の壁。
――夥しい血飛沫。
――血まみれの私を見つめる、親友の、最後の言葉。
「ウアァアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
悲鳴とも怒号ともつかない、魂そのものが引き裂かれるような絶叫が、私の喉からほとばしる。
頭を抱え、その場にうずくまる私に、好機と見たトカゲが、鋭い爪を振り下ろした。
ザシュッ、と肉が裂ける鈍い音。左腕に、焼けるような激痛が走る。
だが、その現実の痛みが、悪夢を塗りつぶしていく。
目の前には、血を流す私を見て、絶叫するライハ。そして、とどめを刺そうと、逆の爪を振りかぶる、醜悪な魔物の姿。
――まだ、終われない。
――まだ、贖罪の数は、足りていない。
私は、再び魔力を全身に巡らせる。
今度は、制御された、ただ敵を殺すためだけの、冷たい力として。
振り上げられた爪が、私に届くよりも速く。
「ッハァ!」
私は、その懐に潜り込み、天を衝くように、大鎌を、振り抜いた。
銀色の閃光が、音さえ置き去りにして奔る。
次の瞬間、巨大なトカゲの頭部が、胴体から、滑り落ちていた。