獣肉
差し出された私の手は、何の感情も乗っていない、ただの物体だった。
ライハは、呆然としたまま、その小さな手を、おそるおそる掴む。
冷たい。
しかし、見た目に反して、しっかりとした力で、彼は雪の上から引き起こされた。
目の前には、八つの亡骸が転がる惨状。鼻をつく血の匂い。その中心に、平然と佇む私。
ライハは、改めて理解した。
隣を歩くこの少女は、人間ではない。あるいは、かつて人間であった何かだ。神か、悪魔か。ただ、生半可な覚悟で共にいてはならない、危険な存在なのだと。
私は、ライハが立ち上がったのを確認すると、すぐに背を向け、再び歩き始めた。
まるで、先ほどの戦闘が、道端の石を蹴飛ばした程度の、取るに足らない出来事であったかのように。
ライハは、言葉もなく、ただ私の後を追うしかなかった。
陽が傾き、世界の輪郭が、青と紫のグラデーションに溶け始める。
気温が、急激に下がっていく。風は、もはやナイフではなく、肉を削ぐ巨大な斧となって、私たちの体力を奪っていた。
このまま野営すれば、朝には凍った骸になるだろう。
私が足を止め、指さしたのは、岩壁に空いた、獣の巣穴のような小さな洞窟だった。
「……ここで、夜を明かす」
私がそう短く告げると、ライハは安堵の息を漏らした。
私は、洞窟の奥へと進むと、壁に大鎌を立てかけ、外套を深く被り、その場にごろりと横になった。
冷たい石が、体温を容赦なく奪っていく。
だが、どうでもよかった。
眠れずとも、目を閉じ、意識を飛ばし、朝を待つ。いつもの、作業だ。
「おい、待て! 本気か!?」
背後から、焦ったような声が飛んでくる。
「そんなところで寝たら、死ぬぞ! 火をおこして、暖をとらないと!」
ライハが、必死の形相で何かを訴えている。
だが、私には、その言葉がひどく遠く聞こえた。
死ぬ? それが、どうしたというのか。
むしろ、望ましい結末ではないか。
私は、返事もせず、壁に向かってさらに深く身体を丸めた。
「……くそっ!」
ライハの悪態が聞こえる。
やがて、彼が洞窟の外へ出ていき、しばらくして、乾いた枝をいくつか抱えて戻ってくる気配がした。火打石を打つ、甲高い音が、洞窟に何度も響く。
諦めたように、私はただ目を閉じていた。
どれくらい経っただろうか。
ぱち、ぱち、と火の爆ぜる音と、温かい光が、閉じたまぶたの裏をうっすらと照らし始めた。
そして、先ほど嗅いだばかりの、生臭い血の匂いと、肉の焼ける香ばしい匂いが混じり合って、鼻腔をくすぐる。
ゆっくりと目を開けると、ライハが、先ほど仕留めたウルフの一頭を、手際よく解体し、その肉を串に刺して火で炙っていた。その横顔は、疲労困憊のはずなのに、生きるための力に満ち溢れていた。
彼は、私の視線に気づくと、少しだけ気まずそうに、しかし、はっきりと言った。
「食える時に食っておかないと、この土地では生き残れない。あんたもだ。……死にたいのかもしれないが、俺は、あんたに死なれちゃ困るんだ」
その言葉には、彼の目的への、そして妹への、揺るぎない意志が宿っていた。
私は、何も答えない。
ただ、燃え盛る炎の向こうで、必死に「生きよう」とする男の姿を、まるで、遠い世界の出来事のように、眺めていた。
やがて、串に刺した肉が、ぱちぱちと音を立てながら脂を滴らせ、香ばしい匂いを洞窟内に満たした。
ライハは、まず一本を火から上げると、ふう、ふう、と息を吹きかけて冷ます。そして、私の前にやってくると、有無を言わさぬ力強さで、その串を私の手に握らせた。
「お前も食え」
その声は、命令とも、懇願ともつかない、不思議な響きを持っていた。
私は、その串を見下ろす。熱い。そして、重い。
食べるという行為が、今は、昨日よりもさらに億劫に感じられた。
だが、彼の真っ直ぐな目が、私から逸らされない。ここで食べなければ、この男は、私が食べるまで、ずっとこうしているだろう。
面倒だ、と思った。
私は、気だるい動きで、串を口元へと運ぶ。
そして、熱い肉の塊を、小さく、一口だけかじり取った。
硬い。筋張っている。獣の臭みが鼻をつく。
だが、その奥に、ほんの少しだけ、感じた。
肉そのものの、力強い味。炎によって引き出された、香ばしさ。そして、生命を喰らうという、原始的な感覚。
朝のスープほどの感動はない。それでも、二年間忘れていたはずの「味」という情報が、私の脳の片隅を、鈍く、鈍く刺激した。
私は、感情のないまま、ただ、与えられた肉を、作業のように、咀嚼し続けた。
その、静かな食事の時間を、異質な音が破った。
カリ………。
洞窟の入り口の向こうから聞こえる、硬いものが岩を引っ掻くような音。
それは、風の音でも、ウルフの立てる音でもなかった。
ライハが、はっと息を呑み、腰の剣に手をかける。
私もまた、肉を食べるのをやめ、音のした方へと、ゆっくりと視線を向けた。
私の五感は、とっくに、その正体を捉えていた。
暖炉の火が、ゆらりと揺れる。
その光に照らされて、洞窟の入り口から、巨大な頭がぬぅっと現れた。
爬虫類特有の、鱗に覆われた頭。ぬめぬめと光る黒い瞳は、人間のような感情を一切映さず、ただ、獲物として、そして餌の匂いの発生源として、私たちを冷徹に観察していた。
裂かれたような口から、蛇のように長い舌が伸び、ちろりと空気中の匂いを確かめる。
大型のトカゲに似た、しかしその大きさは優に大蛇を超える、このあたりの岩場の主――岩窟トカゲだ。
肉の匂いに、そしておそらくは、ウルフの血の匂いにも釣られて、巣穴から這い出してきたのだろう。
グルルル……と、地を這うような低い威嚇音が、洞窟内に響き渡る。
ライハが、絶望的な顔で後ずさるのが、視界の端に映った。
私は、食べかけの肉串を、そっと地面に置く。
そして、壁に立てかけてある、私の半身へと、静かに手を伸ばした。