溶け出す心
夜の帳が、私を安息から見放して久しい。
眠りは、泥の底へと沈むか、あるいは悪夢という名の業火に焼かれるかの、二択でしかなかった。
今夜もまた、後者だった。
轟音。悲鳴。火薬の匂い。
私は、戦場に立っていた。まだ、私が私であった頃の、あの地獄だ。
守るべき者が、仲間が、次々と血の華を咲かせて散っていく。
そして、一番守りたかったはずの、太陽のような笑顔を持つ少女が、私を庇って――。
「――っ!」
短い呼気と共に、身体が跳ねる。
そこは、見慣れた薄暗い小屋の中だった。
悪夢の残滓が、冷や汗となって肌に張り付いている。
壁に向かって横になっていたはずなのに、いつの間にか、私は毛皮の上で身体を丸めていた。
「……大丈夫か?」
静かな、それでいて芯のある声が、背後からかけられる。
ライハだった。
彼は、いつから起きていたのか、静かに暖炉の火の番をしていたようだった。その目には、昨日の必死さとは違う、穏やかな心配の色が浮かんでいる。
私は答えず、ただゆっくりと身体を起こした。
ふわり、と温かい香りが鼻をかすめる。
ライハが、小さな鍋を火から下ろし、木の器にその中身を注いで、私の前にそっと差し出した。干し豆を柔らかく煮込んだ、簡素なスープだった。
「飯を作った。腹に入れておいたほうがいい」
私は、黙ってそれを受け取る。
温かい器が、かじかんだ指先にじんわりと熱を伝えてきた。
スプーンで一口、それを口に運ぶ。
そして、昨日と同じように、ただの作業として飲み込もうとした、その時。
「……なぜ」
声が、漏れた。
ライハが、不思議そうに私を見る。
「家族は、いずれ居なくなる。病で、寿命で、あるいは、戦争で。……なぜ、危険を犯してまで、妹を助けようとする?」
それは、純粋な疑問だった。
私が、守れなかったもの。私が、捨ててしまったもの。
そのために、なぜこの男は、命を懸けるのか。理解できなかった。
ライハは、私の問いに少しだけ驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに、困ったように、それでいて、どこか誇らしげに、微笑んだ。
彼は、少しだけ考える素振りを見せた後、当たり前のことのように、言った。
「家族だからだ」
「大事な、たった一人の妹だからだ。そこに、理由なんて要らない」
その言葉は、何の飾りもない、ただの事実だった。
だが、その事実が、二年間凍てついていた私の心の氷に、一本の、細い亀裂を入れた。
私は、再びスープを口に運ぶ。
その時、初めて、感じた。
豆の、ほのかな甘み。
塩の、しょっぱさ。
そして、身体に染み渡る、優しい温かさを。
味だ。
忘れていたはずの、味覚。
その感覚に、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
なぜか、視界が滲みそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。
私は、ゆっくりとスープを飲み干し、空になった器を置いた。
そして、ライハの目を、まっすぐに見つめる。
彼に何かを伝えるのは、これが初めてだった。
彼に何かを約束するのも、これが初めてだった。
「……行くよ」
私の短い言葉に、ライハは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
だが、すぐにその意味を理解し、彼の顔に、暗い雪原を照らす朝日にも似た、強い希望の色が浮かんだ。
「……! ああ!」
私はもう何も言わず、立ち上がる。
無駄な動きは一切ない。ぼろぼろの外套を羽織り、壁に立てかけていた大鎌を、まるで身体の一部であるかのように、音もなく手に取る。
冷たい鉄の感触が、二年間、何も感じなかった私の手に、しっくりと馴染んだ。
私が先に小屋の扉を開けて外に出ると、ライハも慌てて自分の荷物をまとめ、後を追ってきた。
どこへ向かう、とは聞かれない。彼は、私がこの雪原の全てを知っていると信じている。あるいは、信じるしかないのだ。
私は、人々が使う獣道や、比較的安全なルートを意図的に避けた。
目指すのは、より深く、より厳しい、生者の気配が一切しない、死の領域。
万年氷の洞窟があるとするならば、そういう場所にあるはずだ。
風が、頬をナイフのように切りつける。ライハは必死に顔を覆いながら、私の足跡を正確に辿ってくる。
どれくらい歩いただろうか。私が、ふと足を止めた。
「どうし――」
何かを言いかけたライハの言葉を、私は視線だけで制する。
空気が、変わった。
風の音に、飢えた獣の低い喉鳴りが混じっている。血の匂いを乗せた殺気が、肌を刺す。
気配は、八つ。
完全に、包囲されている。
「……動くな」
氷の破片のような声で命じると、私はライハの前に立ち、ゆっくりと大鎌を地面から持ち上げた。
直後、雪の中から、あるいは木々の影から、八頭の狼――このあたりの生態系の頂点に君臨する、氷牙ウルフの群れが姿を現した。
その体躯は子牛ほどもあり、その名の通り、牙は氷柱のように鋭く、爛々と光る瞳は、獲物である私たちを明確に捉えていた。
ライハが息を呑む気配がする。
だが、私の心は、昨日と同じ、凪いだ湖面のままだった。
私は、そっと目を閉じる。
そして、自らの魔力を、呪いのように身体に巡らせた。
――【自己強化】
目を開いた瞬間、私の周りの空気が、パリン、と凍てついたような音を立てた。
次の瞬間、私は地を蹴っていた。
先頭の一頭が、反応するより早く、その懐へ。
ヒュッ、と風を切る音。
銀色の軌跡が閃き、鮮血が白い雪の上に、鮮やかな花を咲かせた。
一体目の首が、胴から離れて宙を舞う。
私は止まらない。
舞うように、あるいは刈り取るように。
一体の喉を裂き、返す刃で、隣の個体の心臓を貫く。
迫る牙を最小限の動きでいなし、その勢いを利用して、回転しながら胴を真一文字に断ち割った。
それは、戦いなどという生易しいものではない。
ただの、作業。ただの、解体。
悲鳴も、苦悶も、私の耳には届かない。私の瞳には、ただ、刈り取るべき命の数だけが映っていた。
七つの命が、わずか数十秒のうちに、物言わぬ肉塊へと変わる。
そして、最後の気配が、私ではない、背後の存在へと向かうのを、感じた。
「ライハ!」
我知らず、声が出た。
最後の八体目が、この惨状に臆することなく、無防備なライハへと牙を剥いて飛びかかっていた。
恐怖に足がすくんだライハが、雪の上に無様に倒れ込む。
――間に合わない。
誰もがそう思う、刹那。
私の身体は、思考よりも速く、限界を超えていた。
電光石火。
まるで空間を跳躍したかのような速度で、ライハとウルフの間に滑り込む。
振り抜かれた大鎌は、月の光を宿した残像を描き、ライハの顔すれすれで、八体目の首を、正確に刈り取った。
どしゃり、と、首を失った巨体がライハのすぐ横に落ちる。
静寂が、戻ってきた。
あたりに漂うのは、死の匂いだけだ。
私は、呆然と座り込むライハを見下ろす。
そして、何も言わず、ただ、血糊もついていない方の手を、彼に差し出した。